3 そして、鉄砲塚さんと私

「……それで、一体どういう事なのか、説明して欲しいんだけど……?」


 腕組みしてソファに座り、目の前に座る二人の少女に、私は不機嫌な声で質問を投げかけた。

 おなじみ清潤女子高等学園は文化部棟、その四階に位置する文芸部の部室。テーブルを挟んだ私の正面に座っているのは、頭の後ろに手を組んで、とぼけたように明後日の方向を見上げている葵と、膝に手を置いて気まずそうに頭を垂れている果恵。

 波乱の一日から一夜明けて、今日は四月二十五日、水曜日。季刊誌の締切までついに四日を切ってしまったのだが、今の私は編集作業どころか、自分の原稿の執筆すら手につかない有様。

 何故なら、私が―――いつもは目の前の葵に、おちょくられたり叱られてばかりのこの香坂史緒が、その彼女に対して叱り返そうとしているからだった。

 そのせいか、不機嫌さを装ってはいるものの、正直に心情を吐露してしまうと、少しばかり黒い気分の高揚を感じる部分があるのも、否定は出来ないところだったりして……。

 ―――ふふふ……気分いいわ……いつも葵には虐げられてばっかだもんね。やっぱり部長たるもの、時には厳しく部員を叱りつけて威厳を示さないと……さあ葵、屈服しなさい!文芸部の女王は私なのよ!!跪いて脚をお舐め!

 そっぽを向いている当の葵の注意を引こうと、私は片手でテーブルを叩き、厳しい声を投げつけた。


「ちょっと葵!!私の話を聞いてるの!?ちゃんとこっちを見なさ――――」

「あー、うるさい!しっかり聞こえてるっての!」

「あ、そ、そうだよね、聞こえてるよね!そ、その、そういう風に見えなかったから……な、なんか……ごめんね?」


 葵に語気も荒く言い返された上、じろりときつく睨まれて、私は小さく縮こまって彼女に謝ってしまう。……駄目だ、権力者に成りきれない……くく……所詮私は小市民なんだわ……。

 ここは一つ、葵の機嫌を取った方がいいのだろうか、と考えを巡らす。詰問するにしたって、やっぱりこういう時は鞭より飴の方がいいのかも……葵食いしん坊だし……いや、飴ってそういう意味じゃないって分かってるんだけどさ……こういう時は果恵を見習って、優しくした方が―――。

 などと思っていると、その果恵が突然、わっ、と声を上げ、両手で顔を覆って泣き出した。え?な、何、急に?


