第3話
僕が連れてこられたのは、近所にある学校の体育倉庫だった。跳び箱や卓球台やスコアボードが詰め込まれている。粉っぽい空気が髭をひくひくと刺激する。薄暗い部屋の中を、卓球台の足を避けながら、ミグロについて歩いた。
「ここに」ミグロが跳び箱の前で止まった。視線の先に目をやる。バツ印が書かれていた。そこが僕の立つべき場所らしい。
ミグロが跳び箱の隙間に顔を突っ込んだ。尻尾がゆらゆらと揺れている。僕はその動きに目を奪われた。体がムズムズとする。動くものを見ると、どうしても体が反応してしまう。掌を舐め、顔を拭いて気を紛らわした。
ひたっと気配が変わり、僕は顔を上げる。跳び箱の上に、1人の三毛ネコが座っていた。
「私は、ICASC、国際ネコ活動監視委員会アジア支部のアンソニーだ。前置きは嫌いなので単刀直入に言おう。ブルー、そなたは本日をもってヴェルトに追放となる」
唐突に話し始めたアンソニーの言葉は、普段聞き慣れている人間の言葉だった。黒い瞳が大きく僕を捉えていた。
「ヴェルトとは、いったい何でしょうか?」
人と会話をすると、この世界から追放されるということだろうか。ヴェルトというのはドイツ語で世界を意味する単語だったはずだ。世界から世界へというのは、安直ではないだろうか。
「その名の通り、この世界とは違うもう一つの世界だ。我々の世界、と言うこともできる」
アンソニーの声は嗄れていた。僕より一回りは年上だろう。ネコで一回りの年の差といえば、曽祖父以上の年配者ということになる。
「我々、ネコの世界ということですか」
「そうだ。人とのつながりを断つ場所だ」
やはり、岬にはもう会えないということなのだ。どんな罪も受けるといったものの、それはできれば避けたかった。法を破れば罪となり、罰を受けるのは仕方がない。仕方がない、それで済ませられるほどの関係だったのか。
「岬に、最後にもう一度会わせてください」
胸の奥が苦しかった。込み上げる感情は、僕の涙腺を開く。顔からこぼれた雫が床に落ちる。
「それはならぬ。すでにそなたは法を犯したのだ。協定違反は重罪である。慈悲は期待するでない」
アンソニーの声は、静かだった。その瞳は変わらず僕を見据えていた。期待はしていなかった。それでも、岬に会いたい。もう会えないとわかった瞬間そう感じるというのは、テレビドラマでしか味わえない感情だと思っていた。
「わかりました」僕は顔を掌で拭う。滲んだ目に濡れた桃色の肉球が見えた。岬は、よく僕の掌を握ってくれた。肉球をぎゅっと押されるたび、僕の胸には大きな喜びが広がった。机の角に押し当てても、そういう感覚を得ることはできなかった。岬だから、そう感じることができた。
「そなたのそばにいた人間も本来なら処罰の対象となるが、そなたが罰を素直に受けるのならば、酌量の余地もある。そこは、安心するといい」
どうして、いつも気づくのが遅くなるのだろう。岬に喋ることがバレたばっかりに、こんなことになってしまった。自分の責任だ。岬に迷惑をかけないためにも、僕にできるのは、あの感触を忘れないことなのかもしれない。
「岬のことを、よろしくお願いします」
「わかった」アンソニーがそこで初めて目を閉じた。役目は終わったということだろう。アンソニーが一歩後ろに下がり、代わりに跳び箱の影からミグロが姿を現した。
「ブルー。こちらへ」恭しく言うその様は、差し詰め処刑人といったところか。僕はミグロの指示通り、ミグロの歩く後ろをついて、体育倉庫の入り口近く、物品棚の前に移動した。
「ヴェルトへのゲートを開きます」ミグロは右の前足をまっすぐ前に伸ばし、腕を回転し始めた。空気を撹拌するような動作だった。次第に、空間に澱のようなものが見え始めた。白く光り出す澱は、まるで銀河の渦のようだった。中心の光がひときわ大きくなる。
僕はあっけにとられた。回転する渦は、ミグロの腕の動きと呼応し、徐々に大きくなっていく。光りの集団はもはや人の背丈ほどの大きさに成長していた。光の中心が白色から次第に赤色に変わり、それが外側へ広がっていく。橙色、黄色、黄緑と、代わる代わる虹色の輪が現れた。紫の内側は、真っ黒な穴のように見えた。
「ゲートが開きました。この中心の漆黒の先に、ヴェルトがあります」
ミグロの言葉が終わらぬうちに、その穴へ向かって風が吹き始めた。ブラックホールのようなものなのかもしれない。光さえも吸い込んでしまう闇、その先を見たものはいない。風にあおられて、僕の体が揺れる。僕は足を踏ん張った。
「飛び込めば、それで終わりなのですか」
「終わりではありません。ブルー。あなたの新しい道が始まるのです」
「新しい道、か」新しいものなんて、欲しくはなかった。「記憶も、消えてしまうのですか?」
「いえ、それは残ります。記憶を消してしまっては、罰にならないでしょう」ミグロは棚に手をかけ、体を支えていた。
