エピソード一二 コンピュータやインターネットについて
コンピュータが好きだ。子どもの頃に欲しくて欲しくてどんなに憧れた事やら。五〇才の今になって、中古でA4サイズのノートパソコンが三万円以下で入手できる環境は、とてもありがたい。
初めて家庭用のコンピュータを見たのは小学校四年生か五年生ごろだった。大堀(父親が横須賀市役所つとめの同窓生。ちびでガリ)か溝田(隣のクラスだった宇宙人みたいな同窓生、ビルみたいな家に住んでたのと小学生のくせに当時YMOにドハマりしていた記憶がある)の家にあるのを見せてもらったのだ。たしかF社のヤツかS社ので、今では骨董品のホビーコンピュータである。マイコンとも呼ばれていた気がする。子どもの俺にとっては高価なおもちゃだった。それは今も変わらないが。
さりとて自分の家は貧乏で、叔父がゲーム機とコンピュータの中間のようなSG社のコンピュターをプレゼントしてくれたが、当時の俺には高度すぎてベーシックは難しかった。今のような周辺機器やメディア(CDやDVDやフロッピーの事)もなかったし、いわゆるナイコン(パソコンを所有していない状態を指すダジャレ)のまま大人になるまで、欲しい気持ちにブレーキとアクセルを踏みっぱなしにしていた。
その間も高校の悪友であった鳥海の家では、MSX2(特定のメーカ名ではなく、汎用コンピュータの規格名で、各社から製品が売られていた)やS社のマシンがあり、飯島の家にもS社のマシンがあったはずだ。どうして覚えてるかって?遊ばせてもらったからだよ!もう最高だった。主にゲームばかりだったけれど、コンピュータは最高のおもちゃの一つだったのだ。高校生なのに酒をのみつつ、Gというシューティングゲームをする楽しさ。俺は下手っぴだったけれども。それでも最高級のテクノロジーが家庭にあるというのは、イカした出来事だったのだ。
幼稚園から同窓生である梅井武夫君(父親が高校教師。高校の時、別学年の担任をしていたので、父様とも顔見知りであるというのはエピソード六と番外焼き鳥屋でバイトした話で触れている)の家ではN社のマシンだった。日本語表示ができるので(令和の今では考えられないだろうが、漢字を表示するためだけの拡張機能を購入しなければならない時代だったのだ)、漢字が表示されたWというロールプレイング・ゲームを見せてもらったのは、シビレた思い出だ。アレはよいものだ。なんで梅井武夫君だけ、フルネームで君付けかというと、ホレてるからで、いつまでも俺の中ではロリコンもパソコンも強い奴でヒーローなのだ。
ナイコンだった俺は、主にK社のCという雑誌(コンピュータゲームや、サブカルチャーに強かった)を買って自分を慰めていた。いつしか自分もコンピュータ持ちになりたい!と願いながら。
この雑誌が俺に与えた影響は深い。コンピュータゲームだけではなく、テーブルトークロールプレイングゲームではL戦記という沼にハマり、クロちゃんのRPG千夜一夜物語というコラムでは古今東西のゲームに関連する知識におぼれ、大人の袋とじではエロスにめざめ、アイドルのコラムもありと中高生には毒だった。いやとてつもなくハマったので薬だったのかも知れないけど。
しかしながら最初に自分のマシンになったのは、R社のワードプロセッサで、横須賀市汐入町の自宅の二階に、祖母が死んだ後でおいてあったのを記憶している。ゲームのマッピングや何か雑文を書いていた記憶がある。あれ?五〇才の今とどこが違うのかなってくらい懐かしい感じを覚えてる。三昧の境地というか夢中の味というか。
次に触ったのが高校のパソコン室にあったF社のマシンで、世界初のCDーROMドライブ搭載機だった。だが今はよく覚えていない。誰か別の人が遊んでいたのを、後ろから肩越しに見せてもらったくらいだったような気がする。
一九才になって触った手動写植機は厳密にはコンピュータではないが、マイコン制御だった。デジタル化でA社のMに触れたのが大人になって使用した初めてのコンピュータである。