「ううう……葵を許してあげて、史緒ちゃん……この子だって決して悪気があった訳じゃないの……葵は葵なりに史緒ちゃんの事を思って―――」

「な……か、果恵!それじゃあたしだけが悪いみたいだろ!!お前なんかノリノリだった癖に!!」

「……あら、そうだったかしら?」


 顔を上げて、茶目っ気たっぷりに舌を出す果恵。そのどこにも泣いていた痕跡は見えず……う、な、なんか彼女の黒い部分を垣間見たような気がする……。

 不貞腐れた顔で、腕を組んでソファに座り直した葵は、今度は私に向かって文句を言い出した。


「……大体ね、悪いのは史緒なんだよ?あんたがしっかりしてさえいれば、あたしらだってこんな茶番演じなくて済んだんだ」

「だ、だって……そ、それは……」

「それは、じゃないだろ。言い訳するな!」

「うう……」


 いつの間にやら立場が逆転してる……。そりゃ確かに私が悪いって言われればその通りなんだけどね……。

 つまりはこういう事だ。昨日、鉄砲塚さんとの関係を修復した後、私は彼女と話をしているうちに、色々とおかしな事が重なっているのに思い当たった。

 鉄砲塚さんが書いた覚えがないという、果恵が持ってきた退部届けにしてもそうだし、彼女の書いた『片恋』が都合良く葵が校正中だった作品の一番上に置いてあったのもそう。

 いくら鈍いとか言われてる私でも、ここまで重なれば、意図は読めないまでも、この二人が私を騙してた事に察しがつかない訳がない。

 それで、放課後を待ち、二人から詳しい事情を聞き出そう、と思ってたんだけど……。


「……全く……少しは反省しろっての。あたしだって、好きで史緒の尻拭いに回ったわけじゃ―――」

「そうよねぇ。葵はどちらかと言えば反対してたものね?」


 尚もブツブツと不平を並べ立てる葵をからかうかのように、果恵がクスクスと笑いながら、おどけた調子で口を挟んできた。


「最初のうちは『うちの大事な史緒を、鉄砲塚みたいなヤツにくれてやる訳にはイカン!』って、スゴイ剣幕だったもの」

「ちょ……ま、待て、果恵!あたしはそんな事―――」

「それでもやっとわたしの説得に折れたと思ったら、いざとなって未練タラタラで。『やっぱりやめないか?気が進まないし……』って泣きそうな顔しちゃって……もー、葵ったらお父さんなんだから!」

「よ、余計な事言うなよ!!」


 葵がそんな事言ってたの?……と、というか、何よ、その娘の嫁入り前の光景は……。そ、それに、く、くれてやるって……私はその……別に鉄砲塚さんのものになった訳じゃ……むにゃむにゃ。

 そう突っ込むべきか悩む私を他所に、葵は顔を真っ赤にして立ち上がり、なんとか果恵の口を防ごうとした。けれど、果恵は余裕の表情で、葵の伸ばしてきた手をひょいと躱す。



「本当、史緒ちゃんにも見せたかったわぁ……可愛かったわよ、あの時の葵」

「か、かわ……うるさい!!あ、あたしだって白峯先輩に頼まれなきゃ、あんな事―――」

「え?白峯先輩に頼まれたって……どういう事よ?」


 葵が口にした意外な名前に、私は思わず自分の耳を疑う。なんで白峯先輩が?

 しまった、っと言わんばかりに慌てて自分の口を押さえる葵。果恵はそんな葵に呆れたような視線を向けると、目を瞑り、やれやれ、と肩を竦めた。


「……困ったものねぇ。内緒にしてくれって言われてたのに……」

「あ、あたしのせいかよ!果恵が変な事言い出すからだろ!!」

「まあしょうがないかな。葵にそんな腹芸が出来るとも思わないし。遅かれ早かれ、バレるのは計算済みよ。多分、白峯さんも」

「……詳しく話して、葵」


 葵の腹芸……普段の私ならそれで面白おかしく脱線するところだけど―――お腹にマジックで邪神像を書いてサンバを踊る葵とかね―――今はそんな事を考える余裕は無かった。

 ソファに腰を下ろし、私の問い掛けにには答えず、再びそっぽを向いてしまった葵に代わり、果恵がゆっくりと口を開き、今回の事情を説明し出した。


「……白峯さんからわたし達に連絡があったのよ。『もし香坂くんと鉄砲塚くんがまだ仲直りしていないなら、君達が助け舟を出してやってくれないか』って」

「……先輩が……そんな事……」

「『今回の件には、自分にも責任がある』だって。『それを君達に押し付けるのは申し訳ないが、これは私からの最後の、そして心からのお願いだ。頼む、聞き届けてはもらえないだろうか』ってね……相変わらず真面目なんだから」

「…………」


 真面目……そう、白峯先輩はそういう人だ。そして、いつだって周りに対しての配慮を忘れない。そういう部分も含めて、私は彼女に憧れていたのだから―――良く分かる。

 脳裏に、白峯先輩の姿が浮かぶ。いつものように、手をヒラヒラと振る彼女の姿が。

 最後まで……私は先輩にご迷惑をかけてしまった。

 ううん、先輩だけじゃない、葵や果恵にだって、私の不甲斐なさが原因で。葵の言う通りだよね……私さえしっかりしてれば……。

 申し訳ない気持ちで一杯になり、落ち込んでしまった私に、果恵は明るく語りかけてきた。


「……気にする事ないのよ?わたし達に出来たのは、あくまでもちょっとしたお手伝いだけ。史緒ちゃんが沙弥ちゃんに会うきっかけを作る位の、ささやかな、ね。ちゃんと立ち上がって、走り出したのは、史緒ちゃん自身なんだから」

