負社員
葵むらさき
第1話 極めて前向きに検討させて頂くと共に、一切の関与を否定致します
時はゆっくりと、過ぎてゆく。
ず
ずず
ず
……
ず
そしてそれは果てしなく悠長な、運動だった。
ずず
ず
ず
……ず
鉱物の粒子は水に浸され、水に泳ぎ、互いに擦れ合い削り合った。小さな、ほんの小さな粒たち。けれどそれは、決して小さな、意味のなき存在ではないのだ。
そのことを解っているものが、この世界にいったいどれだけいるだろうか。
◇◆◇
「ふうーう」女神は頬を桃色に染め、大きく息を吐いた。「今日の酒、いいわ」
「へえ。旨いか」男神は喰う方に専心しながらも興味を示して訊いた。
「旨い」女神は杯を眸の高さに持ち上げ、とろりとした眼差しで答える。「なんていうのかしら……いつまでも、この世に存在していたくなる気分にさせるわ」
「ほう」今一柱の男神も肩をすくめながら言葉を添える。「その酒を供えた人間、相当な強運を授かりし者だのう」
「そうね」女神は杯を唇に運び、堪能する。「この酒を醸した杜氏ともども、あたしの護りの下に置いてやるわ」
「ははは」先の男神は背を丸めて低く笑う。「強運即ち幸運、とは」
「限らねど、な」後の男神が、ほとんど息だけの囁きで続ける。
「ふうーう」女神は自分の満たされし声のもと、そんな悪態を耳に届けずにいられたのだった。
透明な酒の面が、女神の手の動きに合わせてきらきらと光彩を放つ。
それを、うっとりと見つめる女神の眸もまた煌きを映し、そしてふいにそれは、どこか物哀しげな色になった。男神二柱はすぐに気づいたが、特に何事も口を挟みはしないでおいた。
「あたしは」女神の方が、自分からそう言った。「もしかすると、いまだに忘れられないでいるのかも知れないわ」
男神たちはそれにも特に答えることをせずにいた。それはもう何度となく女神が口にしてきた言葉であるし、それに対してどう答えればよいのかということもまた、男神たちにはいまだ知れずにいたのだ。
「こんなに、長い時が経ったというのにね」女神は遠くを見つめるような眼差しでそう言い、また酒を一口すすった。「何も変わらない」
それは違うさ。
男神たちは、そう言いたかった。何も変わらぬことは決してない。少しずつ、確かに、何かは――すべては、変わってゆきつつあるのだ。気づかぬほど少しずつ、ほんの僅かずつ。
けれど男神たちはそれもまた、口に出せずにいたのだった。
――いつまでも、この世に存在していたくなる気分にさせる――
女神の心中を思えばまた、そう言った先刻の女神自身の言葉にも何かしら深き想いが込められているのを感じる。ゆっくりと、とろりと、瞬きをして遠くを見つめる女神の面差しに、男神たちはそっと、その酒を醸し奉献してくれた人間たちに感謝の意を抱くのだった。
◇◆◇
「結城修さま、あなたの採用が決定しました。9月25日、来週の水曜日に当社にお越しください。ご来社の際には年金手帳と雇用保険被保険者証をご持参ください」
「はいっ。はい、わかりました。ありがとうございます」
結城はスマホを耳に当てながら、見えない相手に向かって幾度もお辞儀をした。
「それではお待ちしています」
「はいっ。よろしくお願いします」
「失礼いたします」
「はいっ。失礼いたします」
最後に深くお辞儀をし、見えない相手が電話を置くまで、結城は下げた頭を上げなかった。
まさかの、スピード採用だった。面接試験を受けたのは一昨日であり、筆記試験を受けたのは五日前であり、履歴書を持参し初訪問したのは七日前であり、そもそも求人に対して応募したのは九日前であった。
無論、正社員としての雇用である。正社員の雇用に際してこれほどまでのスピード採用をとるなどという企業が、果たして「良い会社」といえるものかどうか、中には疑問を抱き調査を計る向きも、いるかも知れない。だが結城修、彼にとってこの、たった今自分を採用すると通知して寄越したこの企業――名を『新日本地質調査株式会社』という――は、実に76社目の応募先であったのだ。
そう。それだからこそ、見えない相手に向かい彼は幾度も、下げ足りぬと叫び出さんばかりに幾度も幾度も、スマホを耳に当てながら頭を下げ続けたのだ。
深く、自身の体の柔軟性の限度を幾分か超えるレベルにまで、深く。
初出社日は、よく晴れた日だった。いちど面接に訪れた企業の建物なので割合緊張もなく訪問でき、電車の窓から見る景色にも前よりは意識を向けることができた。
どんな仕事を任されるのだろう、という、わくわくした気分が結城の中を占めていた。地質調査……ドリルで穴を掘ったり岩を削ったり、何がしかの鉱物を取り出したり調べたり、するのかな。けど募集内容としては「イベントスタッフ募集」という事だったよな? 地質調査に関わる、イベント……ドリルで穴を掘ったり岩を削ったり、何がしかの鉱物を取り出したり調べたりしながら歌ったり、踊ったり、するのかな。そんな妄想を走らせると、ますますわくわくしてくる。
ああ、楽しみだ! 俺はこの企業で精一杯、全力で頑張るぞ!
