第5話

 ミグロが二本足で歩き始めたことに、僕も岬も驚いた。4本足で歩いて追いかける。これまでも、何度も二本足で立つことに挑戦してきた。岬の真似をしていた。もっと言えば、岬のようになりたかった。人間になりたかった。そう感じたことは、これまで何度もあった。岬と同じものを見て、同じものを食べ、同じものを感じる。それが望みだった。

 岬と、文字通り肩を並べて歩いた。もしかしたら、岬がネコになってしまったように、僕も二本足で立てるかもしれない。ミグロの歩く姿を見ながら、僕も恐る恐る腰を起こした。前足の力が抜け、後ろ足だけで体重を支える。歩ける。右足、左足、交互に足を運ぶ。後ろ足に連動するように、肩からぶら下がるばかりになった前足が前後に降られる。


 僕の様子を見て、岬も同じように二本足で歩き出した。岬が僕に笑いかけた。人間に比べて表情が読み取りにくいネコの姿でも、岬のことならすぐにわかる。僕はそれがとにかく嬉しかった。

「ねえ、待ちなさいってば」岬がミグロの隣に追いついた。「王様に会って、うまくいかなかったらどうするのよ」

「その時は、また改めて考えましょう。それより、もう少しでイルミナリに入ります」

「入り口があるのですか?」僕はミグロと岬の間を後ろからついて歩いていた。ミグロが僕の方をちらりと振り返る。


「入り口はありません。さて」ミグロがそこで言葉を切った。その時、急に視界が晴れた。それと同時に、騒々しい空気が僕たちのまわりを取り囲んだ。左右にはテントでできた小さな露天がいくつも並んでいた。そこには僕たちと同じように、二本足で立つネコが客に声をかけていた。

「今朝あがったばかりの新鮮な魚はいかがですか?」

「とれたての果物はいかがですか? 今なら試食もできますよ」

「食べても腰を抜かさない、新種のイカです」

 商店の周りを取り囲むように、買い物客がごった返している。買い物かごを下げた姿は、テレビで見た昔のドラマを彷彿とさせた。人いきれならぬネコいきれが充満するここは、市場といったところだろう。


「ここが」

 間違いなく、ここはネコの世界だ。

「イルミナリです。ここはその玄関口、トルネイ市場です」僕の隣で、ミグロが言う。通路の真ん中に立つ僕たちを避け、ネコの流れが左右に分かれる。すれ違いざまにちらちらと視線を向けられるが、さして不審がられている様子でもなかった。

 ミグロが歩き出した。「歩きましょう。邪魔になっているようだ」

 ミグロを挟むように立っていた僕と岬も続いた。商店の前を通るたび、香辛料匂いや砂糖の甘い香りが漂ってくる。僕の鼻孔は目まぐるしく移りゆく匂いに翻弄されるように、ひくひくと疼いた。

「なんか、想像と違う」左右を見渡しながら、岬が唇をすぼめた。「もっと、のんびりした雰囲気だと思っていたのに」


 ネコの世界に来たことに、もう違和感がなくなったのだろうか。岬の適応能力の高さにはいつも驚かされる。僕が話をできると知った時も、驚いたというよりは嬉しそうだった。

「成立の過程は違っても、文明社会を築くという意味では同じです。収斂していくのでしょう」

「収斂ってなんですか」ミグロが話す言葉は時に難解だ。

「違うものが似た形になるって感じじゃない。ほら、魚とイルカとペンギン、種類は全然違うけど、みんな同じような形でしょ」岬が僕の顔を覗き込んで言う。「収斂進化ってやつ」生物学的な言葉のようだ。


「そういうもんか」

「岬殿は、見かけと違って聡明なお方のようですね」

「あら、見かけは白猫さんと大差ないじゃない」ミグロはそれに髭さえ動かさない。続く言葉といえば、「白ネコさんはそろそろやめていだたきたい」それだけだった。

「ミグロ、なんか言いにくいのよね」

「人には、そうかもしれませんな」ミグロがひとつ息を吐いた。

 トルネイ市場は500メートル以上続く、長大な市場だった。ネコの僕たちにとっての500メートルは、縄張りの範囲を超えるような距離だ。半分ほどの距離を進んだ頃、それまで平坦だった道が、わずかに下がり始めた。視界が少しだけ開けた。坂を下りきった先に、大きな弧を描くように、堀のようなものが見えた。その堀の向こうに、商店とは違う雰囲気の建物が見えた。


