第235話 置き去り




 倍給兵という存在がいる。

 文字通り『倍の給料が支払われる兵士』だから倍給兵である。

 ランツクネヒトという集団において先陣を担当し、両手剣(ツヴァイヘンダー)を振り回して敵の槍衾に穴を開ける存在。

 命知らずの愚か者であった。

 その愚か者の一人が、エロ新聞を片手にしている。

 ヴァリエール・フォン・アンハルトの花押が入った新聞であるらしい。

 らしい、というのは私にはその花押を読む知識がないからである。


「マジかよ。あのエロ参事、三人も少年囲ってやがんのか」


 から笑いであった。

 そんな元気の無い「から笑い」が周囲から聞こえた。

 なるほど、このエロ新聞にはそのようなことが書かれているのか。

 別に参事とあればそのような快楽に溺れていてもおかしくはなく、また彼女にとってもどうでもよいことである。

 皇帝が最低限の給金をランツクネヒトに支払っていることも。

 有事の際の暴力装置として、市民参事会が一部のランツクネヒトを雇用していることも。

 その両者が自分であることも。

 確かに、皇帝は最低限の給金を支払ってくれてはいる。

 確かに、参事会に金で雇われているのも自分ではある。

 だからといって、その二つの雇い主に対する忠誠心など欠片もなかった。

 おなじくして、死への恐怖もない。

 故郷もない。

 捨てた。

 家族もない。

 捨てた。

 どちらもどうでも良かったからだ。

 兵士になるしかない三女四女のあぶれ者が自分であったのだ。

 元より無いようなものであったから、ランツクネヒトの徴兵に応じた。

 なんにも、どこにもありはしなかった。

 かつてあったとすれば――いまは失った忠誠の矛先だけである。

 嗚呼、彼女のためならば死んでも良かったのに。


「それで、今後はどうなる?」


 私は頭が悪い。

 教育を受けたことは無い。

 文字は書けない。

 精々がこのエロ新聞の絵姿は良いものだと理解できるぐらいである。

 だから、それなりに教養がある相棒に問うた。

 彼女はランツクネヒトにおける下士官のような地位についていた。

 一応は騎士階級であったと聞いたことがあるので、文字も読めれば説明するのも上手かった。


「しばらくは、何も起きないだろう」


 彼女はわかりやすく、子供に話すように答えてくれた。


「この新聞は低俗な民衆に広く受け入れられるだろう。過激な内容でエロが詰まっていて、参事の醜聞が実話で詰まっている。誰もが手を伸ばし、興味をそそるだろう」


 次に、わかりづらく答えた。

 どうせ聞いてはいないだろうがと言う風情にて。


「じわじわと毒は回る。参事会とて愚かでは無い。死なないうちに手を伸ばすだろう」

「誰に対して?」

「ヴァリエール・フォン・アンハルト」


 下士官は新聞の花押を指さした。

 私には読めない。

 何せ、自分の名前すら書くことも読むこともできないのだから。

 その話を聞いた私の疑問はこうだ。


「なにもしないでよいのだな?」

「なにもしないでよい」


 何もしないというのが下士官の結論である。

 これは彼女に決定権があるのではなく、ランツクネヒトの共同決定権としてそのような雰囲気が漏れていた。

 正直、知ったことでは無かった。


「参事から金がもらえなくなるが?」

「これ以上金があって何をするんだ? すでにもらったものを返す気も無い。給料分の働きくらいはしてやりたいがね。わざわざ手練れを出す必要があるかね?」


 なるほど、確かに。

 どうでもよいのだ。

 肩をぽん、と剣で叩かれた気がした。

 そのようなことをされた覚えはただの一人に、一度きりしか無い。

 お前、当たり前のことではないかとでも言いたげに下士官が嗤う。


「今でも最低限食っていけるでしょう。酒を飲める。腹が満たせる。男だって買える。最低限の給金を皇帝は払っている。もちろん贅沢だってたまにはしたい時もあった。我々のズボン、甲冑を見繕うには金がかかる。金は多ければ多いほどよいが、それだけだ」