「……でも……」

「でも、は無し。謝罪もいりません。白峯さんだってそんなのは求めてないでしょうしね。沙弥ちゃんと仲直りしただけで満足よ。……ただ一人を除いては、だけど」


 ねー?、と葵に微笑み掛ける果恵。けど、葵はそれを無視して押し黙ったままだ。

 きっと、葵が昨日言っていた事には、彼女の本心も含まれていたのだろう。鉄砲塚さんに怒っていたのだって、葵の本心だったに違いない。

 それでも、葵は私の為に、不承不承とはいえ……。

 果恵は苦笑いを浮かべてソファから立ち上がると、葵の腕を引っ張った。


「ほーら、いつまでも拗ねてないで。何か美味しい物でもご馳走してあげるから、機嫌直して?いつまでもここに居たら史緒ちゃんの執筆の邪魔になるし」

「……あたしがいつも食べ物で釣られると思うなよ……こないだだってまんまとそれで嵌められて、結果、史緒と鉄砲塚の―――」

「はいはい。じゃあ、そうね……『鼈甲屋べっこうや』のクリームあんみつ、っていうのはどう?」

「……白玉ぜんざいと芋大福もだからな。あ、あと栗羊羹と和風パフェも―――」


 葵はそう言って重そうに腰を上げると、果恵と連れ立って、ドアへと向かった。なんて言えばいいか思いつかずに、私は二人をただ見送るだけ。

 それでも、部屋を出て、ドアを締めようとする葵に向かって、やっと一言だけ告げる事は出来た。


「……ありがとう」


 私の言葉に、葵は少しはにかんだように目だけで笑うと、ばーか、といつもの憎まれ口を叩いてドアを閉める。

 それを見届けた後、私もソファから立ち上がり、部長用の机、いつもの定位置へと移動する。果恵に言われた通り、執筆再開しなきゃね……ここに来てもまだ何も浮かんでないんだけど。

 椅子に座って、ノートパソコンを開く。すると、ほんの少し、部屋の空気が動いたように感じられた。私の後ろの窓は閉まってるから、風が吹き込んできた、という事もない。

 顔を上げて、ドアの方を見る。ドアもまた、葵達が出ていった時のまま、閉じられてはいたけど。


「……円妙寺さん、来たのね」

「……今日は気がついていただけたのですね……」


 いつの間にか机の前に立ち、意外そうな表情を浮かべた円妙寺さんに、私は軽く笑いかけた。


「―――何となく分かったの……会いたかったから、かな」

「……私に……ですか……?」

「うん。あなたにも伝えなくちゃ、って思ってたから……ありがとう、って」

「……私は……部長にお礼を言われるような覚えは……ありませんが……?」


 その答えに、私は静かに首を横に振ると、机に両肘を突き、組んだ指に顎を置いて、彼女を見る。

 ―――この子も、素直じゃないな。もしかしたら、葵よりも遥かに。


「……昨日の事。あなたも、関わってたんでしょ?それもかなり深い部分で」

「……と、仰いますと……?」

「とぼけないで……そうじゃないと説明がつかないもの。『片恋』、あれの存在と内容を知ってるのって、円妙寺さんだけだし。果恵と葵は、あれでも先輩だからか、あなたの名前は一切出さなかったけどね」

「………」

「多分、だけど、退部届けに『鉄砲塚沙弥』って書いたのも、円妙寺さんだよね?あれ、鉄砲塚さんが書いたにしては違和感があったけど……」


 あの字は、果恵のものでも葵のものでも無かった。果恵は癖の強い、可愛らしい丸文字を書くし、葵に至っては、ガサツとしか言えない、それはもう象形文字の方が読み易いというレベルの走り書きみたいな乱暴な字を書く。……まあ二人とも性格が反映されてるとしか思えないんだけど。

 その二人が鉄砲塚さんの文字を真似したとしても、あそこまで流麗な文字は書けないだろう。白峯先輩なら、とも思うけど、この短期間で送ってくるとも、わざわざそんな用意をするとも思えない。

 そうなると、消去法―――字が綺麗そうで、鉄砲塚さんの字を知っている人物も、また一人しかいない。

 私の言葉に、円妙寺さんは、ふう、と落胆したかのように軽く息を吐いた。


「……それなりに沙弥の字を模したつもりでしたが……違和感を感じられるとは……何処ぞに不手際でもありましたでしょうか……?」

「うーん……そうねえ……そこのところが自分でも良く分からないんだけど……」


 そうなんだよね……なんでおかしいって思ったんだろう……鉄砲塚さんの字って見たことないから、不思議に思う筈もないんだけど……?うーむむむ……なんだろ……果恵や葵みたいに、性格が字に滲み出てるとしたら……鉄砲塚さんの書きそうな字って……。

