さよならを言うために

桐生甘太郎

1話 彼女の影





僕と彼女の出会いは美しかった。彼女はまだ十四歳で、僕はもう四十を過ぎていた。


その頃僕は、昔取った杵柄を活かして子供の家庭教師なんかをいくつか引き受け、その収入で細々と暮らして酒を飲んでいた。酒が好きなわけでもないけど、ほかにしようがなかったのだ。


いくつもいくつも日々が積み重なって、それは苦しみであり、僕はいつもそれをいなすことしかできない。そんな人生をもう四十年も続けていた。子供の頃、親はよく僕を可愛がってくれた。学生時代は成績も良くて、アメリカなんかに留学もしたし、仕事に就いても優秀だと上司に認められていた。でも、毎日少しずつ澱のように溜まっていく悲しみだけは、とどめようがなかった。どうして悲しいのかなんてわからなかったのに、僕は少しずつ少しずつ、自分が死に近づいていくのを感じていた。


一時はギターなんかも手に取ったけど、それはもちろんやり場のない悲しみからだと自分でもうわかっていたから、それが自分を蝕んで誘うのが見えたとき、僕は「ギターももうよそう」と家の押し入れに入れてしまった。


女や友達に困ることもなかったし、友達からは「頭の良い人」、「頼りになる人」として尊ばれて、または女からは「詩的な人」なんて言われたこともあった。どいつもこいつも勝手なはずなのに、僕は「頼むよ」なんて言われたら断れないし、「そばにいて」と言われたら離れる気にはなれなかった。でも、誰も本当の僕を見つめていてくれたことはなかった。なぜ僕がそんな孤独を抱えることになったのかなんて、僕にもわからなかったけど。


二十歳を過ぎてから何度か僕は自殺騒ぎを起こして、そのたびに僕の家をいつも訪れてくれていた友達は、「俺が来なかったら、死んでたぜ」と、ベッドに寝そべる僕に向かって言った。彼は他にも何か言いたげな顔をしていたけど、僕はそれにいつも、「悪いね」とだけ答えた。


僕の絶望は少しずつ育っていって、今では一足一足それが増えていくことで、街を歩くのだって辛かった。“今すぐ死にたい。”そう思いながらいつも歩いた。それに、そんな絶望を内に抱えながら家庭教師として子供に接するのは、もっと辛い。“でもそれもしようがない。僕にはもう勉強以外に腕を揮えるものはないんだから。”「優秀」と認められていた営業職には僕はある日とうとう耐えられなくなって、二十九のときにほとんど蒸発するように会社を辞めた。


それから十四年が過ぎ、元は東京のマンションに住んでいたのが、今は埼玉でアパート暮らしをして、出張家庭教師として暮らして生きている。


“なぜ生きているのだろう。まあそれはまだ生きているからだろう。”なんて当たり前のことを頭でなぞって、僕は自分をこの世に引きとめようと、必死に自分を喜ばせるのだろうものにしがみついて、何かを大切にしているような言葉を吐いては、家に帰って自分を“嘘つき”と罵った。





僕はあるとき仕事が終わってから、地元の駅近くの喫煙所を訪れて、煙草を吸おうとポケットに手を入れた。


「あれっ…」


ライターが見つからなくて僕がうつむきながらあちこち手を突っ込んでいると、不意に僕の前にオレンジ色の百円ライターが差し出された。僕は顔を上げる。そのとき、とても驚いた。ライターを貸そうとしてくれたのだろう人は、若い女の子だった。若いなんてもんじゃない。彼女は可愛らしくてあどけなくて、どう見ても成人には見えなかった。


「火、ないの?」


どこか子供のような覚束ない口調で、目の前に居た女の子がそう言った。この子からライターを借りるのはどこか気が咎めた。でも、煙草が吸えなくちゃ仕方がない。僕は「すみません、お借りします」と言ってそのライターを受け取り、愛煙しているピースに火を点けて吸い込む。


「ありがとうございました」


「うん」


やはりその子は子供のような返事をして、僕の目の前で灰皿の近くにうつむいて煙草を吸っていた。僕は思わずその様子を盗み見る。


その子は細い髪をショートカットにしていて、Tシャツの上にジャケットを着こんで、ジーンズと、それからちょっと洒落た細いスニーカーを履いた、ボーイッシュないでたちだった。その恰好には何か信念でもあるのか、化粧もしていない。それなのに、とびきり可愛らしかった。