「そうだな」


 かつてはもっと金が欲しいと思った。

 だが、今は、それだけのようにしか感じない。

 かつては餓えていた。

 剣を打ち鳴らし、槍を振り回し、酒場では肉の欠片の取り合いでお互いをフォークで突き刺し。

 馬鹿な奴なんか、肉の取り合いのせいで指を落としかけたりしていた。

 欲深い奴にナイフで切り落とされそうになったのだ。

 それを見て我らはけらけらと笑うのだ。

 そんな日々は終わった。


「もう何も楽しくない」


 今はもうそんな気がしない。

 最低限の給金で腹を満たし、酒に酔い、酒場で寝そべる。

 それだけだ。

 それだけの毎日だ。

 いつか、いつだろうか。

 最高に楽しかったのはいつだろうか。

 最高に高揚を覚えたのはいつだろうか。

 数百もの剣を天に掲げて、打ち鳴らし重ねて出来た剣の道を歩いた時だろうか。

 そのようなことをした覚えは一度しか無い。

 ランツクネヒトの徴兵に応じたときのことだった。

 恐怖と武者震いで無茶苦茶に歯が震えてガチガチと鳴りながら、故郷からも家族からも抜け出してランツクネヒトの一員になったときの記憶だ。

 あのとき、自分は僅かに手にしていたものの全てを投げ捨てた。

 自分が手にしていた貧しい最低限の生活を失った。

 自分が手にしていた僅かながらの蓄えも失った。

 自分の皮膚、身体、つまり自分の生身における一切合切を売った。

 それでも欲しかった。

 命がけで人生を掴みたいと思った。

 それには兵士として、傭兵稼業としてランツクネヒトに入るしか無かった。

 剣の道を歩き終えたその先には、彼女がいた。

 レッケンベルという、ランツクネヒトを集めた傭兵隊長の女がいた。

 眩しい女だった。

 背高のっぽで、どこか遠くを見ているような、それでいて誰もを査閲しているかのような女だった。

 筋肉に包まれた身体をしていて、目などは糸のように細かった。

 冬のバラのように、不思議な香りのする女であった。

 私の乏しい表現力では、その程度しか表現ができない。

 彼女に肩をぽん、と剣で叩かれたのは血盟の契りにおける一度きり。

 一度きり。

 繰り返すが一度きりだ。

 忠誠を誓ったことは一度しか無い。

 皇帝も市民参事会への忠誠も無い我らにも、一度だけ誓った相手はいた。

 今はもういないあの女だ。

 私は全ての忠誠を、あの眩しい女に誓ったのだ。

 私の人生はもうどこにも行く場所はないのだから、この女の後ろ姿をおっかなビックリついて行くのだろうと。

 それしかできないのだろうなと。

 だが、それでもプライドがあった。

 どこか、あの女の目の届く場所に行こうと思った。

 それが倍給兵だった。


「・・・・・・」


 勇気、豪胆、勇猛果敢、冒険心に溢れた有徳の士。

 そのような武人としての価値観など我らは持ち合わせていない。

 だが、誇りだけが存在した。

 どうだい、私は命知らずだろう。

 歯を恐怖でガチガチに鳴らして、ロクに技術も身につけておらず両手剣に振り回されてばかり。

 素人に毛が生えたような程度の私が人に勝てるなど、度胸だけであった。

 そんな状況でも、私はずっと先陣に立っていた。

 あの女に見つけて貰おうと思った。

 皇帝を僭称する敵将を見つけて七つ刻みにする栄光にこそ預かれなかったが、レッケンベルならば。

 賢しい彼女ならば、勇ましい倍給兵がいて、その名前ぐらいは覚えてくれたであろう。

 自分では読み書きすらできない文字の私の名前が、彼女の辞書に刻まれたであろう。

 それだけでよかった。

 でも、彼女はもういない。


「・・・・・・つまらないな」


 世の中というものが、めっきりつまらなくなってしまった。

 ランツクネヒトには伝説があった。

 冒険を求めて諸国を遍歴する円卓の騎士たちの伝説では無い。

 それは騎士のものだ。

 騎士には騎士の、傭兵には傭兵の伝説がある。

 私たちランツクネヒトにふさわしい『レッケンベルの騎行』という伝説がある。

 哀れなる農民出の無教養な、土地も財産も持たぬ者に過ぎぬ我らを引き連れて。

 尊厳や権利を踏みにじられてきた者たちに恵みを。

 全ての戦における圧倒的な勝利と掠奪という初めて口にする甘い果実を。

 たとえ枯れきってしまった『バラのはながら』でさえも、もう一度咲かせて見せられるのだと。

 私たちに信じ込ませるだけの成果を見せてくれた。

 だから、私たちはレッケンベルこそが皇帝にふさわしいのだと考えた。

 このまま帝都に侵攻してしまおうと。

