第18話 愛より深い心の傷痕
2月15日日曜日
茂樹はやはり全く改善しない不眠症に苦しんでいた。
処方された睡眠薬を1日摂取量の2倍服用しても頭の中の柱時計はカチカチと一向に止まる気配はない。
美咲は理解してくれた。
一番好きな人が自分以外の者と付き合うことを認識する辛さを。
そして、美咲は「私を拘束してくれ、どこにも行かないよう強く縛ってくれ。もっと愛してくれ。」と哀願してくれた。
茂樹も待つだけではなく、能動的に美咲の愛を受け止めると新たに認識した。
二人の方向性は同じ方向を向き、あの少年少女の夢に再び戻り、改めて、心理的スピリチュアルに結ばれた稀有な恋をスタートする元の位置に立つことができた。
それも、クリスマスイブとクリスマスの連夜に確かめ合い、愛し合った意味がここで色濃く表出され、茂樹が思い悩んでいた、美咲と吉川の現像写真はそのネガと共に燃焼し、消え去ったと思われた。
しかしである。
茂樹の心の深淵の奥底には、膏薬が塗り込めない傷痕が残っていた。
美咲をこの手で抱いている時は、美咲の身体を誰にも渡さないよう拘束し、強く強く縛るように抱きしめている時は、その傷痕が疼くことはない。
美咲が手元から離れると、そして、魔の不眠が訪れると、忘れていたその傷痕の疼きが再発するのであった。
苦しいというより、動悸が激しくなり、なんとなく不安になり、その不安が畏怖に進化し、とてもとても怖くなるのであった。
ヤクザやヤンキーと命懸けの喧嘩をしても、こんな恐怖は感じられない。
怖いのは「孤独」であった。
初めから孤独であれば、そんな思いも感じることがなかったが、思春期になりあの夢の中の少女に恋をし、そして、中学2年で美咲に一目惚れをし、美咲があの夢の中の少女であると信じ、美咲も同じ夢を見、その少年が確かに茂樹自身であると二人にしか分からないことまでを明確に言ってくれた。
その時点で茂樹の一番の不安である「孤独」は消え去り、美咲という最大の味方を得ることができた。
だからこそ、また、「孤独」に戻るのが怖くなったのだ。
「孤独」に戻る要因は全て茂樹の心の深淵にある傷痕を刺激する。
どうしても、何度、美咲が吉川との付き合いを軽い気持ちであった、もうそんな行為はしない、許してくれと哀願しても、今、この自室のベットの上には美咲は居ないじゃないか、横を振り向いてもその顔は見えないじゃないか、目を閉じて心を見つめても、心のカメラはクリスマスの思い出をスルーして、それよりも先にある傷痕「美咲と吉川との逢引き」の光景にスポットライトが当たり、カメラは映像を開始し、脳裏に明瞭に映し出すではないか。
睡眠薬を何錠飲んでも、酒と睡眠薬を合わせて飲んでも、脳裏の映像機が止まることはない。
怖い。
何かが怖い。
死にたい。
楽になりたい。
もう、裏切られたくない。
でも、どこまで逃げても、この映像は消えそうもない。
たとえ、美咲と吉川をこの手で残虐に殺しても、消えないだろう。
どうすればいいんだ。
俺は死ぬしかないんだ。
死ぬしか…
茂樹は発作的に1か月分の睡眠薬、残り15錠をウィスキーと一緒に飲み込んだ。
そして、ベットに仰向けに横たわり、目を閉じて、煙草に火をつけ、口に咥え、ニコチンとタールの効力も手助けにし、早く楽になろうとした。
煙草を一本吸い終わった時であった。
急に心が楽に、軽く感じられ出した。
茂樹は嬉しかった。
試しにあの苦々しい「美咲と吉川の逢引き」の映像を心の深淵にある傷痕を石炭のように燃やし、それをエネルギーにし脳裏の映写機をまわそうとしたが、ぼんやりとしか映らなかった。
茂樹は益々嬉しくなった。
何か月ぶりかに楽しくなり、笑顔が出た。
枕元にある煙草をもう一本咥え火をつけ、目一杯、肺細胞にニコチンとタールを吸い込み、血液中に浸透したニコチンとタールが脳細胞に到達するよう、ゆっくり、ゆっくりと大事に吐き出した。
そして、ウイスキーのボトルを仰向けになったまま、顔に水を浴びるように、口を開き、ゴボゴボと胃の中に流し込んだ。
遂に脳裏の忌々しい「美咲と吉川の逢引き」映像は真っ黒に消えていった。
茂樹は意識を失った。
左指に挟み込んだ煙草の火は、指を溶かすようにし、消えていた。
二階から肉の焦げるような匂いに異変を感じた母親が119番通報をし、茂樹は救急車で病院に搬送された。
医者は、茂樹の胃と腸に残った睡眠薬の残量を洗浄薬で排出し、心房の血流が止まっていたので、電気ショックで鼓動を回復させた。
茂樹は一命は取り留めたが、脳波に異常を来たし、意識の回復を待ち、精密検査をする必要があった。
茂樹の意識は二日間、戻らなかった。
警察官が母親に自殺の動機等を聴取したが、母親が言えるのは、重度の不眠症であったことぐらいであった。
茂樹は3日後に意識が回復したが、脳波の検査の結果、脳波の乱れが激しく、激しいというより、記憶を掌る右脳の機能が停止しており、所謂、記憶喪失状態になってしまっていた。
母親さえ認識できない、もちろん、美咲も何度も何度も見舞いに行ったが、茂樹は生きた化石のようにじっと天井を見ているだけであり、美咲の問いに応えることはなかった。
医者の診断では、停止している右脳の治療として、定期的な電波治療が必要であり、場合によっては何か月、いや、何年もかかる可能性があるとのことであった。
茂樹は治療に専念する必要から高校は退学した。
美咲は、この二度目の茂樹の急転直下の衝撃な行動にかなりのショックを受けた。
そして、美咲は何となく今回の茂樹の蛮行が自分が、あの吉川との付き合い、逢引きをしたことが関連していると感じていた。
茂樹があの楠木の上で言った、
「全ての思い出が、あの光景に邪魔される。」と言った言葉を思い出していた…
(…もしかしたら、私のせいでは…)と美咲は危惧した。
その通りであった。
ただ、そのことを唯一語れる茂樹は口を閉したままであった。
茂樹にとっては、あの映像を見なくて済む、ある意味、成功した行いであった。
美咲と愛を育むより、今現在の苦悩から逃げてしまったのだ。
美咲はもう私は逃げない!私しか茂樹君を助けることはできないと覚悟を決めた。
美咲は毎日、茂樹を見舞いに行き、言葉はかけず、手を握り、心で話しかけることにした。
(…あの裏切りの倍以上の愛を貴方に伝えます…)と無心に念じ続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます