111 隆之介
「菊乃さんは……ご存じだったんですか? 先生が養子だってこと」
「ああ。ただし最初からじゃない。多分、親父との間で同居するしないの話が出た後だろうな。親父はもちろん隠し通すつもりだったろうが、言わざるを得なくなるような勢いで迫られたんじゃないか? さんざん世話にはなってるから
唯一実子ではない新藤を、菊乃は五人の中で一番かわいがったという。その心中はもはや知りようがない。
「お父様には……愛する方がいらしたんですね」
新藤の呼吸に
「菊さんとのゴタゴタの当時はどうだったか知らんが……」
「
「ああ。死ぬまでの十一年、かな。もしかしてお前……誰かから何か聞いてんのか?」
そう思われても仕方がない。
「いえ、私の勝手な想像です。そう考えればいろいろ説明がつくなあと思っただけです」
この三日間、ものを考える時間だけはたっぷりあった。新藤も「なるほど」という顔でうなずく。
「結婚どころか同棲すら叶わなかったが、あの人は親父のことを今でも
「気持ちの上では夫婦と同じなんでしょうね」
「そうみたいだな。だが親父はそれを認めないまま……自分を恥じたまま死んだ」
一希の胸がきゅっと痛む。
「まったく、どこまでも対照的だな、あの二人は。片やクソ真面目の頑固親父、片や愛想のいい楽天家。それでうまくいくんだから、わからんもんだ」
お似合い、というのは、案外そんなものかもしれない。
「先生はいつ頃お二人のことを?」
「親父は意地でも口を割らんつもりだったんだろうが、
「いきなりって……」
「お互い毎日見舞ってはいたんだが、親父が別々の時間帯を指定してかち合わないようにしてたんだろう。それをあいつは、しれっと裏切った」
「さすがですね。お陰でやっと三人そろって会えたんですね」
「まあな。親父だけは
「そのときが初対面、ですか?」
「ああ。親父はまともに紹介すらしてくれなくて、病院を出てから二人で飲みに行った。俺は何だか妙な気分だったが、話してみれば何となく気が合ったというか……まあ、あの人は誰とでもうまくいくんだろうな。結局、数日後には一緒に親父の
「菊乃さんは、その……お父様の最期のときは?」
「いや、来てない。遠慮したってことだろう」
音のするような重たい
「『母親を与えてやれなくてすまなかった』。最後の三日間はうわ言みたいにそればっかりだ」
新藤はその三日間を思い出すかのように、静かに目を閉じた。
養子の事実を周囲に隠してきたのは、新藤自身の都合というより、父隆之介の秘密を守るためだろう。
新藤が再び
「本当のご両親については……」
「何の手がかりもない。生きたか死んだかもわからん」
実親が誰なのかわかっていたら、新藤はどうしていただろう。それでも現場を離れ、一希に処理室を任せ、
――どうして……。
もっと早く教えてくれなかったのか。こんな大事なことを黙っていたのか。このベッドで目覚めてから今日まで、一希は何度も心の内で問いかけ、責め続けた。
しかし、身を切るようなこの「なぜ」の答えは、おそらく一希の推測通りだろう。
余震に襲われ続けたあのザンピードの現場。
穴の中で一希を埋める直前、一希のヘッドライトに照らされて新藤の腹で光ったのはきっと遠隔抜き用のワイヤーだ。そのボタンだけが、糸の代わりにそんなもので厳重に留められていた。
上下のボタンと色はほぼ同じ。四つ穴も同じ。でも一回り小さい。そして、少し盛り上がった縁の部分が太い。一希の生涯で、これほどどうしようもなく記憶に焼き付いているボタンは他になかった。
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