大きな目、つまんだらなくなってしまいそうな小さな鼻と口、薄紅の頬は肌の薄さを感じて、でもその表情は、とても寂しげで悲しそうだった。


僕は、最後に読み取った彼女の隠しきれない悲しみの表情が、どうしても気になった。“それに、堂々と喫煙所に来られてしまうのは、彼女が若い悲しみから何かを投げ打とうとしているようで、誰かがそれを止めてやる方がいいだろう。”僕はそう考えていた。日頃いろんな子供たちと接していたからか、僕は彼女に対しても、「責任ある大人」として振舞おうとしていたのかもしれない。


「ねえ、何吸ってるの?」


なんと話しかけたらいいかわからなかったので、とりあえずは共通の話題を見つけて喋りかけてみた。するとその子は僕を訝しげに見てから、「セブンスター」とやはり素直に答えた。僕も途中からは馴れ馴れしい口調で話しかけてはいたけど、彼女はここまで一度も敬語を使っていない。それは人と距離をはかることをまだ覚えていない若い子に特有かもしれないけど、彼女はそれよりももっと何かわけがあるような、危うい空気をまとっていた。“なんだか、ナンパにあっても何も気にすることなく楽しそうについていってしまいそうだ。”それほどに、彼女は寂しそうだった。


「ふうん。ずいぶんきついね。それに、君だいぶ若いじゃない」


「うん。でも、あなたもピース吸ってる。もうずいぶん年取ってるのに」


“おっと、これは一本取られたな。”と僕は思った。確かに、僕の年齢までこんなにきつい煙草を吸っていれば、危ないのは間違いなく僕の方だろう。僕は苦笑して、それから彼女に、「これから暇?」と誘いを掛けた。多分それは、彼女が黙って見ていられないほどに悲しそうだったからだろう。結局は、僕が彼女をナンパしたのだった。








僕の地元は、ろくな街じゃなかった。それこそ歓楽街で、いかがわしい店ばかりだ。でも僕は若い子をそんな街で引っ掛けておきながら、自分が気に入っている純喫茶に連れて行った。そこは、僕たちが居た喫煙所からもさほど離れていない。駅前のロータリーを回って、酒瓶だのゴミ箱だのが道にはみ出したごみごみした裏路地につうっと入ってから少し歩くと、すぐに着いた。裏路地に張り出した店の置き看板にはお決まりの珈琲商社の社名があって、その上に「喫茶・ハーベスト」と書いてあった。


店内は地下なので、僕たちは階段を降りて行く。階段は狭くて急だ。僕は「気をつけて」と声を掛けたけど、やっぱり彼女は、どこかふらふらと頭と体を揺らしながら降りてきた。


店の入り口である磨りガラスのドアはいつも開け放たれていて、そこから小さく店内の様子が見える。遥か昔に色褪せ切ったのだろうビールのポスターや、この街の古い写真が貼ってあったり、低いソファとテーブルの隣には、高めのテーブルと椅子が据え付けてあったり。ヘンテコな取り合わせで統一のない店内はどこか油っぽく、壁紙は黄色くなっていた。


「ここ、よく来るんですか?」


僕はそのとき、“あれ?”と思った。急に、彼女が僕に敬語で話しかけたからだ。“どういうことだろう。さっきまではあんなに口ぶりまで子供っぽかったのに。”そう思って彼女を振り返ると、いつの間にか彼女はしっかりと大人の目つきで僕を見つめていた。僕はそれに気を取られて、入口近くにある会計レジ前でちょっとぽけっと立ち止まってしまっていた。すると、奥で洗い物をしていたマスターが顔を上げて、僕を見つける。長年の知り合いであるマスターは、「あら」と言って、ちょっと意味ありげな目で笑った。







僕たちは古ぼけて革が剥げてきた椅子に座り、二人掛けの席で向かい合って、珈琲とメロンクリームソーダを待っていた。彼女はどこか緊張しているように身を固くして座っている。僕はちょうど少しおなかもすいていたけど、なぜかあまり食事をする気になれなかった。“食事をするよりも、その前にやらなきゃいけないことがあるような気がする。”そう思って彼女の様子を窺う。そうだ、彼女のことだ。


さっき彼女は僕に向かって急に敬語を使って、大人みたいにしずしずと席に就いた。マスターが注文を取りに来たときも礼儀正しく、「メロンクリームソーダをお願いします」と言った。それはもちろんごく当たり前のことかもしれないが、さっきまでの様子とは違いすぎる。あの危うさが演技であったとは僕にはどうしても思えないし、危うくて、そしてしっかりしているなんていう二面性は、普通は誰も持たない。だとすれば彼女は今、僕に対してよそよそしくなったということだ。そこでふと僕は、あることに思い当たった。


