91 帰還


 日がだいぶかたむいた頃、タイヤが砂利を踏みながら近付いてきた。


 なじみ深い響きに、再び血が巡り始めたような、ごく当たり前の日常がよみがえったような安堵を覚えた。張り詰めっぱなしだった空気が不意にゆるみ、一希の涙腺もそれにつられた。外へ出て車庫のシャッターを開けてやりたかったが、今出ていったら泣き崩れそうだ。


 玄関の引き戸を開けて入ってきた新藤の姿を直視できないまま、一希はその気配のありがたさに唇を噛んだ。お帰りなさいの一言を発せずにいると、新藤が先に口を開いた。


「結局爆破になっちまった。敵の勝ちだな」


 いつになく笑みを帯びたその声に、こらえるはずだった涙が噴き出した。慌てて手でぬぐう。


「さすがによく聞こえたろ」


 一希のうるんだ視界の隅で、作業服の前を開き始めていた新藤の手が止まった。


「……すみません」


 こんな自分が不甲斐ふがいなくて、いよいよ涙が止まらなくなる。


「出直してきます」


 席を立ち、廊下に上がろうとしたそのとき、肘をつかまれた。力強い大きな手に引っ張られ、次の瞬間には視界がオレンジ一色になる。新藤は一希の腕をつかんだまま、首に掛けていたタオルをするりと取り、一希のほおをそっとぬぐった。


 先生の匂いがする。太陽と、土と、爆薬と、そして先生自身の匂いが。


 これまでになく激しい葛藤が一希を揺さぶった。開き直って甘えられたらどんなに楽だろう。何もかも忘れて、V字に開いた胸元に顔をうずめてしまえたら。


 じっとしているのが怖くて、新藤の手からタオルをすくい取り、一希は遠慮なく顔中を拭った。空いてしまった方の新藤の手は、空いたままだった。どうにか現状を保てているのは二人分の理性のお陰だろうが、それがこれほど危うく感じられたことはかつてない。わずかに触れている部分の温度だけが確実に上がっていった。


 その場にけりを付けたのは一希の方だった。一希がそっと一歩下がると、新藤は手を離した。回れ右して自分の部屋に向かう一希を、追っては来なかった。




 新藤の汗が染みたタオルを握り締め、一希はいつまでもベッドに横たわっていた。


 もう限界だった。答えが欲しかった。新藤を補佐し、現場でともに任務を果たす日を夢見たことは忘れていない。しかし、無事に仕事を終えた後、家族の元へと帰っていく新藤を思い浮かべることは辛すぎた。


 この人が帰ってくる家でありたい。せつに願ったが最後、もう引き返すことはできなかった。


 爆弾という恐ろしい兵器のせいで、忠晴は一瞬のうちにこの世を去った。一希には禍々まがまがしい傷痕きずあとが一生ついて回る。二度と誰にもこんな思いはさせたくない。処理士になって、人々に安全をもたらしたい。それ以上の望みなど抱くことはないと信じていたのに。

 

――先生……。


 あなたが欲しい。


 今この瞬間、それ以外の感情も、意欲も、希望も、一希は見出せずにいた。



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