使用であって所有ではないんだなこれが。所有はもう少し後になる。それは悪くないが癖が強かった。最初にふれるにはやけどしてしまった、もちろん比喩なのだけど。
どういう事か説明してみる。その頃コンピュータには主に二種類あって、A社かM社だったのだ。デザイン分野で引っ張りだこのA社。事務や文章作成はM社が主だというざっくりした認識だ。細かい事を言うと、他にもOS(オペレーティング・システム、基本ソフトとも言う)があるのだがここでは省略する。
話を戻すと、最初にふれるコンピュータというのは癖が強いとその後の技術の取得にも影響が出ると思う、というか実際に影響があった。とはいえ俺だけの話である。話をつづけると、俺はA社の信者になってしまったのだ。世界救世教からA社教へ宗旨替えしただけだったのだ、熱狂とは恐ろしい。コマンドプロンプトが理解できない病にもなった。やっと年齢五〇才にして少しCUI(黒い画面に$コマンド?とか表示されてるアレをキャラクター・ユーザ・インターフェイス略してCUIと呼ぶ)となれ合いできるようになったけれども。
以上を、少しでもわかっている人に説明するならば、「痛いマカーになってしまったのだ」で済む話なのだが……。
三〇才ごろになってデザイン・印刷業界から離れるまでこのA社の信者である状態はつづき、そこから抜け出すのに数年かかってしまった。それだけ中毒性が高いユーザ体験なのだけど言語化は難しい。山川健一がマッキントッシュ・ハイという本で、熱狂について言及している。
鳥海とシェアハウスする時に中古のPCを花山から譲ってもらった。それが確かF社のマシンだったはずだ。主にゲームでなくエロ画像とテキスト収集に使った、そうゲームから興味は移っており、夜のオカズを探すツールになってしまったのだ。
いやそれだけでなくて、でもゲームから画像やテキストに主軸は移っていった。ADSL回線(広帯域インターネット接続サービス)の全盛期だ。ゲームより人とのつながりや揉め事の観察といった事象に俺の興味は変化していった。コンピュータへの興味がインターネットに置き換わった瞬間でもある。
この時期にいわゆる割れ物(ソフトウェアや音楽の不正コピーとその共有)について知る事になる。といっても、自分はそれほど興味がなかったのと保存領域の容量が足りないので物理的に手出しができなかったというのも覚えている。弱虫なんだよ昔も今も。
この不正や背景技術への興味はあるものの、実行には移さないというある種の倫理観は二〇年近くたった五〇才の今でも保っている。プライドみたいなものなのだ。もしくは酸っぱい葡萄なのかも知れないが。
順不同でインターネットの事を書いてみよう。T(仮名)という無料サイトサービスがあった。そこに間借りして「赤裸々日記」というのを書いていたのがたしか二〇〇〇年か二〇〇一年ごろだ。交通事故から一年経たかそれ未満だった気がする。内容はどうでもいい日々の雑記や呪詛だった気がする。書いたそばから忘れるからだ。記憶していない。ソースは手元に残っているかもだが確認したくない。T社がI社に吸収合併されてからも日記の記録は残っていたらしいが、FTPのパスワードを忘れてしまったために日記の更新ができない。それはインターネット・アーカイブに令和四年の今も残っている。
有名な匿名掲示板についても少し触れる。名無しで適当に利用していたが固定名は使っていなかったと思う。なので実のところよくわかってないのだ。匿名掲示板群が膨大すぎるという事もある。D板やH板関係、分裂する前のM板は見ていた気がする。書き込みはほぼしなかった。いや、分裂してからも書き込みしてたか!でなければ旧知の知人たちとは知り合いになれなかったはずだ。
デスクトップマスコットの任意(伺か)関連でA社を題材にした、あくあというキャラクターがいて、そのネタ出しをするスレッドの住民を気取っていたのは覚えている。恥ずかしい過去だが告白しておく。
