第101話 贖罪主は何処に?

墓地まで、そう遠くはない。

ファウスト様と私はよく領民が舗装した道を、二人して歩くのだ。

夕暮れはまだ落ちない。

やがて、墓地が近づいてきた。

クロス・アンド・サークルの紋章が、入口近くの大岩に刻まれている。

ポリドロ家の紋章ではない。

ケルン派の信徒たちが、その使用を許されている紋章である。

要するに、この墓地に眠る全ての人はケルン派の信徒であると。

その主張のためであった。


「……」


墓碑は質素である。

多くは石灰石でできており、ポリドロ領の近くの山から掘り出した、そのままであったような。

せめて少しばかりは形を整えてやりたいと、少々手をかけた程度。

装飾的モチーフにはあまり頓着していないのであろう。

そのような墓ばかりであるが、一つだけ大きな岩がある。

人が数人かけて丸太で転がしても難しいような、巨大な岩が墓碑として置かれている。

ファウスト様の母たる、マリアンヌ様の墓だ。

いくらファウスト様が剛力とて、信じられないサイズの墓碑であった。


「ファウスト様」


声がする。

私の声ではない。

そのマリアンヌ様の墓の横に、あの助祭が待っていたのだ。


「お待ちしておりました」

「……どうして、助祭が」

「神母様から、おそらく墓地へ行かれることになるだろうから、と」


ファウスト様は、少しばかり悩ましい顔をした。

勝手なことを、と。

そう思っておられるのだろう。

だが、そう愚痴を言う方でもない。


「判った。一緒に行こうか」


ため息を吐きながら、現状を諦めとして受け入れたのだ。

また、ゆっくりとファウスト様は歩き出す。

私はその後ろを歩くことしかできない。


「マルティナ・フォン・ボーセル」


私の横に、あの助祭が並ぶ。

歩みは止めない。


「貴女は、もはや全てを理解しているだろう。神母様が言われるには、全て何もかもを信徒ファウストにお任せすること。それが本来は正しいのだろうと」


並んで、二人して歩く。


「だが、今の信徒ファウストの経験では、全てを語るに足りないでしょうと。だから神母様は、助祭たるお前が見たままの事を、マルティナに話してきなさいと」


ファウスト様が少し困ったような顔をして、こちらへと振り返る。


「すまないが、マルティナとは私がキチンと会話する。先ほどマルティナに全てを話すと、そう約束した」

「客観的な視点が必要に思えます。ファウスト様の全てのお気持ちを話すのならば、猶更に」


理解できない、と。

ファウスト様は、そのような顔をされているが、私には理解できる。

全てを話すという言葉は真実であり、事実ファウスト様は全てを話そうとするだろう。

だが、ファウスト様がそれで自分の言いたい事全てを私に伝えられるかといえば、話は別となる。

ファウスト様の性格と、よくわからないところがある不可思議な感性を考えれば、本当に全てを語れるかと不安になる。

客観的な意見は必要と言えた。


「お聞きします」


戸惑う顔をされているファウスト様を遮るようにして、横から口を出す。


「では、僭越ながら」


助祭はコホン、と咳をつき、静かに語りだす。


「――神母様によれば、信徒マルティナは、もはやこの時点で、ほぼすべてを理解しているだろうから。ただ、ファウスト様の行いと、仰られた言葉だけを告げるべきだと」


やや私見が混ざってしまうかもしれませんが。

そのように前置きをして、話は続く。


「先日の晩の事です。ファウスト様がアンハルト女王陛下の我儘に付き合い、ようやく領地に帰られた時の事です」


助祭は胸の前に手を合わせ、両の手の指を重ねる。


「ファウスト様は、夜遅く、信徒マルティナにだけは気づかれぬように。こっそりと館から出て、小さな布袋を大切そうに抱えて、教会に現れたのです。そうして、ポツリポツリとたどたどしく話し始めた。夜分遅くに申し訳ないが、神母様にお尋ねしたいことがあると」


