傾国の水鏡

秋峰霧女

水鏡編

序章 禁忌の娘

 深いとも浅いとも分からぬ円(まる)い水盤を囲むように、八の尊き神々が居並んでいた。


 〈水鏡〉は命の脈にしてこの世の天秤であり、時計であり、史書である。

 〈水鏡〉の均衡は決して犯してはならない。


 今ここにある八の上級神、上八神かみやがみですらも、本来であればこの〈水鏡ノ間〉に立ち入ることはまかりならない。今度の一大事が発覚せず、創造主であられる御中ノ神みなかのかみがお出ましになり、臣である上八神にこの場へ立ち合うよう命ぜられなければ、このようなことはなかったはずなのである。


 今度の一大事というのは、〈水鏡〉に沈んだ娘である。

先刻、〈水鏡〉に人間の娘が沈んでいるということが発覚した。

本来清く澄み、曇りなき存在である〈水鏡〉に、それはあってはならぬものだった。

水鏡の水面の均衡はすなわちこの世の均衡。それが崩されていた。紛れもない、人間の娘という穢れの混入によって。


 娘はうつ伏せに沈んでいた。何の変哲もないただの女の背中だけが見える。項から足首は浅葱色の衣で隠れ、帯はなく、衣の上には黒い髪が扇を広げたように揺蕩たゆとうていた。水面も中の娘も、ひたすら静かにそこにあり、まったく動きを見せることがない。


まるで〈水鏡〉と娘は一体であるかのように、溶け合って見えた。それこそ、そこにあるのが、浅葱の衣を纏った娘のが底に描かれた、ただの器のように思えてくるほどに。


 そして、とうとう御中ノ神がお出ましになられた。

 お出ましといえども、そのお姿は目に見えるのではない。風とも言えぬ気の動きが、居合わせている者の髪や裾を揺らめかすのみである。それも〈水鏡〉の水面は波立たぬまま。

「みな、ようく見ておれ」

 いらして早々に御中ノ神は事に取りかかった。その一声によって張り詰めていた〈間〉が更にきつく締め上げられる。


 〈水鏡〉から娘の項が覗いた。次に腰、肩、踵が姿を現し、みるみるうちに娘の身体が水面という平面から立体へと浮かび上がってゆく。姿勢や四肢の位置はそのままに、中にあった形をそのままに維持して、ひたすら真っ直ぐに、上へ上へと昇ってゆく。ただ、衣と髪だけが娘の身を包むように垂れ下がっていた。

 やがて最後の髪一筋の下端が水面から何の名残もなく離れた。とうとう娘は音ひとつ、雫ひとつ滴ることもなく、〈水鏡〉というあちらの空間からこちらの空間へと移されたのである。

 神々は宙に浮いている娘を見ていた。儀式の生贄のように天に捧げられている人間の娘を。

 

 この時、上八神のうち、煌祇きらぎの目の前には娘の頭があった。ほんの手を差し伸べて、肘も伸びきらぬ距離に旋毛つむじがある。項もその先に、襟足に透けて見えている。しかし、娘に向けて手を伸ばすどころか、身じろぎの一つでさえこの〈水鏡の間〉では許されてはいない。


 この娘は何者か──

 その答えは、娘の素顔と共に、黒髪の闇深くに仕舞い込まれているのだった。




──────



宵闇から滑り込む、冷えた風に当たりたくなった一輪は、障子の小窓を少し開けた。たちまちにひんやりとした空気が襟元を流れる。これで少しは今の気分がましになるような気がするのだった。


「随分と落ち着いているな」


背後から嫌いな奴の声がする。それはこちらの台詞だと一輪は思った。

就業時刻もとうに更けた夜に唐突に訪れた煌祇(きらぎ)は、その様子こそ普段の奴らしくない狼狽(ろうばい)が垣間見えたにしても、一報の内容はそれどころではない代物であった。しかし、天里(あまさと)都(と)からのその報せを聞き、事のただならぬ次第を完璧に理解してしまった今、奴の態度がどうこうと気にしている場合では、もはやないのだった。


「直ちに大王に奏上する。お前も来い」

「ああ、ついて行ってやるさ。事が事だからな」


内心では両者ともに戦慄していた。しかし、それは感情が負える程度を凌駕(りょうが)し、代わりに異様な冷静さとなって彼らを支配していた。


〈水鏡〉の均衡が崩壊した──

〈水鏡〉に人間の娘が沈んでいた──


一輪は今から上に報告するそれらの言葉を心の内に反芻(はんすう)した。

その時ふと、古(いにしえ)に出会った、かの水辺の光景が浮かび上がっては、捉える間もなく、彼の意識の底へと沈んでいった。


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