第2話 古代ローマのベリサリウス(502-565)
フラヴィウス・ベリサリウスはビザンツ帝国の将帥である。彼は主君である大帝ユスティニアヌスを助け、その大望、地中海地域を再征服してかつての西ローマ帝国の版図を再建することに貢献したが、時代の趨勢いかんともしがたく、帝国の領土はかつてのようには戻らなかった。
君臣の間の典型的な一事象として、ベリサリウスの優れた風采と経歴は彼がユスティニアヌスを支えて多くの成功をなしえたにもかかわらず、様々なレベルの事態で嫉妬されさげすまれた。彼の名はしばしば示し合わせたようにこう呼ばれる。即ち「最後のローマ人」と。
ベリサリウスは尊敬されるべき天才的な軍事指揮官であり、北アフリカのヴァンダル王国を533年6月から534年3月までの9ヶ月で征服してのけた。彼はヴァンダル軍をアド・デキウムとトリカマラムの戦いで打ち破り、ヴァンダル王ゲリメルの降伏をもって征戦を完了させた。のち再度の北アフリカ征服を経て、ベリサリウスはイタリアの東ゴート王朝を接収、535年から540年のこの戦役をゴート戦争と呼ぶ。
若年時の経歴
いくつかの考古学的論拠から、現在ではベリサリウスはおそらくゲルマン人であるか、ゲルマンに強い関わりがあるどこかの城塞都市の出生であるとみる説が有力である。現代の土地で言うところの南西ブルガリア内サパレヴァ・バンヤ、ドイツとの境界以内のトラキアまたはペオニア、ことに現トルコのトラキアとアドリアノープルの近くが有力であるとみられている。イリリア、あるいはトラキアのどこの産まれであるにしても家庭ではローマ後を母語として話し、若くしてローマの軍人となり、ユスティニアヌス帝の身辺警護官として勤めたのは間違いない。
彼は最初ユスティヌス帝の姉の子の警護隊長であり、進取の気風に富む有望な指揮官として皇帝に見出された。皇帝の許可を得て重騎兵による護衛連帯(ブセラーリ)が与えられると、のち抜擢されて王室の個人的連帯一五〇〇人強の隊長となる。ベリサリウスのブセラーリは核から周辺に到るまですべての兵士が軍隊単位で有能だった。兵士たちは長槍(ことによるとフン族のスタイルを踏襲したものかもしれない)と複合弓、そしてスパタという剣を携え、重騎兵は戦場ではこれにフルプレートを着用した。多目的ユニットとしてのブセラーリはフン族的な長距離射撃能力を備え、あるいは剣と長槍を生かした騎兵突撃の衝撃能力を備えていた。その真髄は多兵種が混合されたとき最高かつ最上に発揮され、ローマの敵による危機的局面、すなわち巨大なフン族やゴート族を相手に発揮された。
ユスティヌスが527年に崩じ、新たに立ったユスティニアヌスはベリサリウスをローマ軍東方司令官に任命し、ササン朝の襲撃に備えさせる。彼は速やかに実働可能な彼自身の兵力を分析し、より巨大なササン朝軍に対し完全に優れた指揮統率能力を証明して見せた。530年6月から7月、イベリア戦役中ダラの戦いで、ローマ軍はササン朝軍に驚くべき勝利を獲、つづく531年ユーフラテス川上カリニクムの戦いでも秀逸な戦術を以てササン朝軍を撃破した-これはもしかしたらペルシア軍を境界の外に追放したという点で戦略的勝利と言えるかも知れない-。これによりペルシア側と“永久的平和”の交渉が導き出され、それまでローマはペルシアに多大な貢ぎ物を贈って平和を買っていたが、向後資源の供与を必要としなくなった。以後これまでペルシアに献上していた金品は帝国の運営に回されることになる。
532年、彼は最上位の軍事指揮官として帝都コンスタンティノープルにあり、ユスティニアヌスのためにギリギリでニカの乱チャリオット・レーサー派を鎮圧した。ベリサリウスはイリリクムの呪術師ムンヅスの民兵、宦官将軍ナルセス、また彼の友アルメニアのヨハネスの協力を得て捜索して残余の反乱軍兵士を競技場にかき集め、旧習に倣って賄賂を提出したものも平和の敵として虐殺した。殺傷された市民三〇〇〇〇人という。
ヴァンダル戦争
この功績により、ベリサリウスはユスティニアヌスから報酬として533年から534年にわたるヴァンダル王国遠征隊陸水軍総帥の任を与えられた。この作戦行動は西ローマ復権を目指すローマが抱える政治上、宗教上および戦略上の理由から取られたものであった。前のヴァンダル王ヒルデリックは簒奪者ゲリメルによって退位に追い込まれ、殺されたので、ユスティニアヌスはこれを違法であると口実を設けた。ヴァンダル族の中でもアリウス派の人々はニースのキリスト教徒から短い周期で虐待を受けたので、彼らのうちいくばくかは長い道のりをかけ救済を求めてコンスタンティノープルにやってきた。多くのヴァンダル族は海賊を始めて幾人かはローマとの交易に関心を持ち、帝国西方との取引を行ってローマに損失を与えた。ユスティニアヌスもまたヴァンダル族のテリトリーを北アフリカに封じ込めて支配したいと望みんだ。それは富裕なその土地を西ローマの食糧基地にし、またローマと地中海とのアクセスを保証するためのものだった。