 そう考えて、はっ、と思い至る。あ、く、下らないとは思うけど……この理由しか考え付かない……。


「……その、鉄砲塚さんって……自分の名前も『テッポーヅカサヤ』って、片言っぽく、片仮名で書きそうじゃない?」


 おずおずと躊躇いがちに自分の考えを述べると、円妙字さんは細い目を丸くして、一瞬の間を置いた後、口元を長めの袖で押さえ、コロコロと笑い出した。

 ……そ、そりゃ自分でもその理由はどうかと思うけどさ……そこまで笑う事ないじゃない……。

 ひとしきり笑い終えて、円妙字さんはまだ愉快そうに、不満気に唇を尖らせている私を見つめた。


「……すいません……部長の発想が突飛だから笑ったのではないのです……」

「じゃあなんで笑ったっていうの?」

「……思い出したもので……実際……沙弥は……中学生の時の小テストで……それをやって何度か0点を取った事があるのです……」

「え!?な、何やってるのよ、あの子!?」


 我ながら馬鹿げた発想、と思ったのに、実際それをやってたなんて……呆れるというかなんというか……。先生にそんな理由で怒られてる鉄砲塚さんの姿が頭に浮かび、思わず、ぷっ、と吹き出してしまった。

 そんな私を優しい目で見つめながら、円妙寺さんは小さく呟いた。


「……でも……そう思い付いたという事は……部長が沙弥の事を理解し始めてる……という事ですよ……」

「え!?い、いやその……私は別に……あ、そ、それより、まだ聞きたい事があるの!」


 彼女の台詞に、頬が熱くなりつつあるのを感じて、誤魔化すように話の流れを変える。まあ元からそれについてはどうしても聞いておきたかったんだけどね。

 それは―――鉄砲塚さんの処女作である『片恋』に関しての事だ。

 一度咳払いをして姿勢を正すと、円妙寺さんの瞳を見つめる。この話はおそらく、軽く話せるようなことではないから。


「―――鉄砲塚さんが『片恋』を見て言ってた……『何でそれ持ってるんですか?』って……聞いたら鞄に入れたままにしておいて、何時の間にか無くなってたみたい」

「…………」

「あの子は、円妙寺さんが自分の鞄から取った、とは思ってないみたいだけど……」

「……沙弥も……私を信頼してくれていますから……」


 口元を緩め、ちょっぴり嬉しそうにそう言った後、円妙寺さんは顔を引き締めた。


「……けれど……私が沙弥の鞄からあの原稿を抜いたのは……事実です……沙弥に告げるかは……部長にお任せします……」

「ううん、そんなつもりはない。だって、円妙寺さんも私達を仲直りさせたくてやった事だもんね。それは分かるから……けど、私が聞きたいのはそこじゃないの」


 円妙寺さんがかつて、私に語った事を思い出す。鉄砲塚さんとの友情の発端でもあるエピソード……大切にしていた創作ノートを盗まれた事を。

 その辛さは、聞いてる私にすら伝わった程だ。もし同じ事が私の身の上に起こったら―――いや、私だけではない、誰だってきっとそんな事許しはしないだろう。怒り狂っても不思議じゃない。

 けど、この子は。それを経験しておきながら、誰よりもその辛さを分かっていながら。


「……もし、鉄砲塚さんにそれがバレたら……嫌われるって、思わなかったの?」

「…………」

「鉄砲塚さんがそれで傷付くかもしれない……もうあなたを許してはくれないかもしれないって……」


 鉄砲塚さんを傷付けるものは誰であろうと許さない。そう言ったのは他でもない、円妙寺さんだ。それなのに彼女は……理由はどうあれ、それを鉄砲塚さんに対して行っている。

 私には理解できない。自分の親友だと、太陽だとまで言っている人間に対して、そんな裏切り行為を働く事が果たして出来るだろうか。

 しかし、私の投げかけた疑問に、円妙寺さんは顔色一つ変えずに言い放った。


「……嫌われるとか……許してくれないとか……沙弥が傷付くとか……それがどうかしたのですか……?」

「え……!?」


 聞き違いかと自分の耳を疑ってしまう。

 な、なんで!?どうしてそんなにあっさりとそんな風に言えるの!?だって、鉄砲塚さんはあなたにとっては――――!?

