番外 父親へのモヤモヤを言語化してみた

 二〇二二年一月二六日、パソコンの中から発掘したので公開してみる。

 この自分史は、基本的に時系列の出来事の羅列から文章を起こしているのに対し、番外編は対父親についてなどを時系列無視で書きなぐっている。この文章を自分史に収録するかは現時点では決めていない。

 自分史の初稿を書き上げてから、文章が何も出てこなくなってしまった。スッキリしたと言えばいいのだろうか?

 細かい出来事を思い出す事があっても、文章にならない。断片化された記憶が欠けた陶器のように指先にふれ、感触は残るし気に入らないけれども自分の力ではどうにもならない、そんな気分になる。

 思考力も落ちている。父親との負の思い出を思い返して、それについて文章化しようと試みてるが、失敗が続いている。

 思考が大きくぶ厚い壁にはばまれて、それ以上先に進めないでいるのだ。向き合わなければという気持ちに反して、思考は逃げてしまう。

 単に何があったかという、俺の見た事実を列記しようとしても「はて、具体的に何があったかな?」と記憶が無くなっているのに気づく。嫌な出来事があった感情の記憶はあるが、具体的な事は記憶にないというのはよくある事なのだろうか?事実と感情の分離が適切に行われていない感覚は、しばしば仕事などの報連相の時に混乱を生じるので生きていくのに不利なのだが。

 何かにとりつかれたような、自分史の出来事発掘の集中力は切れてしまった。しかしいつ回復するのだろう。疑問ばかりだ。

 もう一度、父親からされた事を思い出してみよう。

 小学生の頃に逆上されて、髪の毛をつかまれて顔面にパンチを食らった。唇は切れて血が少し出た。めっちゃ痛かった。泣いた。殴り返さなかったのが未だに悔やまれる。

 なぜ殴られたか?すぐ下の弟をいじめたからだと思う。記憶が曖昧だけれども。それほど父親の怒りを買ったのが不思議で、俺は殴るだけの事を弟からされたはずなのに、なぜ?という不満が残っている。兄だからという理由だけでなぜ我慢を強いられたのか謎だ。何を我慢していたかはよく覚えていない。

 記憶しているのは「お兄ちゃんなんでしょ、我慢しなさい」という母親や祖母のセリフだ。理由になっていない!しかも何を我慢していたのか記憶に残っていない!なんなんだ!苦痛の記憶だけ残って、何が苦痛だったかを忘れてしまっている。

 これが本質なのだろうか?そんなの嫌だ。そのうち苦痛の記憶も薄れて、消えていくのだろうか?消えてほしいけれども。

 小学校の時に家出した時の父親の反応も記憶にない。何も言われなかったか?殴られなかったか?自家用車で迎えに来てもらった事だけは覚えている。

 木刀で殴られたのは幼稚園頃だったか、箸の持ち方が悪いと逆上され、木刀で頭をこづかれた記憶がある。あれも痛かった。

 幼稚園前か幼稚園の頃、家から何があったか忘れたが追い出され、家の前のブロック塀に置き去りにされた事もあった、怖くて泣いた。父親は何がしたかったのだろうか?意味不明でその事自体を思い出すと怖い。

 次に思い出したのは十九才くらいか高校生の頃か。父親に寝ている俺の頭を足蹴にされた事だ。いつだか忘れている!ああもう!

 いや、継続的に足蹴にされたので記憶がごっちゃになっている、覚えている事は、朝俺が起きてこなかったからだと思う。父親が唐突に自室へ入ってきて、怒鳴り声と共に俺の頭を足蹴したのはよく覚えているのだ。

 その時に感じた、父親への怒りの感情だけはよく覚えている。起きなかった俺が悪いのは仕方ないとしても、頭を足蹴するのはないだろう。ひどすぎる。人間扱いされていないと感じた。殺してやりたいとさえ思った。過眠の傾向だったのか、宵っ張りだったからなのか。両方だったのかもしれない。

 仕事の説明不足も思い出した。十九才から二八才くらいまで、父親と一緒に仕事をしていたが、非常にやりづらかった。圧倒的に説明が足りないのだ。

「俺にエスパーになれと言ってるのか?」が口癖になっていた時期でもある。おかげで病んだ。五〇才の今なら逃げ出すだろう。というか逃げ出す事ができたのが五〇才の今か、逆説的だが。

 この説明不足は非常に言語化するのが難しい。寡黙ではないのだ。よくしゃべるのだが、致命的に説明が足りてない。同じ言語を使っているはずだが、意思疎通が難しい、が一番近い表現だろうか。

 今なら指示書を書けと一蹴して終わるか、メモを書かせろといった感じで、口頭指示で印刷物が作成できると思っていた節もある。俺を天才か何かと思っていたのか?

「言わなくても分かるだろう?」が口癖だった気がする。バカか親父は。いやバカなのだが。

 他に具体例が出てこないのがまた悔しい。そういえば、思いつきで何かを言ってくるのも苦痛だった。自分がおじさんになってから、その思いつきが重要ではなく、ただの意味のないざれ言で、仕事にも特に反映しなくていいと分かったのは目から鱗だった。

 脳の処理の切り替えが病的に不得意な自分にとって、父親の思いつきで差し込まれる作業は苦痛だった。しなくていい苦痛だった。でも具体的にいつどんな作業だったか思い出せないのだ。本当に苦痛しか残っていないのはあきれて、疲れてしまう。

 殴りながら愛してるという父親にも参ってしまった。後年、そういう行動をされた側が病むというのを知った時「俺の病気の原因のひとつはこれ(専門用語でダブルバインド、二重拘束の意味)だったのか!」と目から鱗が落ちたのだった。単なる嫌がらせ以上のもので、記憶に残っているのは矛盾した言動への俺の混乱した気持ちだけである。父親は何を考えて俺にそんなことをしていたのか?不明というかおそらく何も考えていないと思われる。

 なぜそのように言えるか。そういった言動について「矛盾してるよ」と指摘した事がたしかあったのだ。しかし話が通じなかった。そのような事は覚えているが、いつ具体的に何を言ったかまでは記憶にない。手紙にでもすればよかったのかもしれない。

 なるほど父親に読まれるか読まれないかはさておき、一度手紙を書くというのはありなのかもしれない。父親から受けた虐待というか嫌がらせを、俺は記憶しているぞという表明は十分価値あるものだと思いたい。

 考えるに、一方の父親にしてみたら、扱いにくい子どもだったのでは?というのもある。児童虐待(ゼロ才時に右腕に大やけどを負わされた件、母親から見捨てられた件、しつけと称して木刀で殴られた件を児童虐待と言わずになんと言えばいい)の後遺症で衝動のコントロールができない子ども、というのは生きづらいものだし、親からすると扱いにくいものだろうと思うのだ。

 家庭環境も悪かったというものある。その原因は父親にも一因があるのだけれども。問題がある家庭だから宗教にはまったのか、宗教にはまったから問題ある家庭なのかどちらが先か分からなくなってしまったが、原因の一因は宗教にもあるよなと思う。宗教二世三世は辛いのだ。なにせ信教の自由がないのだから。

 だが俺は言う。父親に不当な扱いを受けたと。それは成人しても、老年にさしかかろうと記憶から消えないで残る。殺意にさえなっていた。この殺意や辛い記憶とうまいことつき合いたい。できることなら消し去りたい。

 そのために一度文章に書いて、原稿として俺の外へ書き出す事で、第三者の目線で客観的に見られるようにしたい。できているだろうか?自信はないが書くしかない。

 校正中の今もこの作業は続いている。時間に沿う形ではないが、自分史のもう一つの形になったとは思う。

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