幕間1‐③

 十一月も下旬を迎え、年の瀬が刻々と迫っていた折、親父の携帯から約五年ぶりに着信があった。


 母が膵臓すいぞうの病気で入院したらしい。


 命に関わる病気ではないが、お前もすぐに見舞いに行けとそっけなく告げられた。


 俺は行くかどうか悩んだ。


 母が入院しているという病院は故郷の隣町、つまり俺が今住んでいる地方都市の中心に位置する、市営の大病院だという。


 バスを使えば一時間もかからずに行ける距離だ。


 とはいえ、大学を中退して以来、実家には一度も顔を出したことがなかったし、それ以上に過去のわだかまりが胸に重くのしかかっていた。


 それでも結局、俺は見舞いへと出向くことにした。


 行こうか行くまいか悩んだが、最終的な決定打となったのは、後々の関係がこれ以上拗れるくらいなら、一回だけ顔を出して関係を繋ぎ止めていた方が懸命だという、極めて消極的な理由だった。


 病院に行くこと自体が数年ぶりだった。


 二年ほど前に大規模な改築工事を行ったと聞く件の沙山さやま総合病院は、冬の澄んだ冷気によって外壁の病的な白さを際立たせていた。


 中に入ると、消毒液のつんとした匂いが鼻を突いた。


 受付で病室の階と番号を尋ね、目当ての階までエレベーターで移動する。



 目的の病室はすぐに見つかった。気後れしつつも、溢れてきた唾を呑み込んで中に入った。


 母は仰臥ぎょうがしながら、隣のベッドの女性と談笑をしていた。


 実に五年ぶりに見る彼女の姿は、昔より痩せ細っているのがありありと見て取れた。


 地味な病衣との調和も相まってか、随分と頼りなさそうな印象を受けた。


 頬の肉は痩せこけ、ほうれい線が目立ち、その中の本体がぼんやりと存在を主張していた。


 親が老けていく姿を見届ける苦痛を、俺はこの時初めて知った。


 母は隣人との話を打ち止め、自分たちの部屋に闖入ちんにゅうしてきた男に目を向けた。


 数秒を要して、やっとそれが自分の息子であることに合点がいったようだ。


「あらまあ、永輔じゃないの」


「久しぶり」俺は表情を変えず、投げ捨てるように言った。


「何年ぶりかしら。随分と大人っぽくなったのね」


 五年も経てば人は変わる。


 いや老けるといった方が正確だ。


 年齢は関係ない。


 若かろうが老いていようが、心だけは止めどなく老けていく。


 そういうものだ。


「割りと、元気そうだな」


 ベッドの隣に置かれている椅子に、俺は無遠慮に腰をかけた。


 母は、どこか疲れたような笑みを向けながら、「そうね」とか細い声で言った。


 話を聞いたところによると、母の病は急性膵炎というものらしい。


 発見が早かったので重症化は避けられたが、そこそこ症状は重いらしく、一ヶ月ほど入院しなければならないと言う。


 生まれてこの方、入院など初めての経験なので最初は不安だったが、治療のために飯を一切食えないことを除けば会話相手にも困らず、それなりに楽しくやっているらしい。



 病室を見渡してみた。


 狭苦しい相部屋で、隣り合ったベッドと床頭台が二セットだけ置かれている簡素な一室だ。