 一気に頭に血が上り、椅子から立ち上がる。


「な、何言ってるの!?鉄砲塚さんはあなたの事信頼して……!!あなただって―――!!」

「……落ち着いて下さい……意味を取り違えられては困ります……」

「取り……違え?」


 涼しい顔をして私を制すと、円妙寺さんは椅子に座るように促してきた。


「……香坂部長は……本当にお優しいのですね……沙弥だけではなく……私の事まで心配して下さって……」

「そ、そりゃあ……だって……」

「……そうですね……仮に……沙弥が傷付いたとしましょうか……そうした時に……そんな優しい部長が傍に居て下されば……きっとあの子の傷は癒せるでしょう……今回のように……です」

「私が……って……。じゃああなたは!?鉄砲塚さんに嫌われたりしたら、あなただって傷付いて―――」

「……そんな事は……些事に……過ぎません……」


 些事……って……。

 言葉に詰まった私に関係無く、円妙寺さんは続ける。本当に自分の事などまるで気にしていないかのように、淡々と。


「……沙弥は……私にとって……何者にも代え難い……世界中の何より大事と言っても……過言ではない存在です……」

「…………」

「……そんな沙弥の為なら……私はどんな手段でも用いる覚悟です……自分が泥に塗れようと……例え彼女自身に厭まれようと……構いません……」


 自らの胸に手を当て、目を閉じた円妙寺さんの声には、揺るぎない、確固たる信念が込められているように感じられた。


「―――……沙弥が幸せなら……笑顔なら……私は……それだけでいいのです……」


 彼女の言葉を聞き終えて、私は椅子にドッと落ちるように腰を下ろし、背もたれに力なく寄りかかった。

 友人の為に、というだけで……私にここまでの事が言えるだろうか。行動に移せるだろうか。

 私は意識しないうちに、ぽつりと呟きを漏らしていた。


「……そこまで、あの子の事……」

「……それでも……残念ながら……私では……アメノウズメにはなれませんでしたが……」

「……で、まんまと私が踊らされた、って訳ね……太陽を再び昇らせる為に」


 身体を起こし、腕を組んで、軽くふざけて恨み言を口にする。本当にまあ……我ながら綺麗に踊らせられた物だよね……。

 円妙寺さんは、申し訳ありませんでした……と、深々と私に対して頭を下げた。


「……もしお怒りでしたら……この上は……どのような罰でも……受ける所存です……」

「―――ううん、気にしなくていいの。さっき言った通り、私はあなたには感謝してるんだから」


 空気を和らげようと、笑って掌を横に振ってみせる。円妙寺さんも顔を上げて、少し微笑んだ。

 それから彼女は、何か思い出したかのように、足元に置いてあったらしい学生鞄を持ち上げて、机の上に置く。

 円妙寺さんはそれを開いて、何やら綴じられた紙の束を取り出し、私に向かって差し出してくる。


「……忘れるところでした……今日はこれをお渡ししようと……ここに足を運んだのです……」

「これ……原稿ね。そうか、上がったんだ。お疲れ様」

「申し訳ありませんでした……待ちくたびれてしまったんではありませんか……?」

「あ、大丈夫大丈夫。私なんてね、まだ一行も――――」


 円妙寺さんの言葉に、何かが頭を過ぎる。そうだ、この子、あの時もそう言ってたんだっけ。だからおかしいと―――……。

 そう考えた時、心の中に疑念がムクムクと黒雲のように湧き出してきた。

 急に私の顔が険しくなったからか、円妙寺さんは訝しげに尋ねかけて来る。


「……部長……どうかなさいまさいたか……?」

「うん……覚えてるかな?円妙寺さん。あなた、昨日も『待ちくたびれた』って言ってたのよ」

「……そのような事……言いましたか……?」

「間違い無く、ね。鉄砲塚さんのマンションの前で」


 待ちくたびれた、という言葉は、私があの場所に来るのを知っていなければ出ない台詞だ。尚且つ、彼女はこうも言っていた……『やっといらっしゃいましたか』、と。

 私はてっきり、円妙寺さんも鉄砲塚さんを訪ねて来てて、たまたまやって来た私に問答をしかけて来たものだ、とばかり考えていた。それで鉄砲塚さんの留守を伝える役目を最終的に担ったのだとばかり。