533年夏の終わり、ベリサリウスはアフリカ上陸に乗り出しカプト・ヴァダ(現チュニジアのチェッバ近郊)近郊に錨を下した。彼は彼の艦隊に大軍は必要なしと命じ、整然と湾岸沿いの沿線航路を進軍してヴァンダルの首都カルタゴに向かった。ベリサリウスは敵の供給を遮断し、妨げつつ、その大征服艦隊は65年ぶりに北アフリカに再上陸した。468年ボン岬のローマの敗戦以来の壮挙であった。
ゲリメルの作戦に依れば彼と彼の弟アンマタスの軍、そして同じく彼の甥ギバムンド率いる二〇〇〇の兵でローマ軍を待ち伏せて包囲殲滅する予定だった。これは三軍が完璧に同時に動いて初めて意味を成す作戦であったが、アンマタスとギバムンドは軍を還してゲリメル(このとき彼は先王ヒルデリックを処刑している最中だったという)に互いに先んじてベリサリウスを撃破してみせると功を争い、ローマ軍にカルタゴから10マイルのアド・デキウムで533年9月13日、勝敗を決しようと申し入れた。大胆な計画にもかかわらず、ゲリメルの軍は多勢を笠に着て敵を甘く見た結果ベリサリウスの主軍に要地を取られ驚愕に軍組織を壊滅させた。ベリサリウスのもとに統率されたローマ軍はゲリメルを大いに破り、ゲリメルの兵はさしたる動きもないまま戦場に遺留された。この完勝でベリサリウスはほどなくカルタゴを手に入れた。第2の勝利すなわち12月9日のトリカマラムの戦いの結果、534年はじめパウマ山でゲリメルは降伏、ベリサリウスは失われたローマ帝国の属州北アフリカを回復した。この偉業を引っ提げベリサリウスは偉大な勝利者としてコンスタンティノープルに凱旋、プロコピウス(記録官、従軍史家)によればエルサレム聖堂は腐敗によって80年ぶりに開示された聖遺物には略奪品が目立ったというが、英雄を讃えるパレードは盛況で道ばたに行列ができた。ゲリメルへの沙汰はこれより先に行われ、平和裏に国外追放された。ベリサリウスの名声を讃えてメダルが発給され印章が作られた。また「グロリア・ローマラム(ローマの栄光)」の刻碑文も彫られたが、それらはなにひとつとして現代に寄与していないように想われる。ベリサリウスは535年、単独の執政官となったが、この官職を保持しながら個人的市民として生き抜き、古代ローマ共和国の復権者たらんとした。アフリカの回復は不完全に終わったが、どうしようもなかった。カルタゴ軍下士官と生粋のベルベル人はこの新しい高級行政官のアフリカの知事公邸にほぼ15年間叛乱を鳴らし続けた。
ゴート戦役 (535–554)
ユスティニアヌス帝は彼が西ローマ帝国の版図を回復することが出来ると確信する。535年、彼はベリサリウスをイタリア半島の西ゴート王国攻撃司令官に任じた。ベリサリウスはシシリー半島に上陸して半島を手に入れると同時にイタリア半島攻略の前哨基地として利用し、しばらくの間ムンヅスをしてダルマティア地方を回復させる。東ゴート唯一のレジスタンスはパノルムスに拠し、ムンヅスはこれを陥落させた後すばやく攻囲に移り、ベリサリウスは弓兵に火矢を使わせ彼の船のマストてっぺんから要塞守備兵を襲撃、制圧した。彼は勝利条件をシラクサの535年12月31日に設定する。同時にイタリア本土への侵入も536年のイースターまでに準備すると決めて、その前にベリサリウスはアフリカへ出帆し現地人兵の叛乱を鎮圧した。彼の反逆者を許さないという世評から反乱軍との戦いは攻囲戦に突入し、これを抜いたベリサリウスは追撃してメンブレサで敵勢を撃破する。しかる後すぐさま転身、シシリーに向かい、イタリア本土に上陸、536年12月、ナポリを攻略した。トスカーナ地方の多くを服従させつつベリサリウスの軍は標的に向かい進軍する。
537年3月から538年3月にかけて彼は成功裏にローマのゴート王ウィチゲスの軍を打ち破った。538年初頭、ベリサリウスは騎兵2000を分遣してアリミニウム(現在のリミニ)を占拠させる。ゴート軍は友軍を見捨ててローマ攻囲戦に籠もった。ウィチゲスは北東に動いてアリミニウムに押し寄せる。ビザンツの救援軍が到着してベリサリウスとナルセスが東ゴート族を攻囲の中に降参させ、残余の兵は首都ラヴェンナに逃れた。ベリサリウスはウルビナム(現ウルビノ)を捕捉、538年12月最後の3日で攻囲を完成させゴート族の守備兵を水中に追い落とした。ローマの反乱的ゴート族軍はメディオラウム(現ミラノ)の友族と結んだが538年から539年初頭にかけてゴート族正規軍がこれを暴力的に鎮圧して都市に入り、これによりベリサリウスは立て続けの奮闘から解放されるが結果的には都市攻囲戦に失敗する。