残酷だと思った。僕はこれから一生、岬の面影とこと向き合うになる。二度と会えない人のことを思う日々、それは耐え難く、確かに罰にふさわしいのかもしれない。
「ブルー。早く行きなさい」ミグロの顔がゆがんで見えた。また、僕は泣いていた。頷くことしかできない。僕は、一歩前へ出た。その時、ふと空気が動く匂いがした。ミグロが棚から手を離し、身構える気配がした。
体育倉庫の扉が、勢いよく開いた。外の電灯に照らされたその顔に、僕の胸が大きく飛び跳ねた。
「見つけた」岬だった。ゲートに吹き込む風に、その髪が揺れていた。
「岬」僕は声をあげた。上ずった声になった。その拍子に髭が鼻を掠める。くしゃみが出た。「やっほい」
岬の姿を認め、ミグロがその姿勢を低くした。棚の陰に身を寄せた。
「ブルー、帰ろ」岬が倉庫の中に入ってくる。足元の砂利が擦れる音が響く。岬は僕の顔から視線を上げた。僕の後ろに展開する光の渦を指差す。「どうしたの、これ」
岬は周りを見渡し、棚の奥に視線を向けた。ミグロが体をびくっと動かした。「白猫さんだ」岬の表情が険しくなった。
「ブルーに何をしてるの?」真剣な眼差しをミグロに向ける。ミグロはネコの言葉で威嚇を続ける。「出て行けってこと? ブルーを返してくれたら、そうする」岬は素早くしゃがみ込み、ミグロの脇に手を入れ、持ち上げた。ミグロがたまらず声を出す。
「やめんか。小娘が」ミグロは前足をバタバタと振り回した。
「本当にみんな喋れるんだね」岬はそのまま立ち上がる。「隠れてないで、出てきたらどうなの? もう一匹いるでしょ」
岬は大きな声でそう呼びかけた。気配を感じているのだろうか。
「岬、早く逃げないと、危険だ」僕は岬の足にすがりつく。岬を巻き込みたくなかった。これ以上ここにいては危ない。いや、ミグロと言葉を交わした以上、すでに一線を超えているかもしれない。さっきから、心臓はこれでもかと激しく拍動していた。交感神経が最大限の警戒信号を放っていた。
「ねえ、出てきなさいよ。この白猫ちゃんがどうなっても知らないよ」
岬に掲げられたミグロがそのオッドアイを白黒させている。
「何を言うか、ここには」
ミグロがまた声を上げる。唸り声とともに振りかざす腕は、悲しく中を舞った。懐の深さでいえば人間には敵わない。僕は岬の足に前足を預け、何度も呼びかけた。「岬」それでも岬は、一歩も動こうとはしなかった。
「もう良い。私はここにおる」
僕は声のした方、卓球台の上に視線を上げた。岬も顔を向けた。ミグロが体をしゅんとさせるのが視界の隅に映った。
アンソニーは、卓球台に堂々と立っていた。威厳に満ちた視線が岬とぶつかっている。
「人間よ。これはネコの世界の話だ。人間には関わりのないこと。速やかにここを立ち去るがよい」
「そんなの、あなたたちの理屈だよ。ブルーは私の家族だもん。規則か戒律か知らないけど、ブルーは渡さない」
岬の剣幕に、僕は体を強張らせる。岬が僕を守ってくれている。岬は、いつかの言葉の通り、僕のために、今ここにいるのだ。僕のために、それは素直に嬉しかった。岬の入った家族という単語が、僕の胸を熱していた。
「わかりあえるはずがない。ネコと人とでは、住んでいる時間が違うのだ。それをわからないうちは、余計な口出しはせんことだ」
アンソニーがすくっと立ち上がり、岬に飛びかかった。岬は反射的に体を反転させる。棚に肩をぶつけた。卓球の球やラケットが散乱する。その拍子にミグロが岬の脇をすり抜けた。
「ブルー」岬の声がする。アンソニーが岬の肩口につかまっていた。ミグロも、腰のあたりにすがりついている。
「ブルー。早くヴェルトに入るのです」ミグロが言う。僕はゲートと岬を交互に見遣った。家族と呼んでくれた人、そして暗黒の世界。どちらがいいかなんて、わかりきっていた。僕は勢いをつけて、ミグロの体に向かって跳躍した。
「岬から離れろ」僕はパンチを繰り出した。ミグロが牙をむき出しにして怒りを露わにした。
「ブルー。これ以上罪を重ねるつもりか」
「痛い痛い。みんな離れて」岬が声を上げる。足がもつれていた。「あ」岬が甲高い声をあげた。足元に転がっていた卓球の球に足を取られたようだ。バランスを崩した岬の体が、ゲートへと吸い込まれる。アンソニーが勢い良く飛び退くのが見えた。僕のすぐそばで、ミグロが泡を食っていた。その焦った表情は、きっとこれが見納めだろう。
岬の体勢を立て直すことはできない。このまま、行くしかない。覚悟というには幼稚な感情が僕を支配していた。岬を守りたい。岬の体から離れる時は、僕が死ぬ時だ。
体がそっくり漆黒に包まれた。僕の思考は、そこで途切れた。
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