リン
ラエルの森から帰ってきた翌朝。
エルザは、部屋の掃除を始めた。
夕刻にアレックスが報酬を受け取りに来る。現金だけであるなら、店で渡せばいいのだが、食事を出すとなると、居住空間に入ってもらう必要がある。
面倒と言えば面倒なのだが、心が少しだけ浮き立つところもあって、かなり複雑な気持ちだ。
店先の掃除をしていた時だった。
「え?」
エルザの店の前の道を歩いていた少女が、突然座り込んだ。かなり体調が悪そうに見える。
「どうかしたの?」
慌てて、エルザは駆け寄った。
この辺りでは見たことのない少女だ。年のころは十から十三歳くらい。背はまだ低い。
かなり痩せていてる。服装から見ると、浮浪児というわけではなさそうだが、あまり裕福な家の子供ではないだろう。手荷物はなく、靴が随分とくたびれていてボロボロだ。
「み……みず」
「水? わかったわ。ちょっと待っていて」
エルザは家に戻って、大慌てで水をくんで、少女の元に戻った。
日は高くのぼり、じんわりと汗をかく。
「どうぞ」
エルザが差し出した水を、少女はものすごい勢いで飲み干した。
「大丈夫?」
「はい。ありがとうございます」
少女は小さく頭を下げ、立ち上がろうとした。身体がふらふらしている。
「待って。そんな身体じゃ無理よ。少し休んで」
エルザは思わず立ち去ろうとする少女を引き留めた。病気ではなさそうだけど、あきらかに疲労のいろがみえる。
「時間が……ないんです。行かないと」
「どこへ?」
まだ幼い少女が、こんな状態でどこに行くのか。
他人事ではあるが、心配になった。
「『ナオス商会』というお店を捜しているんです」
ずいぶんと切羽詰まった表情である。
かなり面倒な事情がありそうだ。
「そのお店に何があるの?」
「ひとを捜しているんです」
「ひとを?」
少女が頷く。
この街で人を捜すのは簡単なことではない。『商会』というのなら、店先に何か並べて販売している小売店ではない可能性もある。
少なくともこの近所にある店ではないとエルザは思う。エルザも店を構えている以上、近隣の店との付き合いはそれなりにしている。
「この街にあるって聞いたんです」
「どの地区かは?」
エルザの質問に少女は口ごもる。
おそらく、そこまでは聞いていなかったのだろう。ひょっとしたら、この街の大きさを知らなかったのかもしれない。
「あなたは、どこから来たの?」
「ハナザ村からです」
「ハナザ村!」
エルザは驚きの声を上げた。
徒歩なら三日ほどかかる距離である。
「まさか、ひとりで歩いてきたの?」
「……はい」
少女が頷く。
少女の様子から見て、宿には泊まったのかもしれないが、ほぼ飲まず食わずの強行軍だったのかもしれない。
「わかったわ。とりあえず、うちに来なさい。少し食事をした方がいいわ」
「でも……」
少女は戸惑いの表情を見せる。見ず知らずのエルザの言葉に甘えていいものかどうか迷っているのかもしれない。
「大丈夫よ。お金をとったりしないから。遠慮しないで」
「……はい」
少女はこくんと頷いた。
エルザの家の台所はそれほど広くはない。ただ、一般家庭にはあまりない、魔道調理器具が並んでいる。そのせいか、かなり見慣れないものが多いらしく、少女はきょろきょろと目を動かしている。
「たいしたものではないけれど。私もお昼ごはんにしたいから、一緒に食べましょう」
エルザは、テーブルの上に二人分の野菜のスープとパンをのせる。
それを見た少女の腹が大きく音を立てた。
「いただきます」
丁寧に頭を下げてから、少女はパンに手をのばす。
相当に空腹だったようで、あっというまに食べ終わってしまった。
「まだ、おかわりあるけど?」
エルザの言葉に、少女の目に迷いのいろが浮かぶ。欲しいけれど、遠慮しているのだろう。
エルザはくすりと笑って、新しいパンとスープのおかわりを彼女の前に置いた。
「……ありがとうございます」
少女は頭をさげ、おかわりを食べ始めた。
「ねえ。あなた、名前は?」
少女の食欲が落ち着き始めたのを見計らって、エルザは、にこやかに質問する。
「……リンです」
少女は答えた。
「事情をうかがってもいいかしら?」
「はい」
リンは、頷く。
「父を捜しているのです」
「お父さんを?」
「はい。と、いっても私は、会ったこともないひとです」
リンはふうっと息を吐いた。
「私の母は『ナオス商会』ってところで昔、働いていたのです」
「それは、いつのお話?」
「私が生まれる前、十年以上前のことです」
どうやら、かなり複雑な事情があるようだ。
「母の恋は周囲に反対され、母は、父に酷いことを言って、逃げるように田舎に帰ったのです」
リンは首を振った。
「そして母は、私を産んで育ててくれました」
「……そう」
「母は、病の床についてから、うわごとでいつも父にわびているのです」
それでも、リンの母親は、父親がどこの誰なのか、はっきり話さないらしい。わかっていることは、この帝都の『ナオス商会』に勤めていた時に、知り合ったということと、父の名前が『フィリップ』という名だということだけだと言う。
「私、ハナザから出るのは初めてで、王都の街がこんなに広いとは思っていなくて……」
ハナザ村といえば、村中全てが知り合いのようなところだ。そこまでではないにしろ、街に入ればすぐにどこかわかると思って、ひとり旅をしてきたらしい。
病気の母親は今日明日というわけではないということらしいが、あまり猶予はないとのことだ。
「わかったわ。私はその商会を知らないけれど、そういうことに詳しいひとを知っているから、聞いてあげる」
「本当ですか?」
リンの目が輝く。
騎士なら、この王都のどこかにあるその店を捜せるかもしれないと思う。
この件、アレックスに苦労をかけることになりそうだ。
それでも、この少女を放っておくことはできない。
エルザは、両親を亡くして行くあてもなくさまよっていた時、義父に拾われた。ちょうどリンと同じくらいの年齢だった。義父が拾ってくれなければ、エルザはどうなっていたかわからない。
ーー状況は全然違うのにね。
エルザはリンに向かってイタズラっぽく笑う。
「その代わり、今からパイを焼くのを手伝ってね」
「は、はい」
ーーまた、借りをつくっちゃうな。
エルザは、心の中のアレックスに、そっと頭を下げた。
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