539年に入り、ベリサリウスは攻囲専用部隊をオクシマム(現オシモ)とフェスラエ(現フィエーゾレ)周辺に立ち上げ、539年末飢餓に喘ぐ都市を屈服させた。それから539年末にかけて彼は東ゴートの首都ラヴェンナの周囲に部署する。外側からアドリア海を近道してビザンツ海軍が来援、東ゴート軍は降伏し540年5月事後交渉に入り、ビザンツ軍は都市を接収。少々以前にラヴェンナが陥落、東ゴート人はベリサリウスに西の皇帝になり給えと請う。ベリサリウスは唯一の受け入れ事項を偽って受け入れた振りをしてラヴェンナに入り、土手道を通り湿地を抜け、一緒に来たコミタトゥスのブラセーリは、彼の個人的な家族的連帯であった。まもなくあと、皇帝ユスティニアヌスの名でラヴェンナ占領が宣言される。ゴート族の要請は一層強くなり、ユスティニアヌスの猜疑心をベリサリウスは思い出すべきだと。しかし彼はゴートの宝物と王と勇士らを繋いで君府コンスタンティノープルに還った。
ベリサリウスはペルシア、シリアの征服における仲間からの配当が少なかったことに気づき、それ以前も決定的に帝国の田舎地方に追いやられていたことに気づき、どこかで侵略者が力を取り戻したときだけ使われていたことに気がついた。彼はペルシア軍をナバデスからニシビスにかけて下したが町一つ手に入れることは許されず、そこで町を要塞化してペルシアに対する防護を強化する。彼はシザウラノンを占拠し、小ペルシアから東に砦を築いた。であるのにベリサリウスに送られたのはハリスに連れられた1200人のローマ軍兵士と彼らを率いる“大食の”ヨハンと“略奪者”トライアヌスの二人で、アッシリア戦線から更迭される。遠征を貫徹しペルシア領内部に大量の略奪品をかき集めた。542年の戦役でベリサリウスの存在はユーフラテスの西、大王ホスローを妨害するのに都合よく使われ、前進に次ぐ前進で王を明らかに退けた。ベリサリウスはいたるところで高く賞賛されたが、彼の成功はペルシア軍を追い払うだけに終始し昇格や昇級に無縁であった。
544年再びイタリアに上陸したベリサリウスは、難局を経て偉業を打ち立てたあとで別人になっていた。541年東ゴート族が新しいリーダーに擁立したトツィラは強健な騎士でありその軍事行動はローマの敵というに相応しく、北イタリー全土を奪回してローマ軍と精力的かつ互角に渡り合いローマからローマ人を駆逐した。ベリサリウスは要地を扼してローマを回復し管理したが彼のイタリア作戦はなかなか上手く進まなかい。なぜなら軍需物資の支給が一部に限られていることと、帝国からの援軍が541年から542年にかけペストに冒され弱体化したためであった。プロコピウスによればユスティニアヌス帝は軍需物資の支給について知らぬ振りをした。なぜならそれは彼の嫉妬心を刺激したからである。どうしようもなく無価値な嫉妬心の前にベリサリウスはトツィラに当てて書信を出した。プロコピウス曰く、噂によればトツィラはローマの破壊行動を中止させたという。
書信に曰く「長らくこの町は美しくなかったが、いま知恵ある人々の手によって美しく生まれ変わったのである。美と文明を破壊するものは理解の充足を期待できない蛮族であり、恥知らずな彼らの名前は後生まで伝わることだろう。今この天地の間にあるローマの全ての町は、偉大にして端倪すべからざるものと認められるべきである。一人一人が技巧的創造をなすことはないが、この戦争の期間中、偉大にして美しく完成された事業をなしとげるだろう。貴国の最も優秀な軍人であろうと時間により誤謬を犯すことは避けられず、ともに並々ならぬ富と世界中の技能を持ち帰ったとしても、結局は小さいことに過ぎない。見るがよい! 未来の歴史において、全ての記録が彼らの記念碑を穢すことになるだろう。時間に抗う犯罪者たちよ、古き時代の略奪者たちよ、未来において機構らの行いは裁かれるであろう。それが現実になること、疑いもない。貴公に告ぐ、この上は皇帝の軍と戦い、それを打ち破って勝利を得てベリサリウスに勝ったという栄光を得るべし。もし今、貴公が勝利の栄光を手に取らず、ローマを破壊し続けるというなら、私はもはや貴公を破壊者とすら認識しないであろう。もし町を保全するのであれば、貴公の盛名は後生に残るであろう、貴国は貴公のもとに自然と富み、全てを妥当に手に入れるであろう。もしローマをより悪しき運命から救うのであれば、ローマは貴公に感謝と勝利を約束する。貴公の温情が確約されるなら、それは長く続くであろう。しかしもし悪しき行い、陵虐を行うのであれば、貴公の名声は地に落ち、貴公の全ての相続人は破滅の道をたどるであろう。必要なのは支配権の確立、高い信望。それを求める行いが、貴公らを勝者たらしめるであろう」
