アレックス 2

 朝の光が閉まった窓の隙間から、細く差し込んできている。

 目が覚めたエルザは、ベッドの傍らに置かれた椅子でアレックスが寝ているのに気が付いた。

 夜通しエルザを見守ってくれたのだろうか。

 呼吸はだいぶ楽になっていた。それでもまだ、あちこちの痛みは残ってはいる。

 でも、この程度の傷ですんだのは、アレックスのおかげだ。

 エルザはゆっくりと身体を起こした。

「え?」

 昨日は気づかなかったが、服の袖が異様に長い。そしてぶかぶかだ。

 明らかにエルザの服ではない。どうやら、これは男物のシャツである。

 よく考えたら、地べたに寝そべったり、かなり乱闘になったのだ。かなり服が汚かったに違いない。やむを得ない処置というやつだろう。

 男物のシャツを着せられた意味は、他に着せるものがなかったと思われた。

 肌を見られたかもしれないけれど、それは医療行為のひとつであって、それ以上の意味がないことくらい、エルザも理解できる。

 それにしても、昨日全く気が付かなかったということは、相当、体調が悪かったということだろう。

 ただ、やはり男性の服を着ている今の状態は、恥ずかしい。

 世間が見たら、誤解しそうな状況だと思う。もちろん、エルザが話さないかぎり、世間とやらがこのことを知る由もないのだけれど。

「エルザ?」

 アレックスが目を開けた。

「もう、大丈夫なのか?」

「はい」

 エルザは頷く。

「ずっと、看ていてくださったのですか?」

「たいしたことはしていない」

 アレックスは首を振る。

「おかげさまで、だいぶ良くなりました」

 今は特に気持ちの悪さも、息苦しさもない。大きなけがではなかったのだろう。とっさにとった行動が全面的に行けないことだとは思わないけれど、こうして無事でいられたのは、アレックスのおかげだとエルザは思った。

「大丈夫でも、今日は一日ここにいろ。事件の調書も作らないといけないから」

「でも、私、仕事が」

 エルザがいなければ、店は開かないし、依頼の仕事も残っている。

 休みの予定でもないのに休むと、顧客がしだいに離れていく可能性があるのだ。自営業者は、休めるようで、なかなか休めない。せめて休業のお知らせくらい出しておきたいところだ。

「今日は休め。お前の話を聞かないと詳細がわからない」

「でも」

 調書の聞き取りは、一日も必要なのだろうか。

 それに話せることは、あまりないとエルザは思う。舟がやってくるのを見て、舟に乗り込んだ。それだけだ。

「家に帰ったらすぐ仕事する気満々のお前を、帰せるわけないだろうが」

 アレックスは立ち上がり、ベッドに近づきエルザの髪にふれる。

 温かくて大きな手だ。エルザの胸がドキリと音を立てる。

「今無理したら、治るものも治らない。今日一日、仕事を休んで逃した仕事があったとしても、今後の人生のことを考えたら、休むべきだ」

 アレックスの目は優しいけれど、エルザに有無を言わせない雰囲気がある。

「……そうですね」

 エルザは頷いた。アレックスの言うとおりだ。残念だけど、若いころとは違って傷の治りも遅い。頭を打ったのだから安静が必要というのも、理解できる。アレックスの方が正しい。

「それに昨日のエルザの服は、洗濯をしちまった。少なくとも、乾くまではここにいろ。その格好では帰れないだろう?」

 ニコリとアレックスはいたずらっぽく笑う。

 最初から、エルザを休ませるために仕組んだのかもしれない。服がなければ、さすがのエルザも勝手に脱走する気にはなれないだろう。策士だ。

「私、信用ないんですね」

 エルザは苦笑する。完全にいろいろ見抜かれていて、先回りされて。アレックスの用意周到さは、むしろエルザへの優しさの裏返しだ。

 それでも、やっぱり素直にそれを受け入れるのはなんだか悔しくて。

「お借りしておいて、こんなことを言うのも失礼ですけれど、せめて女性の服はなかったのですか? 大きすぎます」

 エルザは軽い抗議をした。

「うちの使用人は、みんな通いでね。服は俺のしかないんだ。悪いな」

 アレックスは肩をすくめる。

「そうですか」

 アレックスの家族の話を聞いたことはないが、一緒に住んでいないことはエルザも知っている。もう、何年もアレックスは一人暮らしなのだ。だから、住み込みの使用人がいないのなら、家に女性ものの服がないというのは、本当だろう。

 ひょっとしたら。使用人以外の女性が来ることだってあるかもしれないが、そんな特別な女性の服を、他の女性に貸すことは、さすがにないと思われる。少なくとも、アレックスはそこまでデリカシーのない人間ではない。

「しかしまあ、エルザが俺の服を着てるってのは、ちょっとセクシーだよな」

「何言っているんです」

 エルザは顔に熱が集まるのを感じた。

「真面目な話、怪我をしていなかったら、理性が持たないと思う」

「そういう冗談は、やめてください」

 エルザはうつむいた。

 こういう男女間の艶めいた会話に、エルザは慣れていない。

 おそらく、アレックスも本気で言っているわけではなく、社交辞令めいたものなのだろうとエルザは思う。

 同年代の多くの女性なら、微笑んで、気の利いた事も言えるのかもしれないが、エルザには無理だ。何一つ言葉を返せない自分が酷く幼く感じてしまう。

 そして、アレックスの言葉に心をかき乱されて、顔に熱が集まってしまっている自分をエルザは恥じる。

「冗談ではないし、からかっているわけでもないんだが」

 そう言って、いきなりアレックスは身をかがめ、エルザの額にキスを落とした。

 突然のことに、エルザは頭が真っ白になった。

 声も出ない。

「飯を持ってくる。寝ていろ」

 固まったエルザに気づいたのか、気づかなかったのか。アレックスは部屋を出て行った。

ーー額にキスくらいで、動揺してはだめよね。

 エルザは、唇の感触の残った額に手を当てながら、自嘲する。

ーーこういうのは、卑怯だわ。

 エルザのことを知っているアレックスなら、エルザが気の利いた返しができるはずもないことくらい、わかっているはずだ。それなのに、なぜこのようなことをするのだろう。

「……からかわないでよ」

 エルザは独り言つ。

 アレックスにとっては、大したことはないのだろう。

 そう言い聞かせ、騒ぐ胸を、エルザは必死で鎮めようとする。

 だが、そう思えば思うほど、鼓動は激しくなるばかりだった。


 

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