この街には、“立ちんぼ”も当たり前に居る。だとするなら、もしかして彼女は僕のことを、「自分を買う客」として見ているのではないか?いや、きっとそうだ。そんな仕事をするにしては彼女はあまりに若すぎるけど、駅前でナンパをしてくる男が何を考えているのかなんて、ほとんどの女性は知っている。それでもついてきたのだから、彼女にとって僕は今、「客」かもしれない。でもさっきの彼女は、そんなことを知らなくてもついてきてしまいそうに見えたけど。どちらにせよ、“僕はそうじゃない”ことだけは伝えないといけなかった。


「メロンクリームソーダなんて、いつから頼まなくなったかな。そういえばさ、君はいくつなの?」


とにかく話を続けて、どこかで僕がこの子に対して、大人として責任ある気持ちで接したいと感じていることを言うつもりだった。


「十四歳です」


意外にも彼女は、正直に自分の年齢を言った。多分本当だろう。それにしても幼いとも見えるけど。それで僕は、「客」としての受け答えをされているようにも思えない気になった。「十四歳の子供だ」と聞いたら、男はみんな怖気づいて逃げ出すのが当たり前だ。“これはどうやら本当に世間知らずなだけかもしれないぞ。”僕はそう考えながら、ちょっとゆったりとテーブルに身を乗り出す。


「それにしてもさ、いくら行き先が喫茶店だったからって、こんなふうに大人についてきちゃダメだよ?」


すると彼女は不思議そうに首を傾けてから、一度笑ってうつむく。ゆるやかに背を曲げ、彼女は僕と同じように腕をテーブルに預けた。


「…実際に声を掛けてきた人に言われても…」


僕はまた一本取られた。どうやら彼女はものすごく正直者らしい。そりゃそうだ。確かにこの点について、僕の言葉に説得力などなかった。でもやはりこの言説は正しいはずなので、僕はもうひと口添えてみる。


「まあそうなんだけど、それは僕が君にただ興味があったからだよ。普通、街で声を掛けてくる男にろくなやつなんていないから、気をつけてね」


「はあ…」


彼女はどこか腑に落ちないような、少し悲しそうな表情で僕の言葉を聴いていた。それが「君に興味があった」という点なのか、「声を掛けられたら気をつけろ」の方なのかは、はっきりしなかった。そのとき、マスターがメロンクリームソーダと珈琲を乗せたトレイを持ち、革靴の底をカツカツと響かせながらやってくる。


「はい、メロンクリームソーダと、それからブレンドです」


僕たちはそれぞれ「ありがとうございます」と言ってマスターにちょっとだけ会釈をして、マスターは「ごゆっくりどうぞ」とだけ言って、カウンターの向こう側へと戻って行った。


彼女はメロンクリームソーダが来たのに、すぐにはそれにかからないで少し水を飲んでから、店の灰皿に手を伸ばす。それで僕は、自分のポケットの中身も思い出した。独り言のように「注文したものも来たし」と言って、彼女はまたセブンスターを口にくわえる。ひどく子供っぽい、そして実際子供である彼女がそうしているのは、違和感があり、見ていることさえ気が咎めた。


「こら、十四歳」


僕がそう言うと、彼女は噴き出して笑う。あ、やっぱりすごく可愛い。僕はそう思ってしまって、その気持ちを収めにかかった。僕はまず、どうやら様々なことに奔放で、世間知らずらしい彼女に対していろいろと教えてやりたいと思ったし、まだ彼女に手を出すなんて考えることもしたくなかったからだ。


「かたいこと言わないで。ライター貸してあげたじゃん」


“あれ、また戻った。”と、僕は驚いた。それから彼女の態度の変化で、「そうか。さっきのは、場を設けて話すことに緊張していただけだったんだ」と知った。喫煙所での二言三言なら相手の気分など気にする必要はないけど、喫茶店で差し向いで話すなら、いろいろ顔色を窺おうと緊張するだろう。それが初対面の、ナンパしてきた男ならなおさらだ。もしかすると彼女は本当に真っ当な感覚として、うすうす怖かったから距離を取ったのかもしれない。それなら、思っていたよりも心配はないかもしれないな。


でも、そうだとすると、この子は初対面の相手なら人並みに緊張はするけど、ちょっと寄り添えばあっという間にそれを解いてしまう子だということだ。そう思うとやっぱり心配だった。それに、一体何が彼女の心に触れたのだろう。むしろ僕は叱ったに近かったのに。


彼女はそのまま煙草に火を点け、それからメロンクリームソーダに乗ったアイスを食べ始めた。その毒々しいような光景に僕はちょっと目を逸らしたけど、すぐに彼女に目を戻した。彼女がアイスを頬張る様子は、またとても幼い笑顔になっていた。