 トルネイ市場を抜けると、目の前に大きな橋が現れた。堀を渡す木造の橋梁は緩やかなアーチを描き、対岸に向かって伸びていた。アーチの中央に、橋の雰囲気にそぐわない柱のようなものが立っているのが見えた。太陽の光を鈍く反射しているそれは、金属のように見えた。

「この向こうに、王様が?」

 僕たち以外、橋を渡るネコはいなかった。アーチの真ん中まで進むと、そこでミグロが立ち止まった。ちょうど、金属柱があるあたりだ。

「これを」そう言って、ミグロは懐から取り出した木の札を僕と岬に渡した。「ここから先は、この許可証を持ったものしか通れません」


「随分と用意がいいんだね」岬がじっと許可証を眺める。「ヴェルトは来ても帰れないって、言ってなかったっけ?」

「この通行許可証の交付には我々ICASCも関わっていますからね」ミグロが岬に向かって言う。

 僕もそれに視線を落とした。表には「通行を許可する」とだけ書いてあった。裏側には赤いレリーフがあしらわれていた。バラの花を模したものに見えた。これはおそらくイルミナリ王の紋章だろう。

 再び歩き出すミグロを追いかける。金属柱の脇を抜ける。柱から電子音がする。ピコ、ピコ、ピコ。通行証に反応しているのだろう。木でできた通行証に、チップか何かが埋め込まれているのかもしれない。


「これ、持ってなかったらどうなるの」

「警告音の後、堀を守る兵士に取り押さえられることになります」

「やっぱり。こういう技術って、人間から盗んでくるわけ?」

「そうです。閉ざされた世界であっても、技術革新は必要ですから」

 橋を渡りきると、石造りの丈夫そうな建物が僕たちを出迎えた。市場の騒がしさが嘘のように、静まり返った街だ。

「ここに宮殿があるのですか」僕はミグロに聞いた。

「宮殿は、あそこです」ミグロは腕を突き出した。手前の建物の屋根から突き出たようにまっすぐ空に伸びる塔があった。上に向かって少しずつ細くなっているそれは、遠目にみると電柱のような姿をしていた。前の建物に遮られ、距離感がつかめない。


「遠いの?」岬の声は少しずつ、柔らかくなっているようだ。ミグロもそれを察知したのか、ずっと顔に張り付いていた厳しさが幾分和らいでいるように見えた。

「遠いが、キャピタルには足があります」

 ミグロの視線を追いかける。道路を挟んで向こう側の建物の脇にネコの列ができていた。

「バス停みたい」岬がつぶやく。先頭のネコの前には、確かに人間の街で見るような案内板があった。

「ここではソルムと言いますが、同じようなものです」

 ネコの世界にも公共交通機関があるのだ。こういう都市構造も、人間の都市を模倣しているのかもしれない。街の雰囲気といい、昔のヨーロッパはこのような感じなのかもしれない。昔のヨーロッパにバスがあるかどうかは別にして。


 列の後ろに並ぶ。向こうの世界にいた時は、バスになど乗ったことはなかった。乗り物はせいぜい家の車くらいだ。岬の肩に乗って窓から顔を出したこともあった。窓から吹き込む風が気持ちよかったのを思い出す。

 しばらくすると、そのソルムがやってきた。ポニーが列車のような形をした乗り物を引いていた。人間の世界の馬車を一回り小さくしたような形態だ。ネコの世界にもポニーがいるのだと感心する。

「宮殿への直通便です。これに乗ればすぐですよ」


 前に立つネコについて、ソルムに乗り込む。ボックス席が左右に並んでいた。列の先頭にいたネコから順番に、前から礼儀正しく座っていく。僕たちは一番後ろのボックス席についた。僕と岬が進行方向を向いて腰をかけ、ミグロが正面に座った。

 ソルムがゆったり動き出した。僕たちが歩くよりは幾らか早い程度だ。それでも歩くことを考えれば楽なものだ。

 僕は窓を開け、顔を外に突き出した。車ほどスピードが出ているわけではないが、頬に当たる風が気持ち良かった。

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