いつごろからか忘れてしまったが、Rにもハマった。後年Nに名前を変えたがI(ネットワーク上で音声や動画などのメディアを、ストリーミングするためのプログラム)を使った、当時は画期的なサービスだったのだ。そこでも住人を気取ってた俺はルール違反者の掲示板へ突撃したりしていた。これも恥ずかしい過去だ。自治厨(厨房、中坊をさすネットスラングここでは自治する痛い人の意味)はアカンて。この頃からネットストーカーじみた検索テクニックを使い始めていた。言語化するのが難しいが、検索よけしなければ割と放送内容から相手の素性やウェブサイトを探ることができるのだ。
P(オープンソースで開発されている、Peer to Peer方式のライブストリーミング配信ソフトウェア)にハマったのはRの次だった。同じようなサービスでもよりアンダーグラウンドに近い自由なツール・サービスだった。M娘。ファンやJファンがP2Pで好き放題していたサービスでもある。それらの片隅で割と好き勝手させてもらった。
Cの掲示板群を巡回してたのもこの頃だった。匿名掲示板で日々おきたどうでもいいがそれなりに重要と思われるニュースを見聞きして、議論?する遊びで無意味に楽しかったのを覚えている。
Hというウェブサービスに流れついたのはいつだろうか?覚えていない。気づいたらアカウントを取得して日記の続きを書いていた。が色々あって消してしまった。Hでは、グループ機能というのがあって、U(N社のサービス)のグループを立ち上げたりもした。トロール牙峠戦争のIDも取得していたが使わずじまいだった。通称増田、H匿名ダイアリー(「日本しね」で有名になったサービス)でもたまーに雑文やテスト投稿をしていたりもした。相変わらず突撃や棘のある表現を使っていたが、赤裸々日記の頃やRで自治をしていた頃に比べたら、丸くなっていたと記憶している。
そんな事ないかもしれないが!
そうそう、一つ自慢というか消してしまって悔しいコンテンツに「お話聞きました」という、無知な俺が他の人に色々聞きまくる、ロングインテビュー形式の読み物があったのだ。でも、聞いている俺本人が某団体の偉い人みたいで嫌になってしまったのだ。自分は無知なだけで偉くもないのにコンテンツが増えれば増えるほど偉い人扱いされたり、自分を偉い人と勘違いしてくるのが気持ち悪かったのだ。その辺の気持ちに折り合いがついたらこの形式のロングインタビューは読み物として面白いので聞き役に徹してみたい気持ちは今もある。単にうなずくだけではインタビューにならないのだけれども。
この辺りの詳細は別の原稿『のらDJとは何だったのか?』で触れる。
気が付いたら一五年もTをしていた。むしろ他のサービスに手を出さなくなってからそれだけ年月が過ぎてしまったという事でもある。フェイバリットがふぁぼに、そしてスキになったり、用語の変更はあるが基本的に虚空に向かってつぶやいてばかりである。ちきりんにブロックされた事は心外だけれども。(ココ笑うポイント)
Lを使うようになったのはここ一年から二年くらいだ。古いパソコンをよみがえらせるという目的でLの事を覚えている程度には興味があったが、まさか金欠が理由でそれを使い始めるとは俺自身思わなかった。
最初に触れたのはシングルボードコンピュータ用のROSで、おどろくほど使い勝手がよくなっていた。何と比較しているのだろうか?自分でもよくわかっていない。印刷屋時代に少し触ったDOSと比較してるのかもしれない。全然違うOS(基本ソフト)なのに!
学のない俺にインターネットは優しい教師だった。今もそれは変わらない。ところが最近そうでもなくなってきた。とても悲しいことだと思う。善意が銭に駆逐された感じだ。うまく言語化できない。
書き出した割には思ってたほど告白じみてもないし、衝撃的でもない。感情と事実の分離ができてないからだろうか?
Tのログを一五年分眺めながらなら、また違った文章が出てくるかもしれない。
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