「飲まないの?珈琲」


そう聞かれてはっと気づいた。僕は彼女に見惚れて、手元にある珈琲を忘れていたのだ。なんということだ。四十三歳が十四歳に一時でも夢中になるなんて。僕はあまり慌てていることを悟られないように、「飲むよ」とゆっくり言って、カップを持ち上げた。


それから彼女はあっという間にメロンクリームソーダを平らげて、「おなかすかない?かな?」と、どこか自信なさげにこちらを上目がちに見てきた。それは友達に対してこのあとの予定を相談するみたいで、僕は一体彼女にどう見られているのか、すっかりわからなくなってしまった。


「そうだね、いい時間だ。でも、もう家に帰る時間じゃない?十四歳」


「名前みたいに十四歳十四歳って言わないで。いいじゃん別に。おなかすいた!」


「わかったわかった。まいったな。美味しい店を知ってる。そこに行こう」


「やった!」


彼女は両手をぱちんと叩いて、嬉しそうに笑った。“目の前一面に花びらが舞うのを見たようだ。”僕はそう感じたけど、とても困っていた。初対面の十四歳にあっという間になつかれてしまったからだ。こんな子を放っておいたら、この先何に巻き込まれるかわからない。それに、この子の親は心配しないんだろうか?








店を変えて、やってきたのは馴染みのイタリアンバルだった。どうして飲み屋なんかに未成年の、それもわざわざ非行少女のような子を連れて来たかと言うと、僕自身が地元ではほとんどの店から「出入り禁止」と締め出されていたからだ。


僕はどの店でも、酒が飲める店なら二度三度飲み過ぎで救急車を呼んでもらって、騒々しいからと店長から「出禁」とされた。ファミレスでも、中華料理店でも、フレンチでも。そんなもんだから、まずこの子を連れて来る店がここと、そしてさっきの喫茶店しか残っていなかった。もちろん僕は今日は酒は飲まないが、ことによるとこの子が飲みたがるかもしれない。それは絶対に止めなきゃなと思っていた。


琥珀色のランタンに見立てた灯りが吊るされた店内は、カップル連れや友達仲間の集まりなどで賑わっていて、僕たちはなるべく人目につかない、隅っこの小さなテーブル席を選んで座った。ウエイターはメニューの冊子を置いておすすめのワインなどを教えてくれたけど、僕は聞いていなかった。彼女はその冊子を開いて写真や文字を見比べ、数十秒してから、「いっぱいあって、よくわかんない」と笑った。


また“意外だな”と思った。お酒を飲みたがるような気がしてたのに。もちろんそれを期待していたわけじゃないけど、それとなく彼女に、「煙草は吸うのにお酒は飲まないんだね」と聞いてみる。すると彼女は一瞬だけきつい目で僕を睨んでから、つまらなそうに横を向いた。


「お酒は嫌い」


そう言って横を向いたままうつむいた彼女は、もう何か酒に嫌な思い出があるように見えた。“おいおい嘘だろ。十四歳だぞ?”、僕は一体彼女がどんな人生を歩んでいるのかが本当に心配で、それから彼女にいろいろと聞こうと思った。注文を取りに来た店員には、スパニッシュオムレツとアヒージョ、それからマルゲリータを頼んだ。


「僕はさっき、“君に興味がある”って言ったよね」


「うん」


まだテーブルに水しかないときから、僕らは話を始める。彼女はもう機嫌を直して、僕の話に答えてくれた。


「でもそれはね、あまりいい意味じゃない。もし僕があの喫煙所で君に誘いをかけてどこかに連れ込もうとしても、大して抵抗はしなさそうに見えた。だから心配だったんだ。あれはもう八時過ぎてたしね。それに、あそこは喫煙所だ。中学生が来る場所じゃない。それに、そういうところに来そうな中学生は大体“反抗期まっしぐら”って感じで、自分の身を守ろうと必死に周りを傷つけるけど、君はそういう子にも見えなかった。つまり、あんまりに不可解で、かつ、やっぱり心配だったんだよ」


彼女は僕の話を聴きながら、またあの“腑に落ちない”顔をしていた。まるで、自分が心配されていることに気づいていないような。僕が口を閉じてから彼女はひと口水を飲み、「うーん」と唸ってから、こう言った。


「話はわかるけど…それ話すと、延々と続くよ?」


「えっ?」


僕は思わずそう口に出してしまった。まさかこんな幼い子に、“話し尽きない悲しみ”などがあるのだろうか?僕がそう考えているとき、彼女は自分の言ったことがおかしかったのか、くすくすと笑っていた。