 次いで俺は、先ほどから沈黙を守り続けている、話に出てきた母の会話相手と思しき女性に目を移した。


 今になって気づいたが、かなり若い女性だった。


 大学生ぐらいだろうか。


 横顔から覗く表情は、どこか思い詰めているようでもあった。


 遊びたい盛りの時代に入院生活を余儀なくされているのだから、多少はナーバスな気分にだってなるだろう。


 凍りついたように窓の外を見つめていた女性が、おもむろに視線を向けた。


 一瞬、目が合いそうになり、俺は反射的に目を逸らした。


 彼女は気分を害した様子もなく、小さく頭を下げてきた。


「彼女ね、リョウカちゃんっていうのよ」


 釣られて、こちらもぎこちなく頭を下げる。


 身に纏う雰囲気からして成人はしているのだろうが、随分と小柄な体格だった。


 顔立ちも幼く、見方によっては中学生でも通用するような外見だ。


 見開かれた瞳は澄んでいて、美しさと愛らしさの中間点にあるような顔つきだった。


 加えて、肩まで伸ばした艶やかな黒髪が、楚々そそとした印象を際立たせている。


 特別人目を惹くほどではないが、充分魅力的と言える女性だった。


 椿を模した真っ赤な和柄の髪飾りをつけているのは、たとえ病人の身であっても自分を着飾りたいという、女性特有の美意識のためだろうか。


 最低限の挨拶は必要だと思い、俺は真顔で「初めまして。いつも母がお世話になっています」と言って頭を下げた。


 すると彼女は、頬を緩ませて眩しく笑んだ。


 遊びたい盛りの貴重な青春時代を病魔に奪われ、気だるい時間を中年女性と共に悶々と過ごす若い女性。


 俺の抱いていた印象は、見事にひっくり返された。


「初めまして。こちらこそ、千裕ちひろさんにはいつもお世話になっています。話し相手になって頂いて助かっているのは、むしろ私の方なんですよ」


 そう言って、リョウカさんは母に微笑みかけた。


 母は「そんなことないわよ」と、大袈裟に手を振った。


 外見とは裏腹に大人びた印象を強く受ける、落ち着きを払ったしっとりとした声と口調だった。


「リョウカちゃん、あんたと同じ中学の同級生だったんですってよ」


 埃にまみれた、過去の記憶を探ってみる。


 しかし、リョウカという名前には心当たりがなかった。


 もっとも俺にとっては、どのクラスメイトの名前も顔も希薄だったので、なんの確証もありはしなかったのだが。


「ちょっと覚えていませんね。苗字はなんと言うんですか?」


 俺は、そっと尋ねた。


「千賀です。千賀リョウカ。でも覚えてなくて当然です。私、病気のせいで小学生の頃からほとんど入院してましたから。中学校にも、ほとんど行ったことはありませんので」


 彼女は「ふふふ」と、自らの辛気臭い話を誤魔化すように笑い声を立てた。


 どうやら、俺の記憶力が腐っていたわけではないらしい。


 とはいえ、仮に同じ教室にいたと言われていても気まずいだけだ。俺にとっては、僥倖ぎょうこう以外の何物でもなかった。


「学校に行けなかったなんて、本当に可哀想よね。その点、永輔は恵まれてたのよ。健康に学校に通えて、大学まで行かせてあげたのに、すぐに辞めるだなんて。まったく、何を考えてるんだか」