 帝都ウィンドボナへの侵攻に成功し、勝利さえすれば、あのクラウディア・フォン・レッケンベルが皇帝陛下になれるのだと。

 そんな夢を見た。

 だが、現実はそうならなかった。

 レッケンベルは皇帝にならずに故郷に帰ってしまった。

 皇帝に最低限の給金を約束させ、略奪してきた財貨を配り終えて、故郷のヴィレンドルフに。

 それでもいつかは戻ってくると信じていた。

 いつかは帝都に戻ってきて、また何処かに連れて行ってくれると信じていたのに。

 彼女はなんと、あろうことか男騎士との一騎打ちにて死んでしまった。

 何がどうあろうとも死ぬはずの無い女が死んだのだ。

 ランツクネヒトの伝説は永遠に失われた。

 それから、どうにも何もかもがつまらなくなってしまったのだ。

 私だけでは無いだろう。

 ランツクネヒトはめっきりつまらない存在になった。

 ハッキリと言えば弱くなったのだ。

 つい先日も、テメレールの『狂える猪の騎士団』にしてやられたと聞く。

 手練れの殆どは酒場で飲んだくれて、ろくに参加してすらいないが。

 かつての伝説を信じていた我らなら、そのような無様は見せなかったというのに。

 嗚呼。

 そうだ。

 我々がこうも惨めなのは、何もかもがつまらなくなったのは。

 つまらない存在に落ちぶれたのは何故か。


「ぶっ殺しちまおうぜ」


 囁くように口にした。


「誰を」


 下士官が尋ねた。


「ファウスト・フォン・ポリドロを」


 私はハッキリと言ってやった。

 レッケンベルを殺した男を。

 私たちの伝説を失わせた男を殺してやろうと思ったのだ。

 ああ、そうだ、惨めな八つ当たりのようなものかもしれない。

 正々堂々の上での一騎打ちの結末であるならば、敵討ちというのも違うだろう。

 それでもだ。


「・・・・・・殺しても、どこからも金は出ないぞ。ヴァリエール陣営の攻撃という言い訳は付くが、おそらく参事会はその行為を望んでいまい」


 下士官はそう呟いた。

 どうでもよい、そんなもの。

 やりたいからやるのだ。

 殺したいから殺すのだ。

 我々の伝説を失わせた代わりに、彼も命を失って貰おうではないか。


「まして、ランツクネヒトはお前のように全員が命知らずの愚か者ではない。金で転ぶ連中も多い」

「伝説を知らぬからだ。伝説を忘れたからだ」


 私は繰り言のように呟く。


「熱狂を忘れたから弱くなったのだ。太鼓叩きが太鼓を叩き、あのレッケンベルが死に物狂いで奴らと闘わなければならなくなったと叫べば、それだけで皆が血湧き、肉躍り、心沸き立つ戦場を忘れたからだ。私たちはレッケンベルに『置き去り』にされた。誇りは熱が冷め、跡形も無くなってしまった」


 ぴくり、と下士官の手が新聞から離れた。

 新聞はテーブルの上に転がっている。


「今こそ誇りを取り戻すときだ。ポリドロを殺そう」

「・・・・・・彼は砲弾を撃ち返したとも聞く」

「砲弾を撃ち返したから何だってんだ。首を刎ねれば人間は誰でも死ぬんだよ。囲んで叩けば人は死ぬ。数十人の命と引き換えに蟻のように集まれば殺すチャンスは訪れる」


 ランツクネヒトとしての見解であった。

 人は七つに刻めば、どう足掻こうと死ぬのだ。

 かつての『皇帝もどき』で試したこともあるだろうに。

 そう告げると。

 何人かが立ち上がり、ゆらゆらと幽鬼のように私たちのテーブルに集まってくる。

 誰も反対はないようだ。


「死に番を決めよう」

「我ら全員でよかろう。どうせ我らの技量では殺せぬ。ならば差し出せるのは命ぐらいよ。死んだ後に血でも肉でも張り付いて、ポリドロの動きを少しでも妨げれば上等だ」


 そのような言葉が周囲を飛び交う。

 重要なのは、誰が死ぬかでは無い。

 誰ならばポリドロを殺せるかだ。


「殺すのは?」


 全員の視線が、酒場の隅へと移った。

 そこには一人の女が寝ていた。

 名をバウマンといった。

「バラのはながら」が刺繍された軍旗を毛布のようにして身を包み、酒に酔っ払って寝こけている。


「アレに任せればいいだろ」


 ランツクネヒトに僅かにいる超人の中でも、一等強い女。

 身長2m20cm、体重140kg、あのレッケンベルすらも自分に拮抗できると認めた女。

 偉丈婦の彼女ぐらいしか、ポリドロの首を一撃で刎ね飛ばせる女はいそうになかった。



―――――




体調が少し戻ったので更新しますが

次回更新も無茶苦茶遅れると思いますので、ご了承ください

禁酒したので少し文章が硬いかもしれません

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