第12話 ノットコミュニケーション バットネットワーク

「来た」鯰が言った。

「何が?」恵比寿は訊いた、が、大概予測はついていた。「新入社員?」

 しかし鯰は答えない。池の中で身をくねらせ、向きを変えて泳ぎ続ける。

 ふ、と短い溜息をついて、恵比寿はまた壁のカレンダーを見た。鹿島が戻ってくるまで、あと二日だ。それまでは、先日のような失態なく責任を持って鯰をここに留めておかなくてはならない。新入社員たちへの、自分からせめてもの『支援』であり、まあいってみれば『入社祝い』のようなものだ。

 顔を合わせたり話をしたり、繋がりを持つ気は――今回は――ないのだが、それぐらいはやってやろうと思う。その決意がどれだけ強いものかというと、あの日以来恵比寿は社内で酒を呑んでいない。一滴たりともだ。それほど、彼の決意は固かった。

 とはいえ、まだ二日目だった。


「出たか」大山も彼のオフィスの中で一人呟いた。「現場に」

「練習用のですけどね」木之花が彼女のオフィスから返事を返す。

 それぞれのオフィスというのはつまりそれぞれの使う事務机周辺ということなのだが、彼らは好んでその空間を「陣地」と呼んだ。

「けどなんやかんやで、実際の現場と繋がってるわけだからね」大山は彼の陣地の中で肩を竦めた。「油断はできないよ」

「縁起でもないことを」木之花が彼女の陣地の中で苦笑する。「まあ今は緊張するばかりで、何が起きても起きなくても衝撃を受けるでしょうね」

「あー、見に行きてえ」大山が彼の陣地の中で笑う。「面白そう」

「社長」木之花は彼女の陣地の中で眼を細める。「お仕事なさって下さい」

「あーい」


「この先天井が低くなりますから、頭を打たないように気をつけて下さい」天津が肩越しに振り返りながら告げる。

 新入社員たちからの返事の声はなかった。彼らは、何処とも知れぬ洞窟の中を、息を切らしながらただ歩き続けていた。額にかけたゴーグルの上から、白い光が数歩先を照らす。だがその先は不気味な闇が続くのだ。足許の道も、平坦な部分など皆無で、常に上るか下るか、跨ぎ越すかしなければならなかった。