 母は昔から人前で説教をして、俺を不肖の息子に仕立てようとする傾向がままあった。


 昔は反発することもあった気がするが、流石にこの歳になってはなんとも思わない。


 それに今となっては、この通り。


 立派な不肖の息子になってしまったのだから、何の反論の余地もない。


「すみませんね、母が急に変な話をしてしまって」


「気にしないでください。それで、現在は何をなさっているのですか?」


 きっと彼女は、俺が何か崇高な目的を持って大学を中退したと思い込んでいるのだろう。


 俺は肩をすくめて、なんとも思っていないですよという態度を装って答えた。


「今はフリーターをしています。大学を辞めた理由もくだらないですよ。単に馴染めなかっかったんです。雰囲気に」


 それは紛れもない事実だった。


 我ながら感心するほど、くだらない理由だ。


 その口調がまた勘に触ったのだろう。


 母がまたこちらを睨んでくる。


 口を挟んできそうだったが、その前にリョウカさんが口を開いた。


「そうですか。でも、それはきっとくだらない理由なんかじゃないですよ。だってそれはあなたが最善を祈って選んだ道、なのでしょうから」


  その言葉は、俺にとって寝耳に水だった。


 ……まったく、笑える話だ。


 彼女の何気ない一言で、俺はこの時初めて自分の人生を肯定された気がしたのだ。


 彼女が何か深い意図があって、それを言ったわけではない。


 それはそうだ。


 それでも、はっきりと言ってしまおう。


 そんな気になったというだけで、ただ嬉しかった。


 今になって思う。


 きっと俺はこの瞬間から、彼女に惹かれ始めていた。


 そんな胸の内を初対面の相手に伝えることなどできるはずがなく、俺はうつむきがちに「どうも」とぎこちない返事を絞り出した。


 そっけなく映ったであろう俺の態度にも、彼女は意に介した様子を見せなかった。


「そうそう、リョウカちゃんに大学の話でもしてあげたら? 前から言ってたわよね。リョウカちゃん、大学生活に興味があるらしいのよ」


 そんな唐突な母の思いつきで、俺は再び現実に引き戻された。


「……大した話はできないですが、それで構いませんか? 保証しますが、きっとあくびが出るほどつまらないと思いますよ」


「ええ、千裕さんのおっしゃる通り、ずっと興味があったんです。どんなお話でもいいので、お聞かせ願えませんか?」


 思わず頷いてから、自分の安請け合いを悔いた。


 果たして、何を話すべきかと頭を絞る。


 とりあえず無難に、一般的な授業風景の話から始めることにした。


 大学に半年しか在籍していなかった人間が話せることなど、たかが知れている。


 そもそも、他人に体験談を聞かせるなどという経験が初めてだった。

 

 多少の脚色を混じえながら、自分の持つ語彙と表現力を総動員して、なるべく細やかな描写を心がける。


 そこにいた人々のこと、そこで学んだこと。


 キャンパス、研究室、図書館、学食、出席の取り方、単位の取り方……。


 考えてみれば、家族以外とまともな会話をすることは、実に数年ぶりだった(その家族とも一言二言、言葉を交わすだけだった)。


 それでも、リョウカさんは常に頰を緩ませながら、時々頷きつつ、「それはすごい」とか「へえ」などと適度な相槌を打ちながら話を聞いてくれた。


 話題のネタが尽き、一通り話し終わる頃には喉がからからに乾いて、筋肉の痺れを感じるほどだった。


「ありがとうございました。とっても、興味深いお話でしたよ」


「それは何よりです」


 どこまで真剣に捉えていい評価かは分からないが、俺は軽く笑うポーズをしてから、彼女に小さく頭を下げた。


 それから、場が余韻が沈む間もなく、母に目配せをして「じゃあ、俺はそろそろ帰るよ」と暇の言葉を告げた。


「あら、もう帰っちゃうの?」


「俺も、そうそう暇じゃないんだよ」


  嘘だった。


 今日はバイトの予定もなく、帰っても特に用事はない。


 だが一刻も早く、俺はその場から立ち去りたかった。


 きっとその時の俺は、美しい思い出を美しいままで完結させたかったのだろう。


 そして誰にも邪魔されない場所で、些細な幸運の味をよく噛み締めたかったのだ。



「また来るよ」


 立ち上がると同時に、リョウカさんが「最後に一ついいですか?」と声をかけてきた。


「まだあなたの口からお名前を聞かせてもらっていませんでしたよね。教えていただいても構いませんか?」


「母から聞いてないんですか?」


「ええ、知ってはいるんですが、改めてあなたの口から聞きたいと思ったんです」


 変な話だなとは思ったが、俺は素直に「ええ」と答えてから名乗った。


「福島永輔です。福島県の福島。永遠の永に車へんの輔で永輔、です」


 彼女が天井に向かって指で文字をなぞる。


 福、島、永、輔。


 虚空を切って俺の名前が刻まれた。


 彼女は一人納得した様子で、満足そうな表情を浮かべた。


「改めまして、私の名前は千賀燎火ちがりょうかです。火へんに学生寮の寮で燎。それと炎の火で、燎火です。聞いた話によると、なんでも燎火というのは篝火かがりびという意味なんだそうですよ」


  篝火と聞いてぱっと思い浮かんだのは、暗闇の中、お椀型の籠の上で炎が厳かに燃え盛っている光景だった。


 篝火は祈りのため、暗闇を照らし出すために灯される。


 だが灯された火は、いつか必ず消え去る。


 ろくでもない連想が、頭を一瞬よぎった。


 母に「ちゃんと見舞いには来たからな」と言い残して、俺はそそくさと病室を出た。


 病室の扉を閉める際、「またいらっしゃってくださいね」という控えめな声が聞こえた。


 ひとまず立ち止まって都合のいい幻聴かと疑ってみたが、もはや真偽を確認する術はなかった。



 後から壁越しに聞こえてくるのは、母と彼女の微かな話し声だけだった。

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