何かを祈るような姿で、助祭は語る。


「私は今から伏して頼みたいことがある。以前、私は神母様に対して、我が母の告解について明かす事を請うた。その時、私の悩みなど、神母様はお見通しであったように思う。全ては、マルティナを引き取った事に始まる」


私が知りたかったリドルの最後の一欠片について。


「様々な理由によって、世の利害によって、理によって、マルティナがリーゼンロッテ女王陛下の御前にて、その死を願ったときに、私はそれを拒んだ。それは私にとって、あまりにも受け入れられない結末であったからだ。それに対する後悔はないが、同時に、マルティナを引き取って育てるうちに考えたのだ」


その謎さえ解けるならば。

私の心は少しばかり安らぐものと思えた。


「この子の母カロリーヌは、この子が可愛くて仕方なかったのではなかろうか、と」


だが、助祭が言う、ファウスト様が放った言葉は少し意外なものであった。


「マルティナを騎士見習いとして引き取り、育てる最中に気づいた。私は、幼い頃に不思議な思い出がある。食事の時間に、母上が食事している自分の顔をじっと眺めている時があったと。私も、同じような経験をした。気づけば、マルティナがゆっくりとスープをスプーンで行儀よく掬い取り、それを飲む。そのような、何でもない仕草を眺めている時がある」


何を話しているのだ?

私には、唐突で少し理解が出来ない。


「子供の頃は、よく思ったのだ。母上は、何故私が一々、スプーンでくるくるスープを混ぜるような手癖の悪い仕草を、少し笑ってじっくりと眺めているのだと。ずっと不思議に思っていた。そのような何でもない、くだらない仕草に何故微笑むのかと」


私が指摘した手癖。

それすら、ファウスト様の母たるマリアンヌ様は微笑んで眺めていた。


「マルティナが時折、私の視線に気づいては不思議そうな顔で私を見つめ返すたびに、母上の事を思い出す。そうして、理解したのだ。私はおそらく、母上からこれ以上ないくらいに愛されていたし、マルティナもそうだったのであろうなと」


理解が、少し及ばない。


「私は母の愛情の全てが知りたいと、贖罪のような思いを抱いた。それについては、人生でじっくりと考えて、答えを出していくことのように思えた。だが、今の自分にどうしても足りていないことを同様に知ってしまったんだ。私はリーゼンロッテ女王陛下に、その助命嘆願を無理請いして、その結末としてマルティナを引き取った癖に、彼女を育てることについては何も知らないと。親として何も知らないと」


理解、できない。


「私はマルティナについて、できる限りを調べた。アスターテ公爵を拝み倒して調べた。マルティナを取り巻いていた環境について、カロリーヌやその周囲がどうして反逆したかについて、何もかも全てをいつかは知ってしまうだろうと考えた。あの優しい少女は、マルティナは、その現実に傷つくだろうと理解してしまった」


理解できないのは、我が母カロリーヌやファウスト様の母たるマリアンヌ様の愛情についてではない。

違う。

そのようなことは、全ての盲を開いたとさえ思えた、今の私には痛い程に理解できた。

理解できないのはたった一つ。

何故、ファウスト様がそこまでする必要があるというのだ。


「だから、神母様に頼み込んだのだ。もう時間はないのだと」


私のことなど、そこまで気にされる必要はないだろう。


「その告解を明かす事を望んだ。我が母が、私に対して何を考えていたのか、それをじっくりと考える時間は、もはや子を育てる責任を背負った私にはないのだ。私は命を救った以上は、その人生を引き受けた以上は、何もかもをマルティナにしてやらねばならないと思った」


たかが騎士見習い一人のために、そこまでする必要が何処にあるのだ?

