第一章 電波ちゃんとアニメソング。
1-1 電波ちゃんとクラスメイト
わからない。
わからない。
まったくもって意味がわからない。わかるはずがない。
なのに光磨は、大きな紺碧色の瞳に吸い込まれそうになる。不思議と視線を逸らすことができなくて、苦しくて仕方がない。吐き気すら込み上げてくる程だ。
悲しい現実だが、間違いなく電波ちゃんは言った。「アニメソングになりたい」、と。アニソン歌手になりたいと言うのなら、状況的には意味不明だがまだわかる。でも、彼女は決してそういう意味で言っているのではないのだろう。
(アニソンになりたいって何だよ。概念かよ……)
心の中で突っ込みを入れながら、光磨は吐き気に耐えられず口元を押さえる。
「だ、大丈夫……?」
「これが大丈夫に見えるとかお前……」
一瞬、電波ちゃんに「大丈夫?」と心配されたのかと思った。何が大丈夫? だよこの野郎と反射的に思ったのだが、光磨は途中ではっとする。
「えっ、あ……悪い」
声の主は、電波ちゃんではなかったのだ。
「ごっ、ごめんなさい! 枇々木くんが心配で、その……」
白いワンピースタイプのセーラー服――という、奏風高校の制服に身を包んだ少女がペコペコと頭を下げている。
紛れもなく奏風高校の生徒……というか、光磨のクラスメイトだった。
「ほ、
彼女の名前は穂村
栗色の髪をポニーテールにしていて、前髪はぱっつん。黒縁眼鏡をかけていて、小柄で大人しい印象のあるクラスメイトだ。ちなみに光磨の席の後ろが菜帆の席であり、先程教室で「大丈夫ですか?」と声をかけてくれたのも菜帆だった。
「あぁいや、その。悪かったな心配かけて。もう大丈夫だから」
早口で言いながらも、あっちこっちに視線は泳ぎまくる。もちろん大丈夫な訳がない。ただでさえ電波ちゃんの存在に参っているというのに、まさか菜帆に後をつけられていたなんて。電波ちゃんの姿が他の人に見えないのが事実だとすると、今の光磨はマジでやばいやつだ。虚空に向かって「電波ちゃん」などと言い、一人で勝手に気分が悪くなっている。つまりは電波恐怖症な光磨自身が電波的な存在になっている、ということだ。
「いや、まぁ、そうだな。どう見ても大丈夫じゃねえか。はは……元々体調が悪かったんだ。担任にはやっぱり早退するって……」
「ち、違うんです! その……実は私も、見えてるんです」
「…………え」
どうにか誤魔化そうと必死になっている最中に放たれた、まさかのカミングアウト。恐る恐る菜帆が指差す先にいるのは、わざとらしくきょとん顔をする電波ちゃん。「嘘だろ?」と思いながら菜帆と視線を合わせると、小さく頷かれてしまった。
「実は、最初から見えてたんです」
「最初から、というと?」
「ホームルームが始まる少し前に、突然その子が枇々木くんの席に現れて」
「…………」
現れてって何だよ! と、当然のように心がざわつく。しかし菜帆が一生懸命話してくれているため、必死に無言を貫いた。
「私、ビックリしちゃって。思わず大きな声を出してしまったんです。そしたら、皆にどうしたの? って言われてしまって」
「そうか……。穂村さんも俺みたいな状況に遭ってたんだな」
「は、はい……」
まさか自分以外にも電波ちゃんの被害――もとい、不思議現象に遭遇している人物がいるとは。少し安心したような気持ちにもなるが、笑顔を引きつらせている菜帆の姿を見ていると申し訳ないような気分にもなった。
自分が悪い訳ではないが、電波ちゃんに「お願いがあって来たの!」と言われたのは他でもない光磨だ。今までずっと逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが、関係のない菜帆を巻き込んでしまうのならば話は別だと思った。
意を決し、光磨は電波ちゃんを見つめる。
「おい、お前」
「お前じゃなくて、電波ちゃんだよ?」
「……本当に電波ちゃんって名前だったのか」
「えー、知らないよそんなのー」
――パキッ、と。心のどこかが折れそうになった。
しかもあっけらかんとしているものだから、尚更怒りが溢れ出して止まらない。でも、いちいち怒ったり呆れたりしていては