結城は揺れる電車の中、力を込めて拳を握り締めた。
「ではこちらをよくお読みになり、署名、捺印をお願いします」濃紺のスーツに身を包んだ女はそう言いながら、初登社した三人――結城と、三十代くらいの長身の男と二十歳そこそこぐらいの小柄な女――に、A4サイズの書類を2枚ずつ配った。
『労働契約書』と、その紙の一番上には書かれてあった。
でかい字だな、と結城は一見して思った。労働契約書と称される書面について結城が持つイメージによれば、それは大変小さなサイズの文字により綴られ、また漢字、それも画数の多い、黒っぽい漢字を多用され、とても読む気になれない、小難しくて堅苦しくて近寄りがたい、事務的形式上の通過アイテムだった。次の扉を開くためだけに使用する、小さなカギのようなものだ。だが今手渡された書類に書かれてある文字は、十インチだろうか、大層大きな、読みやすいものだった。使われている漢字も、労働契約書にしては少ない気がした。
これは、リアルに読んどけ、という暗黙の指示なのか?結城はそのように思った。そして実際に書面に目を通した。二、三行読んだところでちらりと他の二人を見ると、二人も同様、手元の労働契約書に目を落としていた。きっと彼らも“暗黙の指示”を肌に感じたのだろう。
俺は一人じゃない――ふっと、結城の中にさわやかな風が流れた。
労働契約書の内容は、ごく普通の労働契約書だった。会社の名称は「新日本地質調査株式会社」であり、その後は「甲」と称されていた。一方結城は例に洩れず「乙」だ。勤務時間と休憩、勤務日数、給与、交通費についての記載。業務内容については「地質調査にかかるイベントの準備、進行、及び後片付け」と書かれてある。結城が求人誌で見た『仕事内容』と寸分違わないものだった。
「乙は、甲の業務内容及び乙の職務内容について、一切口外しない事とする」
紙の真ん中辺りに、そういう一文が印字されていた。
土地を掘り起こしている最中に、何か重大な発見とかがあったりするのかもな――結城は十インチの活字を視覚野に受容させる作業の裏で、そのような妄想を走らせた。金塊、とか、小判、とか、遺跡、とか、白骨、とか――
一通り読み終えた後、結城はボールペンを手に取り署名し、印鑑を押した。
「ありがとうございます」労働契約書の一枚を三人から回収した濃紺スーツの女は、薄く微笑んで言った。「では改めまして、皆さん、この度はご入社おめでとうございます」深く一礼する。「総務部の木之花と申します」
新入社員三人は、座したまま机の上に頭を下げた。
「ではお一人ずつ、簡単に自己紹介をしていただきましょう」
木之花の指示で、まず長身の男が席から立ち上がった。
「時中伸也です。金村市出身です。よろしくお願いします」実に簡単な自己紹介であった。
次に、小柄な女が起立した。
「本原芽衣莉です。よろしくお願いします」更に簡単な自己紹介であった。
約一秒半、室内に人の声は響かなかった。
結城は本原を見、木之花を見、その目の頷きに促されて起立した。
「えー、結城修と申します、えー、この度こちら、新日本地質開発様にお世話になる事になり、えー、とにかく明るく、元気に、前向きに、いろいろ勉強させていただいた上で、えー、努力、邁進、して参りたいと思います、えー、わたくしは趣味でスキューバダイビングをやっておりまして、えーそれで、この広川市の海にも何度も潜っておりまして、えー、まあいってみればこの辺りの海は私の庭のようなものでして」
「二年前に人おぼれて死にましたよね」突然時中が割り込んできた。「あの時も潜ってたんですか」
「いやっ」結城は声量を大にして否定した。「あいや、もちろんその事故のことはもう、昨日の事のように、記憶させていただいてますが、えーと、わたくしは当時はこの近辺の海には潜っておりませんでした、つまり事件とは無関係で」
「事件、だったんですか」本原も言葉を差し挟んできた。「事故、ではなく」
「いえっ、えー、あれは事故、ですね、事故です、はい」結城は更に声量を大にした。「ですので、わたくしは一切、関与しておりません」
「ああ、まあご趣味はスキューバダイビングをやっていらっしゃるということなんですね」木之花が後を引き取った。「まあこれから毎日、皆さん顔をお合わせになる事となりますので、また追い追いお互いに理解を深めていただければと思います」
「はいっ」暗に『話が長い』ことを指摘された点には思い及ばず、ただ闇雲に結城は、元気よくまとめた。「とにかく頑張りたいと思います。よろしくお願いいたします」深々と礼をする。
「では皆さんに、今後のスケジュールについてご説明します」木之花は再びA4サイズの紙を新入社員たちに配布した。
その言葉通り、それには「研修スケジュール」という見出しが振られていた。
「おお」結城は感動詞を口にした。「早速明日から研修が始まるんですね」
「はい」木之花はにっこりと頷いた。「明日も本日と同時刻にこの部屋に来て頂きたいと思います。そしてまず業務の内容についての説明を私からさせて頂きます。その後、教育担当の天津という者が皆さんに」そこで木之花は、自分の手に持つ「研修スケジュール」紙に目を落とした。「『地質について』の基礎座学を行います」
「『地質について』」結城が興奮気味に復唱した。「それはやはり地学的なゲンブガンとかカコウガンとかマントルがどうのとかそういう」
「よくご存知ですね」木之花は目を細めて結城の言葉を遮った。「その通りです。地球内部の話から、実際に私たちが扱う土壌の構成物まで、さまざまな知識を学んでいただきます」
「おお」結城は再び感動詞を口にした。「壮大なスケールですね」
「アマツさん、という方は、地質学者の方なのですか」本原が質問した。
「専門、というわけでは、ないのですが」木之花は言葉を選ぶように視線を天井に向けた。「仕事に必要な知識については、豊富に持ち合わせていますのでご安心下さい」目を本原に戻し、また細める。
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