引き続いての征戦において、ベリサリウスは勝利を得られなかった。彼はローマの破壊をほぼ完全に防いでのけたが、548-9年、ユスティニアヌス帝により呼び戻され、551年、帝国の経済基盤が回復すると帝は彼に代えてナルセスを起用、大軍を与えて征戦に送り出し、達成させた。ベリサリウスは戦闘の芸術家としての本流からはじき出された。のち、教会はコンスタンティノープルに議会を招集(553)、ベリサリウスは皇帝の代理人として教皇ヴィギリウスに拝謁し、一人息子を相続人、家長として認められた。
教皇シルヴィリオスの免職
ローマ攻囲戦のさなかの出来事により、ベリサリウスはビザンチンで宗教儀式(審問会)により罪人とされた。ベリサリウスを憎む皇后テオドラは彼を免官させるべく教皇に働きかけ、ゴート王を僭称しようとしたと言う罪をでっちあげ教皇ホルミスダスの子シルヴィリオスに破門させた。教皇ジョン2世がコンスタンティノープルに入るとベリサリウスはヴィギリウスの助祭とされた。ヴィギリウスは531年、教皇ボニファス2世により選ばれたことで成功を獲た人物だが、しかし彼は彼の決定の転換により、ローマの聖職者とボニファスから強い非難を受けむた。
537年、攻囲中の出来事について、シルヴェリウスは告発を企む。曰く、ベリサリウスがゴート王にしてローマ元老院議員を僭称し市門を開かせたと。ベリサリウスは衣服を剥がれた上、小アジアのリキュアのパタラに追放された。彼の無罪を主張して従うパタラの司教は彼をイタリア方面司令官の地位に復すべくユスティニアヌス帝に働きかけ、正当な調査結果を提出した。しかしながらヴィギリオスがシルヴィリオスを後任に任じた時点で、すでに遅かった。彼はローマに戻ることを許されず、パルマオラ島に流罪とされた。彼はコンスタンティノープルを想い死を渇望したが、しかし現地のパトロンの支援により依然として死ぬことを許されなかった。
ベリサリウスは雄弁家ではなく、ローマ・トリヴィオのサンタ・マリア大聖堂に出席した際、彼は悔恨して洗礼を受けた。彼は巡礼者として安息所にいたり、そのまま忽然と消えたとされる。
後半生と作戦
527,ユスティニアヌス帝の威力によるローマ帝国の伸長は、565年、ベリサリウスの死により幕引きを迎える。ベリサリウスは帝国と皇帝のために多大な貢献をした。ベリサリウスの復帰は559年末のこと、カーン・ゼベルガン配下のブルガリア人、クトヌグルがドナウ川を越えてローマに侵攻してきた。彼らは一直線にコンスタンティノープルを目指し、ユスティニアヌスはベリサリウスを喚喚、ローマ軍の指揮を執らしめた。これが彼の最後の闘いになった。ベリサリウスはメランティアの戦いでクトヌグルと交戦、数に勝る敵を優秀な作戦力をもって寡兵で撃破、ドナウ川の外側に彼らを追い散らした。
562年、退廃はびこるコンスタンティノープルで現実に直面し、罪をねつ造され、秘書官にして史家、カエサリアのプロコピウスのそれとない助言にもかかわらずそれを聞かず、有罪とされて長らく投獄されたベリサリウスは、ようやくユスティニアヌスの恩赦を獲て解放され、名誉を回復した。
プロコピウスの『秘史』によれば、ベリサリウスは寝取られ男、で、感情的で、酒色におぼれた彼の妻、アントニーナともども依存症があったという。史家に拠ればアントニーナはベリサリウスの養子テオドシウスと姦通したといい、プロコピウスはこの閨事について公然の事実であり、帝国法廷も偏見的にばかげたことだと語った。またプロコピウスは『秘史』にベリサリウス、アントニーナのナルセスに対する積年の恨みを書き残し、皇后テオドーラがアントニーナと夫を取り替えて遊んでいたという噂をも書き付けている。
ベリサリウスとユスティニアヌスの紐帯により、帝国の規模はそれまでの45%も増えた。565年、ベリサリウスはコンスタンティノープル郊外のラフィニアで孤独に死んだ。死後その骸は1カ所ないし2カ所の教会に埋葬されたとされる。埋葬先について正確なところは記されていないが、ことによるとそれは聖ペテロ、あるいは聖パウル教会であったかもしれない。