「あと、どれぐらい歩く感じですか」結城が荒い息の中質問した。

「もう少しです」天津はにこりと微笑んだが、その回答は数分前、時中が異口同音で問いかけたときのものと同じだった。「川がありますので、それを越えた所になります」

「かわ?」結城は息を切らしながら訊き返した。

「はい」天津は前を向いたまま頷く。「小さい川ですけどね。ただ水はかなり冷たいので、足を踏み入れたりしないように注意して下さい」

「わかりました」本原が息を切らしながら返答する。

「その川の水、飲めますか?」結城は訊いた。

「うーん」意外なほどに天津はその問いに対して考え込み始めた。「まあ、天然ミネラル水といえばそうなんですが……うーん」


「やめといた方がいいよ」息を切らしていない声が、どこからか小さく聞こえた。「若い者は体が弱っちいから」


「え?」結城が足を止め、きょろきょろと周りを見回す。「誰の声?」

「――」時中はゴーグルの下の眉をひそめる。

「――」本原は両手で口を覆い音を立てて息を呑む。

「――」天津は若干不服そうに唇を尖らせたが、すぐに振り向き「まあ、そうですね。飲まない方がいいと思います」と答え、笑顔を見せた。

「今のは、地球さまのスポークスマンのお方のお声ですか」本原が息を弾ませて問う。「この間の、『キャパーオーバー』の」

「――」天津は口の端を引き下げて本原を見た。「……そうですね」小さく答え、それから岩天井を心配そうに見上げる。

「鯰(なまず)、ですか」時中が問う。

「――はい」

「どうして鯰には我々の事がわかるんですか」時中がさらに問う。「どこかから我々を見ているんですか」

「――」天津は片眉をしかめて時中を見る。「池の中から、です」

「いけ」結城が問い返しかけ、

「うるさい」本原がさえぎった。

「多分、池の中、です」天津は苦笑した。「うちの課長がちゃんと見張りをしてくれていれば」

「どういう事ですか」時中がまた問う。

「ええ、その事についてはまあ、また機会を見てゆっくりご説明します」天津は手で洞窟の奥を示した。「今は、練習場まで行きましょう」

「鯰というのは我々の敵なのですか」時中は更に問う。「我々の研修を邪魔立てしようとしているんですか」

「いえ、それはないです」天津は前を向いたまま首を振る。「ただ、まあ……お喋りが過ぎるところがあって」


「叫ぶよ」


 鯰の声が唐突に割って入る。

「うわ」天津が肩を竦め両手で耳を塞ぐ。「やめろ」

「え?」結城がまたきょろきょろと見回す。

「――」時中も眉をひそめて左右に眼を走らせる。

「――」本原は両手で口を覆い、息を呑む。

「冗談さ」鯰の声は面白くもなさそうに続けた。「今は恵比寿っちが起きてるからね」

「ああ……」天津は耳から手を離した。「なんだ」溜息交じりに言う。

「恵比寿っちとは誰ですか」時中が質問を続ける。「さっき仰っていた、課長の名前ですか」

「はい」天津はうな垂れるように頷いた。「鯰が池から逃げ出さないように、瓢箪で押えてくれているんです」

「ひょうたん」結城が問い返しかけ、

「うるさい」本原がさえぎる。

「本来は、鹿島取締役が要石(かなめいし)という道具で押えているんですが、今鹿島さんは出雲に出張に行っていて、その間恵比寿課長が代りに瓢箪で押えているんです」

「おお」結城は感動したような声を挙げた。

「押えていないとどうなるんですか」時中が訊く。

「岩盤が、不安定になります」天津は背で答え「川です。足許気をつけて」と言い振り向いた。


 ちょろちょろちょろ


 川、と称するには程遠いくらいの、細く頼りなさげな水の流れが、三人の新入社員の視界に入った。

「じゃあ、あれですね」結城が、先に川を跨ぎ越す天津に続き脚を目いっぱい広げて跨ぎながら言った。「今我々がこうして無事に研修できているのも、その恵比寿課長のおかげというわけなんですね」

「――」天津は少し驚いたように眉を持ち上げ結城を見た。

「我々は護られていると、そういう事なんですね」結城は顔中で笑って見せた。

「――はい」天津は頷いた。

 だらしなく椅子の背もたれに寄りかかり、缶チューハイを片時も離さない、中年の締りの欠けた男神の姿出で立ちが浮かぶ。だがその男神に対してそのような、感謝の念とも取れる思いを持つ者に、初めて出会った気がした。

 結城の背後で、本原が、そして時中が川を跨ぎ越して来る。

「恵比寿課長、ありがとうございます」結城は両手を合わせ目を閉じて首を垂れた。「皆も言おう。はい。恵比寿課長、ありがとうございます」

「恵比寿課長、ありがとうございます」本原が両手を合わせ復唱するが、表情には一変もなかった。

「――」時中は手を合わせることも首を垂れることも一切行わなかった。

「はは」天津はなんだか自分が礼を言われたかのようにくすぐったい気分になった。

「届きますかね、我々の感謝の気持ちは」結城は岩天井をぐいと見上げて言った。

「ああ……そうですね」天津は頷く。「鯰が、伝えてくれるでしょう」


     ◇◆◇


「ふん」鯰は池の中でぷいと横を向き、すいすいと蛇行して泳いだ。

「ん」恵比寿は顔を上げ池の方を見た。「何」

 鯰は何も答えず、ただ泳ぎ続けた。恵比寿はしばらくそれを見ていたが、矢庭に背を伸ばし肩を回し首を回し、腰から上体を左右にひねった。

「退屈なんでしょ。呑めば?」鯰が池の中から言う。「酒」

「――」恵比寿は答えに詰まり、しばらく息をすることも忘れ固まっていた。

「あんな、知りもしない新人なんて、どうだっていいじゃん」鯰の声は続く。「別に義理立てする必要なんかないよ」

「――」恵比寿はちらりと、部屋の片隅の冷蔵庫を見る。

 昨日、一本も開けていないから、あとビールが九缶と、チューハイが十三缶と、ハイボールが六缶……つまみはサラミとスモークチーズと、ナッツ類がなんかあったっけ――


「恵比寿くん」誰かが呼ぶ。


 恵比寿はハッと眼を見開いた。きょろきょろ、と辺りを見回す。だが誰もいない。

「鹿島さん?」そっと呼び返す。

 だが返事はない。しばらくの沈黙の後、恵比寿はふ、と短い息をつき、立ち上がってコーヒーを淹れた。

「ちっ」鯰は池の中でぷいっと横を向き泳いだ。

 ――あー、叫びたい。

 そんなことを、鯰は泳ぎながら思った。

 ――けゃー

 心の中で叫んだつもりになってみる。だがそれは飽くまで“つもり”であって、鯰の叫びは今は完全に封じられていた。

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