「初対面の人に言うことじゃないかなあ。いろいろソーゼツだし。そんなことより、あなたのことを聞かせてよ。聞いてなかったね、名前は?」


そんな台詞を言いながら、たった十四の女の子がころころと楽しそうに笑った。僕はそのとき、もしかしたら無理にでも彼女のことを聞くべきだったかもしれないけど、それをしたら彼女が余計に高く壁を構えるんだろうことはわかっていた。


「あ、えーと、日下部文雄…君は?」


「藤田百合。ユリでいいよ」


「あ、じゃあ、僕は文雄…で…」





それから僕たちはウエイターが運んできた料理を食べながら、なんでもないことを話した。それこそ本当に天気の話や、近頃流行っている音楽の話、それから僕の仕事のことなどだ。彼女は「学校なんか行かないよ」と言って、自分の学校の話はしてくれなかった。僕は“そこにも何かある”と睨んで、オムレツを頬張る彼女を見つめていた。


あっという間に一時間半ほどが経って、途中映画や本の話もしたけど、そのとき気づいたことがある。彼女はまだ幼いのに、かなり古い本や映画についての知識がもうあった。それにそれらに対して、ほとんど大人が抱くのと同じような印象の、それでも少し未完成な観念を持っていた。僕がそれに対してひと口ふた口意見を添えると、彼女は感心したらしい顔で聴いてくれた。これも意外だった。ただの幼い子だと思っていたからだ。


そうして話し飽きて料理も食べ終わり、僕たちは店を出た。僕が自分の腕時計を見ると、安物の文字盤は夜十時半を指していた。しまった、話し込んでしまった。僕は前を歩く彼女に声を掛けて、家の近くまで送ることを提案しようと思っていた。すると、くるりと彼女は振り向く。


「楽しかったね!こんなに気が合う人って初めてかも!」


その言葉は、子供の食べる飴玉みたいに、素直に僕の胸に刺さった。彼女が振り返った勢いで前を開けたジャケットがはためいて、ショートカットの髪もふわっと浮き上がった。それから彼女はにこにこっと笑って、今では男を口説くときの常套句として使われているような文句を言ってみせた。それなのにときめいたのは、多分僕が、“彼女は気を利かせようなんて考えないような子だ”と、知っていたからだろう。


「メッセやってる?交換しようよ」


僕は彼女のその言葉に大人しく従って、連絡先を交換してしまった。それから僕は彼女を家の近くまで送ることにしたけど、彼女は「いいよ、もう一人で帰れる!」と子ども扱いされているのだと勘違いして怒っていた。それに僕が「ダメだよ。こればっかりは聞きなさい。夜は危ないんだから、大人の女性だって僕は送っていくさ」と返すと、しぶしぶ彼女は一緒に駅前からバスに乗った。






「ここでいいよ」


バス停からコンビニまで歩くと、彼女は僕を振り返って、「また暇な日に連絡する」と言って歩き去って行った。でも僕は、彼女が前を向く前に、見た。彼女の顔が一瞬で深い悲しみに暮れているように曇り、さっき会ったばかりのときに戻ったのを。その暗い表情は、コンビニの出口から漏れてくる灯りだけにわずかに照らされて、夜の闇に半分溶けていた。





帰宅するまで彼女のことを考えていた。


“これから家に帰るというのに、彼女は安らいだ表情にはとても見えなかった。ということは、家にも何かある。自分のような立場ではそれに口は出せないけど、僕は彼女をもう放っておけなくなってしまった。彼女の苦しみはなんだろう?それは誰かによって拭われるべきか、支えられるべきじゃないだろうか?いいや、これは僕の身勝手な恋心が彼女に近づきたがって、理屈をひねり出しているに過ぎない。大抵の大人には、よその子供に対してしてやれることなんか、何もない。僕は彼女を見ていたいだけなんだ。だとするなら、手を引くべきだ。こんなおじさんに近寄られたって彼女にいいことなんかないし、よしや彼女もその気になってくれたとして、僕が彼女に用意してやれるものなんか、ほとんどないじゃないか…。”


僕はまだ、そんなふうに具体的に考えていたわけじゃない。でも、その夜の印象を言葉にしたなら、多分そんな感じだった。自分で気付いていたのは、“未成年と連絡先交換するって、これもうグレーゾーンに完璧入ったよな…。”ということくらいだ。それでも僕は、SNSアプリに映っている彼女の顔写真にある、悲しみに暮れる影をしばらく見つめてから眠った。






つづく

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