フラヴィウス・ベリサリウスはビザンツ帝国の将帥である。彼は主君である大帝ユスティニアヌスを助け、その大望、地中海地域を再征服してかつての西ローマ帝国の版図を再建することに貢献したが、時代の趨勢いかんともしがたく、帝国の領土はかつてのようには戻らなかった。
君臣の間の典型的な一事象として、ベリサリウスの優れた風采と経歴は彼がユスティニアヌスを支えて多くの成功をなしえたにもかかわらず、様々なレベルの事態で嫉妬されさげすまれた。彼の名はしばしば示し合わせたようにこう呼ばれる。即ち「最後のローマ人」と。
ベリサリウスは尊敬されるべき天才的な軍事指揮官であり、北アフリカのヴァンダル王国を533年6月から534年3月までの9ヶ月で征服してのけた。彼はヴァンダル軍をアド・デキウムとトリカマラムの戦いで打ち破り、ヴァンダル王ゲリメルの降伏をもって征戦を完了させた。のち再度の北アフリカ征服を経て、ベリサリウスはイタリアの東ゴート王朝を接収、535年から540年のこの戦役をゴート戦争と呼ぶ。
若年時の経歴
いくつかの考古学的論拠から、現在ではベリサリウスはおそらくゲルマン人であるか、ゲルマンに強い関わりがあるどこかの城塞都市の出生であるとみる説が有力である。現代の土地で言うところの南西ブルガリア内サパレヴァ・バンヤ、ドイツとの境界以内のトラキアまたはペオニア、ことに現トルコのトラキアとアドリアノープルの近くが有力であるとみられている。イリリア、あるいはトラキアのどこの産まれであるにしても家庭ではローマ後を母語として話し、若くしてローマの軍人となり、ユスティニアヌス帝の身辺警護官として勤めたのは間違いない。
彼は最初ユスティヌス帝の姉の子の警護隊長であり、進取の気風に富む有望な指揮官として皇帝に見出された。皇帝の許可を得て重騎兵による護衛連隊(ブセラーリ)が与えられると、のち抜擢されて王室の個人的連帯一五〇〇人強の隊長となる。ベリサリウスのブセラーリは核から周辺に到るまですべての兵士が軍隊単位で有能だった。兵士たちは長槍(ことによるとフン族のスタイルを踏襲したものかもしれない)と複合弓、そしてスパタという剣を携え、重騎兵は戦場ではこれにフルプレートを着用した。多目的ユニットとしてのブセラーリはフン族的な長距離射撃能力を備え、あるいは剣と長槍を生かした騎兵突撃の衝撃能力を備えていた。その真髄は多兵種が混合されたとき最高かつ最上に発揮され、ローマの敵による危機的局面、すなわち巨大なフン族やゴート族を相手に発揮された。
ユスティヌスが527年に崩じ、新たに立ったユスティニアヌスはベリサリウスをローマ軍東方司令官に任命し、ササン朝の襲撃に備えさせる。彼は速やかに実働可能な彼自身の兵力を分析し、より巨大なササン朝軍に対し完全に優れた指揮統率能力を証明して見せた。530年6月から7月、イベリア戦役中ダラの戦いで、ローマ軍はササン朝軍に驚くべき勝利を獲、つづく531年ユーフラテス川上カリニクムの戦いでも秀逸な戦術を以てササン朝軍を撃破した-これはもしかしたらペルシア軍を境界の外に追放したという点で戦略的勝利と言えるかも知れない-。これによりペルシア側と“永久的平和”の交渉が導き出され、それまでローマはペルシアに多大な貢ぎ物を贈って平和を買っていたが、向後資源の供与を必要としなくなった。以後これまでペルシアに献上していた金品は帝国の運営に回されることになる。
532年、彼は最上位の軍事指揮官として帝都コンスタンティノープルにあり、ユスティニアヌスのためにギリギリでニカの乱チャリオット・レーサー派を鎮圧した。ベリサリウスはイリリクムの呪術師ムンヅスの民兵、宦官将軍ナルセス、また彼の友アルメニアのヨハネスの協力を得て捜索して残余の反乱軍兵士を競技場にかき集め、旧習に倣って賄賂を提出したものも平和の敵として虐殺した。殺傷された市民三〇〇〇〇人という。
ヴァンダル戦争
この功績により、ベリサリウスはユスティニアヌスから報酬として533年から534年にわたるヴァンダル王国遠征隊陸水軍総帥の任を与えられた。この作戦行動は西ローマ復権を目指すローマが抱える政治上、宗教上および戦略上の理由から取られたものであった。前のヴァンダル王ヒルデリックは簒奪者ゲリメルによって退位に追い込まれ、殺されたので、ユスティニアヌスはこれを違法であると口実を設けた。ヴァンダル族の中でもアリウス派の人々はニースのキリスト教徒から短い周期で虐待を受けたので、彼らのうちいくばくかは長い道のりをかけ救済を求めてコンスタンティノープルにやってきた。多くのヴァンダル族は海賊を始めて幾人かはローマとの交易に関心を持ち、帝国西方との取引を行ってローマに損失を与えた。ユスティニアヌスもまたヴァンダル族のテリトリーを北アフリカに封じ込めて支配したいと望みんだ。それは富裕なその土地を西ローマの食糧基地にし、またローマと地中海とのアクセスを保証するためのものだった。