反逆者の小娘一人が、罪を受け入れて、ファウスト様の情けを受け入れずに死んだ。

世間的評判などそれで片付く。

知られるのはファウスト様が頭を床に擦り付けて命を救った逸話だけで、話にも上らぬだろう。

だけど。


「私はマルティナの全てを守ってやりたいと思った」


ファウスト様は勝手なことをする。

皆が。


「私は母マリアンヌの心を知った。マルティナの母カロリーヌが何故あのような事をしでかしたのかを知った。だから、私は悪徳を行う。私は懇願する。そうファウスト様は仰られて、抱えてていた布から、悪徳の塊を取り出したのだ」


皆が、勝手なことをする。

私の気持ちなど知りもしないで。


「信徒マルティナなら理解できるだろう。骨だ。貴女の母カロリーヌの頭蓋骨をファウスト様は見せて、こう仰られたのだ。彼女を弔いたいと」


愚かな事をしている。

馬鹿な事をしている。

喉から、絶叫が起きる。


「何故、そのような事をされたんです!」


ファウスト様は、愚かだ。

どのような手段を取ったのかは知らないが、ファウスト様は王都にて晒された首の、反逆者のそれを手に入れて、ケルン派の教会に持ち込んだ。


「ファウスト様がどのような気持ちで、お前の母の赦しを懇願したかは、続きを聞け」


ファウスト様は、私の声に、悲しそうに眉を寄せている。

それを無視したように冷静に、いっそ冷たく感じられるほどに、助祭は答えた。


「カロリーヌは反逆者だ。罪を抱えるものだ。埋葬に『主の祈り』を与えられるものではない。墓地に葬られる者ではない。私とて、その時は断るべきだと考えた」


助祭の声は、冷たい。


「だが、その骸骨を抱いて、ファウスト様は尋ねられたのだ」


しかし、何処か湿気じみた、熱を帯びたそれを抱えているとも思えた。


「贖罪主は何処に?と」


多分、それは今から語る内容が含んでいるものだろう。

仕方なく、大人しく聞き入れる。


「我々が殺した、カロリーヌの従士や領民は埋葬した。質素な葬送であるが、死は誰にも等しく訪れる。我々は山賊に対しても、そのようにしてきた。ケルン派の教えに従って生きてきた。だが例外がたった一人いる。あのマルティナの母、カロリーヌだ」


仕方ない。


「マルティナは泣くだろう。自分を愛してくれた、母が共同墓地にすら葬られぬことに泣くだろう。なるほど、確かに、この骸骨は罪人である。愛すべき人を、何の関係ない者を、皆を自分の利己主義のために道連れにした。地獄に落ちただろう。なれど、この世界で論じられる通り、本当に親の罪は子に降りかかるのが正しいのか? 子はその罪と苦悩を一生背負って生きていく罰を求められるのか?」


それが当然の結末なのだ。

母は悪徳を行った。

その娘が、連座でその罪を罰として償うのも当然だろう。

そう考える。

だが。


「私は一つの不安を抱いた。マルティナを育てる内に、気づいてしまったのだ。この先、マルティナはいつか、母が自分のために悪を為してしまったことを理解してしまうだろうと。その時、誰かが彼女自身には何の罪もないと言ってあげなければならない。だが、彼女の母が救われなければ、それはただの欺瞞に過ぎないのではないかと。そう思ってしまった」


ファウスト様は、そう考えてはいない。

リーゼンロッテ女王陛下の目の前で、床に頭を擦り付けて、助命を願った。


「そう気づいたとき、私はカロリーヌの首を探していた。もう時が経ち、晒し物や見せしめとしての役目を果たした、マルティナの母の首をだ。手という手を尽くして、森に打ち捨てられたそれを、なんとか手に入れたのだ」


私の助命だ。

だから、もうそれでよいではないか。


「もはやこの骸骨は罪を悔いることすら出来ぬ。主に赦しを請うことすら出来ぬ。それも仕方ないと認めよう。地獄に落ちた彼女とて、それは当然のことと受け止めるであろう」


もう、やめてほしい。


「死者に対して、その死後も非難することは当然だろう。彼女は罪を犯した。その首が晒され、石を投げられ、肉が腐り果て、地に投げ捨てられる。彼女に殺された罪なき人々の事を思えば、それも仕方ないだろう」


我が母の罪に対する弁明は止めてほしい。


「死者への冒涜が赦されぬなどと、近視眼的なことは言わぬ。何もかもが仕方ないと判っている。その結果が、この骸骨だ。私にはちゃんと判っているのだ。それでも、それでも私は神に嘆願する」


誰も、そのような弁明は聞いてくれない。

だから、やめてほしい。

貴方はちゃんと理解していない。


「本当に彼女の罪は未来永劫赦されぬのか? この骸骨の娘は泣いている。だから――だからこそ、もう一度問う、贖罪主は何処に? 私は、彼女の贖罪を乞う。理由はたった一つ。その娘へ重荷をこれ以上背負わせぬためだ。神の慈悲を乞う、カロリーヌ・フォン・ボーセルの埋葬を、あの墓地に許可してくれと。神の赦しを与えてくれと」


詭弁にすぎない。

そう笑い、やり過ごそうとする。

自分の感情を無視して、理屈で何もかもを塗りつぶそうとする。

顔は地面へと向けられて、もはや何も見たくなかった。

自分のせいで、誰も彼もが無理をする不幸な現実は。

だが、襟首をつかむ者がいる。

助祭だ。

助祭が、怒気を剝き出しにして、その聖職者としての分別の欠片もない野蛮な声で、叫んだ。


「我々の目の前で、跪いて乞うたのだ! 理解しているか! ファウスト様がどのように悩みあぐねた揚げ句に、我々聖職者に対して、お前の母カロリーヌの贖罪を乞うたのか! それを理解しているのかと聞いているのだ! 前を見ろ!」


私の頭に、血が昇る。

理解しているのかだと?

お前だって、私の何が理解できるのだ。


「誰も頼んでいない! 私は一度として頼んだことなどない、私は!」


感情が止められない。

言ってはいけないことを言う。


「私を! あの時、リーゼンロッテ女王陛下の前で、私を殺してくれれば、それでよかったんだ!!」


涙が止まらない。

地面に顔を向けた際に、一つそれが零れた時点で気づいていた。

もう、涙は止められそうにない。


「誰もが勝手な事をする! 誰もが勝手に地獄に落ちようとする! 皆がそんな事をしてまで、私は救って欲しくなどなかったんだ!」


ファウスト様が、私の叫びを聞いて、酷く悲痛な顔を浮かべる。

誰も悪くなどない。

私は――もう。


「自分を殺してくれた方がよかった!」


もう、自分という存在に、何処までも嫌気がさしているのだ。

ファウスト様は、その言葉に酷く傷ついたようであった。

それが、何よりの苦痛であったのかもしれない。

だが、助祭がそれに怒りを放って叫ぶのだ。


「9歳の子供が、全ての罪を背負ったような面して、贖罪主気取りで調子に乗ってるんじゃない! お前は最後の最後まで全てを聞いて、この世の全ての愛を理解しなければならない。お前の死を誰も本気で望んでないという事を、理解しなければならない。それでも死にたきゃ、それがお前の寿命だ! 勝手にしろ!」


助祭は、襟首を掴んで離さない。


「続きだ。神母様は、ケルン派の聖職者として答えたのだ」


もはや聞きたくもない、皆の悪徳、その罪の全てを話そうとする。


「この骸骨が犯した罪を許そう。その死に憐れみを抱き、その娘が泣かぬように埋葬を許そう、と。人が赦さぬ罪ならば――贖罪主が、神の子がそれを償うだろう。その死に対して慈悲を乞うものが一人でもいるのならば、贖罪主が、代わりに神に赦しを乞おう。もはや信徒カロリーヌは、信徒ファウストによる斬首を受けたことから、痛悔したものとする」


ケルン派という、気の触れた宗派が答えた回答を。


「信徒カロリーヌ・フォン・ボーセルの埋葬を許可する。一度口にしたこの言葉は、聖職者として違えることはない」


私の母が破門を解かれ、ケルン派の信徒として、この墓地に埋葬されているという事実を。


「これがケルン派の回答である。私はしっかり伝えたぞ。後は、墓に訪れて、そこでファウスト様の話を聞け」


襟首を掴んでいた手は突然に離されて、私は全身の力が抜け。

もはや、今の力では、立ってもいられなくなったのだ。

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