第15話 心の深淵に生じた傷跡

 2月の第2週、この週末の土曜日は聖バレンタインデーであった。


「美咲、今年も2.14はスルーするの? 誰でもいいから、あげちゃいなよ!女子の年中行事だからさぁー」


「いいよなぁー、紫穂たんは彼氏いるからさぁー」


「うん!もうね、2.14で頭の中一杯!」


(‥こういう奴が居るからデパートは儲かるんだな…)


「それにしても、新年明けてから、美咲、元気ないね。何か悩み事あるの?私で良かったら何でも話して!」


「紫穂、ありがとう、大丈夫!」


(…死んでもこの子にだけは言わんわい!九官鳥めが…)


(でも、どうして、茂樹君、『ずっと一緒だよ』って言ってくれたのに‥、何でなの…急に人が変わったみたいになって…)


 その日の中休み、美咲はトイレから出て、教室に戻る時だった。


 向こうから茂樹が歩いて来た。

 周りには誰も居なかった。


 美咲はトイレの前で立ち止まり、茂樹を見つめていた。


 茂樹の目線は美咲の方角を指していたが、その目の中には美咲は居ないように美咲には思えた。


 美咲は思い切って声を掛けようと思った。


 茂樹が美咲の前まで来て、男子トイレに入ろうとした。


 「茂樹君、どうしたの?」と美咲は声を掛けた。


 茂樹は何も聞こえなかったようにトイレに入って行った。


(‥どうしてなの?何で無視するのよ…、何があったの…)


 美咲は茂樹がトイレから出てくるのを待った。


 茂樹が出てきた。


 やはり、仏頂面で全く美咲の存在を意識してない雰囲気だった。


 美咲は茂樹に言った。


「何があったの、教えてよー!」と


 茂樹はまたしても何も聞こえなかったように美咲の横を素通りし、教室に戻って行った。


 美咲は茂樹の後ろ姿をなんとも言えない気持ちで見続けた。


 その日の夕食、美咲の元気のない様子に母親が流石に声を掛けた。


「美咲、最近どうしたの、食欲もないし、全然喋んないし、何かあったの?」


「何もないよ。年明け、疲れてるだけだよ。」と美咲は不機嫌に答えた。


 その時、電話が鳴った。

 母親がはいはいと言いながら電話に向かった。


(…もしかすると、茂樹君かなぁ~…)と美咲は期待した。


 しかし、母親の電話の対応を聞いていると明らかに茂樹ではなかった。


「はいはい、美咲なら居ますよ。大丈夫よ!少し元気ないけど、病気とかじゃないから、ちょっと待ってね!」


「美咲、吉川君から電話よ、相変わらず、吉川君、礼儀正しいわよねぇ~」と母親は笑みを浮かべ美咲を呼んだ。


 美咲は徐に電話口に向かった。


(…何の用かな、デビルマンめ…)


「もしもし、どうしたの吉川君」


「いやねぇ、最近、藤田、元気がなさそうだから、どうしたのかなぁーって思ってね」


「大丈夫だよ。少し疲れているだけ。ありがとうね。」


「それなら良かったんだ。何か思い詰めている感じだったから心配になってね…、良かった!じゃあ、また、明日、学校でね!」


「ありがとう吉川君、じゃあねぇ~、バイバイ。」


「美咲、吉川君、お母さん良いと思うよ。礼儀正しいし、お父さんも県庁のエリートだからお家もしっかりしてるしね。

 堀内君より、お母さん、吉川君が良いなぁ~」と母親が嬉しそうに言った。


 それまで、何も言わず晩酌していた父親が口を開いた。


「吉川って、あの企画課長の息子か! 親父は調子の良い奴だ。」と


「お父さん、吉川さん、嫌いだもんね…」と母親が言った。


 珍しく父親が愚痴らしい言葉を吐いた。


「群れをなして、派閥作って、何の実力もないのに、胡麻だけ刷って課長になった男さ!あんな調子の良い、自信過剰の奴は、お父さんは大嫌いだ!」と


「父親と息子さんは関係ありませんよ。ねぇ~、美咲。」と母親はまだ吉川を推すように言った。


 美咲は食事を終え、お風呂に入り、バスタブに浸かり、考えていた。


(…今日の茂樹君、完全に私を避けてる、私が一体何をしたって言うの?意味が分かんない!それに比べ、吉川君、一回振ったのに、また、気にして、電話まで掛けてくれて…、優しいよなぁ…)


 美咲は今の悪い流れにまんまと乗ってしまいそうになっていた。


 弱っ時に優しくしてくれる人間、皆んなよく見える。それも、急転した茂樹の自分を毛嫌いするような態度を見せつけられた美咲にとって、吉川に心は傾いていった。


 自然の掟とも知らずに。弱った者に、普段は近寄りきれずにいたハイエナが急に群がる。

 サバンナの掟と同じであることに美咲は気づかなかった。


 次の日から、学校でも、美咲と吉川の会話は進んだ。

 吉川の冗談に笑い転げる美咲の姿があった。


「美咲ぃ~、デビルマンと寄り戻したの?」


「うーん、戻した訳ではないけど、普通に接してるだけだよ。」


「うん…」


「どうしたの、紫穂、何かおかしい?」


「いやねぇ、デビルマン、中野さんに告白して断られたみたい。そして、直ぐにこの立ち直り、元カノの美咲に急接近でしょ~、流石、デビルマンと思ってね。」


「吉川君、中野さんに振られたんだ、そんなこと言ってなかったな…」


「当たり前よ!あの男が自分に都合の悪い事、言うはずないじゃん!」 


「うん‥、でも、優しくしてくれるよ!」


「美咲ぃ~、『後悔先に立たず』、一生の汚点って言ってたじゃん!」


「でも、私に声を掛けてくれる男子、吉川君だけだもん!」


「知らないよ!後で後悔してもさ!」


(…うーん、今日の紫穂の言葉は重みがあるな、珍しいわ…、だけど、皆んな知らないんだよ、私が傷心したのを…皆んな知らないから…)


 その頃、茂樹はやはりあの深層心理を考え続けていた。


(…今日の美咲はいつもの美咲だった…、でも、俺の心にはどうしてもわだかまりが残っている。

 嫉妬心…、妬み…、僻み…か!

どうして、あの光景、美咲とデビルマンが二人っきりで仲良く帰っていた、あの光景…、急に現れてきたんだ!俺の脳裏に、心裏に‥、クリスマスのこと、全然、思い出せないよ…、全て、美咲と吉川のあの光景が邪魔するんだ…、一体、俺はどうしちまったんだ!」と苦悩に満ちた自問自答をひたすら続けていた。


 人を好きになると、その女を自分だけのものにしたくなってしまう。

 女を好きになると、その女の過去は一番聞きたくないものである。

 しかし、茂樹はその目で見てしまっていた。

 美咲の軽い気持ちでの吉川との付き合いと知っていても、今の茂樹を、うつ病という心の病、被害妄想の塊と化した茂樹の心を決して納得する理由にはならなかった。


 茂樹のこの苦悩の捌け口は、全て「怒り」のエネルギーに消耗されて行く。


 青春時代、思春期の少年、ほんの些細な事でも本能的な自己防衛が働き、周りが全く見えなくなる。


 人から見れば、些細な事、たわいのない事、何でもない事が、時にして、心の深淵に傷を残し、その傷は決して、光にあたり、癒されることなく、永遠に傷として残る。


 人間が生きる上で、その個体、個人の人格形成が整い、自我、アイデンティティがDNAから独立するこの青春時代、実は人生の中で最も重要であり、ある意味、危険な時期でもあるのだ…

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