533年夏の終わり、ベリサリウスはアフリカ上陸に乗り出しカプト・ヴァダ(現チュニジアのチェッバ近郊)近郊に錨を下した。彼は彼の艦隊に大軍は必要なしと命じ、整然と湾岸沿いの沿線航路を進軍してヴァンダルの首都カルタゴに向かった。ベリサリウスは敵の供給を遮断し、妨げつつ、その大征服艦隊は65年ぶりに北アフリカに再上陸した。468年ボン岬のローマの敗戦以来の壮挙であった。
ゲリメルの作戦に依れば彼と彼の弟アンマタスの軍、そして同じく彼の甥ギバムンド率いる二〇〇〇の兵でローマ軍を待ち伏せて包囲殲滅する予定だった。これは三軍が完璧に同時に動いて初めて意味を成す作戦であったが、アンマタスとギバムンドは軍を還してゲリメル(このとき彼は先王ヒルデリックを処刑している最中だったという)に互いに先んじてベリサリウスを撃破してみせると功を争い、ローマ軍にカルタゴから10マイルのアド・デキウムで533年9月13日、勝敗を決しようと申し入れた。大胆な計画にもかかわらず、ゲリメルの軍は多勢を笠に着て敵を甘く見た結果ベリサリウスの主軍に要地を取られ驚愕に軍組織を壊滅させた。ベリサリウスのもとに統率されたローマ軍はゲリメルを大いに破り、ゲリメルの兵はさしたる動きもないまま戦場に遺留された。この完勝でベリサリウスはほどなくカルタゴを手に入れた。第2の勝利すなわち12月9日のトリカマラムの戦いの結果、534年はじめパウマ山でゲリメルは降伏、ベリサリウスは失われたローマ帝国の属州北アフリカを回復した。この偉業を引っ提げベリサリウスは偉大な勝利者としてコンスタンティノープルに凱旋、プロコピウス(記録官、従軍史家)によればエルサレム聖堂は腐敗によって80年ぶりに開示された聖遺物には略奪品が目立ったというが、英雄を讃えるパレードは盛況で道ばたに行列ができた。ゲリメルへの沙汰はこれより先に行われ、平和裏に国外追放された。ベリサリウスの名声を讃えてメダルが発給され印章が作られた。また「グロリア・ローマラム(ローマの栄光)」の刻碑文も彫られたが、それらはなにひとつとして現代に寄与していないように想われる。ベリサリウスは535年、単独の執政官となったが、この官職を保持しながら個人的市民として生き抜き、古代ローマ共和国の復権者たらんとした。アフリカの回復は不完全に終わったが、どうしようもなかった。カルタゴ軍下士官と生粋のベルベル人はこの新しい高級行政官のアフリカの知事公邸にほぼ15年間叛乱を鳴らし続けた。
ゴート戦役 (535–554)
ユスティニアヌス帝は彼が西ローマ帝国の版図を回復することが出来ると確信する。535年、彼はベリサリウスをイタリア半島の西ゴート王国攻撃司令官に任じた。ベリサリウスはシシリー半島に上陸して半島を手に入れると同時にイタリア半島攻略の前哨基地として利用し、しばらくの間ムンヅスをしてダルマティア地方を回復させる。東ゴート唯一のレジスタンスはパノルムスに拠し、ムンヅスはこれを陥落させた後すばやく攻囲に移り、ベリサリウスは弓兵に火矢を使わせ彼の船のマストてっぺんから要塞守備兵を襲撃、制圧した。彼は勝利条件をシラクサの535年12月31日に設定する。同時にイタリア本土への侵入も536年のイースターまでに準備すると決めて、その前にベリサリウスはアフリカへ出帆し現地人兵の叛乱を鎮圧した。彼の反逆者を許さないという世評から反乱軍との戦いは攻囲戦に突入し、これを抜いたベリサリウスは追撃してメンブレサで敵勢を撃破する。しかる後すぐさま転身、シシリーに向かい、イタリア本土に上陸、536年12月、ナポリを攻略した。トスカーナ地方の多くを服従させつつベリサリウスの軍は標的に向かい進軍する。
537年3月から538年3月にかけて彼は成功裏にローマのゴート王ウィチゲスの軍を打ち破った。538年初頭、ベリサリウスは騎兵2000を分遣してアリミニウム(現在のリミニ)を占拠させる。ゴート軍は友軍を見捨ててローマ攻囲戦に籠もった。ウィチゲスは北東に動いてアリミニウムに押し寄せる。ビザンツの救援軍が到着してベリサリウスとナルセスが東ゴート族を攻囲の中に降参させ、残余の兵は首都ラヴェンナに逃れた。ベリサリウスはウルビナム(現ウルビノ)を捕捉、538年12月最後の3日で攻囲を完成させゴート族の守備兵を水中に追い落とした。ローマの反乱的ゴート族軍はメディオラウム(現ミラノ)の友族と結んだが538年から539年初頭にかけてゴート族正規軍がこれを暴力的に鎮圧して都市に入り、これによりベリサリウスは立て続けの奮闘から解放されるが結果的には都市攻囲戦に失敗する。
539年に入り、ベリサリウスは攻囲専用部隊をオクシマム(現オシモ)とフェスラエ(現フィエーゾレ)周辺に立ち上げ、539年末飢餓に喘ぐ都市を屈服させた。それから539年末にかけて彼は東ゴートの首都ラヴェンナの周囲に部署する。外側からアドリア海を近道してビザンツ海軍が来援、東ゴート軍は降伏し540年5月事後交渉に入り、ビザンツ軍は都市を接収。少々以前にラヴェンナが陥落、東ゴート人はベリサリウスに西の皇帝になり給えと請う。ベリサリウスは受け入れた振りをしてラヴェンナに入った。個人的な連隊士官、コミタトゥスのブセラーリをつれて、土手道を通り湿地を抜た。まもなくあと、皇帝ユスティニアヌスの名でラヴェンナ占領が宣言される。ゴート族がベリサリウスを想う気持ちは一より層強くなり、ユスティニアヌスの猜疑心はベリサリウスを追い出すべきだと願うに至る。しかし彼はゴートの宝物と王と勇士らを繋いで君府コンスタンティノープルに還った。
ベリサリウスはペルシア、シリアの征服における仲間からの配当が少なかったことに気づき、それ以前も決定的に帝国の田舎地方に追いやられていたことに気づき、どこかで侵略者が力を取り戻したときだけ使われていたことに気がついた。彼はペルシア軍をナバデスからニシビスにかけて下したが町一つ手に入れることは許されず、そこで町を要塞化してペルシアに対する防護を強化する。彼はシザウラノンを占拠し、小ペルシアから東に砦を築いた。であるのにベリサリウスに送られたのはハリスに連れられた1200人のローマ軍兵士と彼らを率いる“大食の”ヨハンと“略奪者”トライアヌスの二人で、アッシリア戦線から更迭される。遠征を貫徹しペルシア領内部に大量の略奪品をかき集めた。542年の戦役でベリサリウスの存在はユーフラテスの西、大王ホスローを妨害するのに都合よく使われ、前進に次ぐ前進で王を明らかに退けた。ベリサリウスはいたるところで高く賞賛されたが、彼の成功はペルシア軍を追い払うだけに終始し、昇格や昇級に無縁であった。
544年再びイタリアに上陸したベリサリウスは、難局を経て偉業を打ち立てたあとであり、もはや軍人としての円熟、それまでとは別人になっていた。541年東ゴート族が新しいリーダーに擁立したトツィラは強健な騎士でありその軍事行動はローマの敵というに相応しく、北イタリー全土を奪回してローマ軍と精力的かつ互角に渡り合いローマからローマ人を駆逐した。ベリサリウスは要地を扼してローマを回復し管理したが彼のイタリア作戦はなかなか上手く進まなかい。なぜなら軍需物資の支給が一部に限られていることと、帝国からの援軍が541年から542年にかけペストに冒され弱体化したためであった。秘書官にして史家のプロコピウスによればユスティニアヌス帝は軍需物資の支給について知らぬ振りをした。なぜならそれは彼の嫉妬心を刺激したからである。どうしようもなく無価値な嫉妬心の前にベリサリウスはトツィラに当てて書信を出した。プロコピウス曰く、噂によればトツィラはローマの破壊行動を中止させたという。
書信に曰く「長らくこの町は美しくなかったが、いま知恵ある人々の手によって美しく生まれ変わったのである。美と文明を破壊するものは叡智の充足を期待できない蛮族であり、恥知らずな彼らの名前は後生まで伝わることだろう。今この天地の間にあるローマの全ての町は、偉大にして端倪すべからざるものと認められるべきである。一人一人が技巧的創造をなすことはないが、この戦争の期間中、偉大にして美しく完成された事業をなしとげるだろう。貴国の最も優秀な軍人であろうと時間により誤謬を犯すことは避けられず、ともに並々ならぬ富と世界中の技能を持ち帰ったとしても、結局は小さいことに過ぎない。見るがよい! 未来の歴史において、全ての記録が彼らの記念碑を穢すことになるだろう。時間に抗う犯罪者たちよ、古き時代の略奪者たちよ、未来において貴公らの行いは裁かれるであろう。それが現実になること、疑いもない。貴公に告ぐ、この上は皇帝の軍と戦い、それを打ち破って勝利を得てベリサリウスに勝ったという栄光を得るべし。もし今、貴公が勝利の栄光を手に取らず、ローマを破壊し続けるというなら、私はもはや貴公を破壊者とすら認識しないであろう。もし町を保全するのであれば、貴公の盛名は後生に残るであろう、貴国は貴公のもとに自然と富み、全てを妥当に手に入れるであろう。もしローマをより悪しき運命から救うのであれば、ローマは貴公に感謝と勝利を約束する。貴公の温情が確約されるなら、それは長く続くであろう。しかしもし悪しき行い、陵虐を行うのであれば、貴公の名声は地に落ち、貴公の全ての相続人は破滅の道をたどるであろう。必要なのは支配権の確立、高い信望。それを求める行いが、貴公らを勝者たらしめるであろう」