「穂村さんにもお前の姿が見えるみたいなんだが、何でだ?」
「えー、知らないよそんなのー」
「…………おい」
楽しげに笑う電波ちゃんを、光磨は怒り成分たっぷりに睨み付ける。元々目つきの悪い光磨だ。電波ちゃんには効果絶大だったようで、すぐに笑顔が引きつる。
「わ、わかったよぉ。ちゃんと言うから怒らないでよー、ねっ?」
両手を合わせて軽く謝ってから、電波ちゃんは菜帆を指差す。光磨程ではないにしろ戸惑った様子の菜帆とバッチリ目が合った。
「この子はコーマの光になる存在なの! だからこの子にも私の姿が見えるんだと思うよ?」
元気良く言いながら、電波ちゃんは「どうだ、参ったか」と言わんばかりのドヤ顔を放つ。
「…………」
「…………」
いや、本当はわかっていた。電波ちゃんから明確な情報を聞き出すことなど無理なのだと。でも、それにしたって言葉の意味がわからない。菜帆と無言で見つめ合ってしまったのは、きっとお互いに助けを求めてしまったからだろう。
「なぁ、もう少し詳しくできないか」
「えー? それ以上でも以下でもないよ?」
「……そうか」
愛らしく小首を傾げる電波ちゃんを、光磨は無の感情で見つめる。
もう、完全に諦めた。というか、電波ちゃんとまともに接しようとしたのがまず間違っていたのだ。
「もう、良いだろ。アニソンだの光の存在だの。意味がわからないにも程があるんだよ。これ以上俺達を巻き込まないでくれるか」
自分でも驚くくらいに冷たい声が零れ落ちる。
でも、気付いてしまったのだ。想像以上に自分の心は疲弊しているのだと。説明不足のもやもやが溜まりに溜まって、もうとっくに崩壊していたのだろう。電波ちゃんの顔を見ることすら正直嫌だった。
それに、
「ひ、枇々木くん。顔色が悪いけど……本当に大丈夫ですか?」
こんな自分のことを心配してくれている菜帆のこともある。
光になる存在だの何だのと訳のわからないことを電波ちゃんは言っていたが、結局はただのクラスメイトだ。すでに巻き込んでしまっている気もするが、これ以上はもう駄目だと思った。それにこのまま菜帆が自分と関わってしまったら、菜帆までクラスで浮いてしまうかも知れない。琥珀色のまっすぐな瞳を向ける菜帆を見て、それだけは絶対に避けたいと思った。
「ああ、大丈夫だ。……ホント、心配かけて悪かった。ここから先は俺一人でなんとかするから、穂村さんは教室にぃ……っ」
菜帆が遠慮しないように、なるべく力強く言おうとした――の、だが。
言葉は途切れ、光磨は身体ごと前のめりになってしまう。菜帆も驚いたように目を丸くさせていた。
(何すんだよ、馬鹿……っ!)
反射的に、光磨は電波ちゃんに怒りを覚える。
唐突に背中を押されたのだ。しかもこんな狭い屋上の扉の前で。小さな身体から放たれたとは思えないくらいの力だった。目の前には扉にもたれる菜帆がいる。何とかして堪えたいと思ったのだが、残念ながら光磨の運動神経は皆無であり、足掻くことすらできなかった。
ガシャン、と
情けなく両手を突く光磨の腕の間には、上目遣いで縮こまる菜帆の姿。朱色に染まる頬と、眼鏡のレンズ越しに見える色っぽい泣きぼくろ。思わずじっと見つめてしまってから、光磨は慌てて視線を逸らした。
「わ、悪い! …………っ!」
本来であれば、ここで身体ごと離れるべきだろう。でも、身動きを取ることができなかった。
――温かく、優しい光が光磨を包む。
急に何を言っているんだという話だが、これは比喩でも何でもない。信じられないことに現実だ。肌で感じる温度は何も変わらないのに、心の底から温かい何かが溢れ出てくる。摩訶不思議すぎる感覚に、リアリストで電波恐怖症な光磨の心は当然のようにかき乱される――訳ではなかった。
「穂村さん」
この瞬間だけ電波ちゃんのことを忘れ、光磨は目の前にいる菜帆の瞳を見つめる。
「あの時は、悪かった」
「……っ!」
ずっと言えなかった言葉が、まるで息をするように零れ落ちた。
驚いたように目を見開く菜帆を見て、光磨は静かに苦笑する。
頭に浮かぶのは、高校に入学してまだ間もない頃のことだった。
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