虹の音

長谷川ルイ

第1章 赤

第1話

 空間の隙間が埋まっていく。不規則なピースが、立体パズルが回転するような動きでかみ合い、その度に向こう側の景色が鮮明になり、境目が曖昧になる。最後の一欠片がピタリとはまると、まるで最初からそうであったように、空の青と草原の緑が鮮やかな丘陵地が広がるばかりになった。

「ブルー、これで本当に良かったの?」

「ああ。いいんだ」

 僕は、横で心配そうに覗き込むミーサの肩に手を置いた。これでいいんだ。それはミーサに対してというよりは、僕自身に向けられた言葉だった。これでいい。こうでなければいけない。僕は自分の決断の正しさを疑うわけにはいかなかった。そうでなければ、僕がどうしてここまでたどり着いたのか、わからなくなる。

 仕方がなかった。あの日僕が犯してしまった罪は、結局こうすることでしか清算することができなかった。僕は心の中で、彼女の名前を叫んでいた。




 窓越しの朝日を浴びて、僕は体をずいっと伸ばす。起き抜けの強張った筋肉が弛緩していく。温められた床が心地いい。あくびが出る。

「今日はどうしようかな」

 僕はネコだ。こういうと、あの有名な「我輩は猫である」を想像する人間もいるかもしれない。僕には、残念ながら名前がある。ブルーというのだ。

 僕は、生物学的にはネコ目、ネコ亜目、ネコ科、ネコ亜科、ネコ属、ヤマネコ種、イエネコ亜種のイエネコ(学名:Felis silvestris catus)というのだそうだ。イエネコにも多くの品種があって、僕はロシアンブルーという、青みがかった灰色の毛色のネコだ。ブルーはそんな僕の外見的特徴から、飼い主が名付けてくれた。僕もその名前が相応しいと感じていた。僕たちペットにとって、人間とのつながりが一番大切だ。単に住む場所と食料を提供してもらえるだけではなく、僕を家族の一員と考えてくれていることが、何より嬉しく、幸福を感じるのだ。


 そんな僕たちには、決して侵してはいけない禁忌がある。人間と言葉を交わすことだ。こんな風に人間の言葉で話しているところを、決して人間に見られてはいけない。これは、それこそ僕たち猫が人のそばで生活を始めた頃から脈々と受け継がれてきた伝統と言ってもいい。

 だから、僕たちは人の気配には敏感だ。床に伝わる振動や空気のわずかな流れで、人が近づいていることを察知し、僕はネコから人間のよく知る猫に変わる。僕の父も母も、そのまた両親も、これまでずっと、そうしてネコと猫を使い分けてきた。ネコとしての定めは猫として生きることだ。そこから外れた場合にどうすればいいのか、僕たちはきっと誰も知らない。


「それで? 今日はどうするの?」

 僕にとって最大の不覚は、飼い主であるこの少女が、時として気配を消してしまうということだ。

 僕は、脇の下を抱えて持ち上げた少女の目を見ないように、必死にごまかそうと、肩のあたりを舐めまわした。

「ブルー、そんなんだと、朝ごはん抜きだよ」少女の声が僕の耳元でした。僕は、空腹をぐっと堪え、足の指を伸ばして気持ちを鎮めた。ダメだ、誘惑に負けてはいけない。

 少女は僕の様子に溜息をつき、僕の体を解放した。しゃがんだ姿のまま、膝に頬杖をついて、じっと僕を見ていた。僕は、とにかく平静を装おうと、左の後ろ脚を上げて内腿を舐めた。


 少女は、名前を岬と言った。僕と初めて出会った頃と比べると、随分と大きくなった。もちろん僕もすっかり成長したのだが、やはり人間とネコでは体格が違いすぎる。今や岬は母親と同じくらいの身長があるし、艶やかな髪を肩くらいまで伸ばした、快活な女性へと姿を変えつつあった。

 岬は僕の顔をじっとのぞき込んだまま、一向に立ち去る気配がなかった。朝から暇なのだろうか。今日は平日だったはずだが、学校へ行かなくても大丈夫なのだろうか。岬の心配をしている場合でもなかったが、そうでもしていないとどうかなってしまいそうだった。


「なんだ、せっかく話してくれると思ったのにな」岬の言葉は、僕が喋ることを前提としているように思えた。岬はもしかしたら、これまでも僕が独り言を言ったり、外でスズメたちと話していたりした場面を目撃しているのかもしれない。

 岬はしつこいくらい僕の周りをウロウロとして、「あ、UFOだ」とか「猫ってイカ食べたら腰抜けるの?」とか、必死に僕に話しかけていた。それでも、僕は心を鬼にして、岬を無視し続けた。

 僕が頑なに毛繕いをしているうちに、ようやく諦めたのか、岬が後ろを向いて、部屋を出ようと扉に向かった。僕はようやく解放されたと安堵した。バタンとドアの閉まる音がした。


「はあ」僕は大きく息を吐いた。これからはもっと気をつけないといけない。「しばらくは岬が学校に行くまでは大人しくしていよう」そうするより他にないようだ。緊張が緩み、僕は窓際で大きく背筋を伸ばした。気持ち体を右側に反らせる。左脚ばかり舐めていたせいで、変に筋肉が張っている。背骨がポキポキと音を立てる。いい感じだ。さて、それまでソファーで寝ていよう。僕はソファーの上に飛び乗った。


「ブルー。やっぱり喋れるんだね」

 突然岬がソファーの背もたれから顔を出して、僕は心臓が飛び出たかと思うほど驚いた。全身の毛が逆立つ。尻尾からぞわぞわとした寒気が一瞬に背中を伝って頭の皮をむずむずと縮ませる。

「私ね、『岬は気配消せるの?』ってよく言われるんだ」そう言って岬は笑った。僕はといえば、そうして背もたれから覗く岬から目を逸らすことができず、ただただ固まっていた。髭がひくひくと動く。相変わらず毛は逆立ったままだ。むずむずと毛穴が疼き、僕は思わずくしゃみをした。


「やっほい」

 いけない、そう思った時にはもう遅かった。僕はつい、くしゃみをする時に「やっほい」と言ってしまうのだ。アメリカ人が「god bless you」と言うのを真似して、そんな遊びをしていたツケが回ってきたのだ。

「やっほいやっほい」

 岬の顔が近付き、僕の額に自分の額を擦り付ける。まるでネコ同士の挨拶のようだ。それがなんだか嬉しくて、僕はまたくしゃみをしてしまう。

「やっほい」

 ああ、もうだめだ。僕はソファーに崩れ落ちるように体を伏せた。

「ブルー。いい加減、素直になりなよ」

 岬はいつの間にか僕の横に座っていた。また気配がしなかった。

「岬、その特技はもっと別の場所で生かして」僕はそう言うのが精一杯だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る