しかし引き続いての征戦において、ベリサリウスは勝利を得られなかった。彼はローマの破壊をほぼ完全に防いでのけたが、548-9年、ユスティニアヌス帝により呼び戻され、551年、帝国の経済基盤が回復すると帝は彼に代えて宦官の老将軍ナルセスを起用、大軍を与えて征戦に送り出し、達成させた。ベリサリウスは戦闘芸術家としての本流からはじき出された。のち、教会はコンスタンティノープルに議会を招集(553)、ベリサリウスは皇帝の代理人として教皇ヴィギリウスに拝謁し、一人息子を相続人、家長として認められた。
教皇シルヴィリオスの免職
ローマ攻囲戦のさなかの出来事により、ベリサリウスはビザンチンで宗教儀式(審問会)により罪人とされた。ベリサリウスを憎む皇后テオドラは彼を免官させるべく教皇に働きかけ、ゴート王を僭称しようとしたと言う罪をでっちあげ教皇、ホルミスダスの子シルヴィリオスに破門させた。教皇ジョン2世がコンスタンティノープルに入るとベリサリウスはヴィギリウスの助祭とされた。ヴィギリウスは531年、教皇ボニファス2世により選ばれたことで成功を獲た人物だが、しかし彼は彼の決定の転換により、ローマの聖職者とボニファスから強い非難を受けた。
537年、攻囲中の出来事について、シルヴィリオスは告発を企む。曰く、ベリサリウスがゴート王にしてローマ元老院議員を僭称し市門を開かせたと。ベリサリウスは衣服を剥がれた上、小アジアのリキュアのパタラに追放された。彼の無罪を主張して従うパタラの司教は彼をイタリア方面司令官の地位に復すべくユスティニアヌス帝に働きかけ、正当な調査結果を提出した。しかしながらヴィギリオスがシルヴィリオスを後任に任じた時点で、すでに遅かった。彼はローマに戻ることを許されず、パルマオラ島に流罪とされた。彼はコンスタンティノープルを想い死を渇望したが、しかし現地のパトロンの支援により依然として死ぬことを許されなかった。
ベリサリウスは雄弁家ではなかったが、ローマ・トリヴィオのサンタ・マリア大聖堂に出席した際、彼は悔恨して洗礼を受けた。のち彼は巡礼者として安息所にいたり、そのまま忽然と消えたとされる。
後半生とその作戦
527,ユスティニアヌス帝の威力によるローマ帝国の伸長は、565年、ベリサリウスの死により幕引きを迎える。ベリサリウスは帝国と皇帝のために多大な貢献をした。ベリサリウスの復帰は559年末のこと、カーン・ゼベルガン配下のブルガリア人、クトヌグルがドナウ川を越えてローマに侵攻してきた。彼らは一直線にコンスタンティノープルを目指し、ユスティニアヌスはベリサリウスを召喚し、ローマ軍の指揮を執らしめた。これが彼の最後の闘いになった。ベリサリウスはメランティアの戦いでクトヌグルと交戦、数に勝る敵を優秀な作戦力をもって寡兵で撃破、ドナウ川の外側に彼らを追い散らした。
562年、退廃はびこるコンスタンティノープルで現実に直面し、罪をねつ造され、秘書官にして史家、カエサリアのプロコピウスのそれとない助言にもかかわらずそれを聞かず、有罪とされて長らく投獄されたベリサリウスは、ようやくユスティニアヌスの恩赦を獲て解放され、名誉を回復した。
プロコピウスの『秘史』によれば、ベリサリウスは寝取られ男であり、感情的で、酒色におぼれた彼の妻、アントニーナともどもに依存症があったという。史家に拠ればアントニーナはベリサリウスの養子テオドシウスと姦通したといい、プロコピウスはこの閨事についてこれは「公然の事実」であったといい、帝国法廷も偏見的に「ばかげたことだ」と語った。またプロコピウスは『秘史』にベリサリウス、アントニーナのナルセスに対する積年の恨みを書き残し、皇后テオドーラがアントニーナと夫を取り替えて遊んでいたという噂をも書き付けている。
ベリサリウスとユスティニアヌスの紐帯により、帝国の版図はそれまでの45%も増えた。565年、ベリサリウスはコンスタンティノープル郊外のラフィニアで孤独に死んだ。死後その骸は1カ所ないし2カ所の教会に埋葬されたとされる。埋葬先について正確なところは記されていないが、ことによるとそれは聖ペテロ、あるいは聖パウル教会であったかもしれない。
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