 けど、そう考えてもあの言葉によって矛盾点が幾つも生じてくる。あの計画が上手く運んだとして、私が鉄砲塚さんの家に来るって、そんなに確信出来るものなの?もし、次の日に学校で伝えようって考えたら?

 それに……仮に私が学校を出るのを待ち構えて、鉄砲塚さんの家の方向に向かったのを知って、自転車なりの移動手段を使って先回りしたとしても『待ちくたびれた』なんて言うかな?せいぜいが40分の距離が20分になる位だし、丘の上にあるマンションまで登ったとしたらもう少しかかるだろうに。

 いくら円妙寺さんがそれこそ物の怪みたいに自在に現れるにしたって―――さすがにそれは無理があるよね。

 だとしたら―――。


「円妙寺さん、私に嘘ついてるでしょ?」

「……嘘……?」

「そう……携帯電話、本当は……持ってるよね?」


 それならまだ話は分かる……。出ていった筈の葵なり果恵なりが、私が『片恋』を読み終えて、自宅とは反対方向の鉄砲塚さんの家の方角に向かった事を、どこかで待機していた円妙寺さんに連絡したとすれば。

 そして―――そうするとまた新たな矛盾が生じるのだ。

 円妙寺さんは何ら悪びれる様子もなく、また口に制服の袖に隠れた掌を持っていき、クスクスと忍び笑いを漏らした。


「―――……香坂部長は……『鈍感が服を着て歩いてるようなヤツだからなー、ちょっとミスしたって大丈夫だろ』……と伺ってましたが……中々どうして……」


 う……失礼な……。というか、その台詞で誰がそんな事吹き込んだかすぐ分かるわ……葵め……!ありがとうを返しなさいよ!!

 今度会ったらどんな嫌味を言ってやろうか……と考えるものの、どうしても自分が彼女に謝り倒す光景しか浮かばない……。く、くそー。負け癖がついちゃってる……。

 とと……今はそんな事はどうでもいいのよ!とりあえず、眼の前の事に集中しなきゃ!


「鈍感で悪かったわね!こ、こう見えても閃き型を自負してるんだから!!」

「……そのようですね……侮っておりました……ご容赦下さいませ……」


 円妙寺さんは制服のスカートのポケットに手を入れて、ダークブラウンの、およそ女子高生の物とは思えないシックな携帯を取り出した。ストラップも招き猫と狐のお面って……まあいいけどね……。


「……今時……携帯電話を所持してない女子高生がいるというのを……素直に信じてもらえるとは思ってませんでした……逆に私が驚いた程です……」

「う……そ、それは円妙寺さんの独自の雰囲気が―――ってそれはさておき、それなら、勿論鉄砲塚さんの連絡先も知ってるでしょ!?」

「……無論です……登録番号一番ですよ……」

「番号はどうでもいいのよ!じゃあもう一つ、質問するわ。どうして―――」


 もう一つの、新たな、それでいて最大の矛盾。それはさっきの円妙寺さんとの発言とも矛盾する事だ。


「―――どうして……私と鉄砲塚さんを、すれ違わせたの?」


 仲直りした事ですっかり忘れてたけど、昨日、鉄砲塚さんは、私が部長を辞めるって聞いた、って言ってた。もしそう伝えたのが円妙寺さんではないにしろ、おそらくは同じ一年生からの筈。とすると、裏で糸を引いてたのはやっぱり―――って事になる。

 そして円妙寺さんが携帯を持っていて、鉄砲塚さんに連絡が付けられるなら、何か嘘を付いた理由があったにせよ、あの時に彼女と私を引き会わせる事など造作もなかったのだ。

 この事は、決して果恵や葵の―――ましてや白峯先輩の意思じゃない。彼女達は、あくまでも私の後押しに限って行動してた筈だから。

 私の質問にも、円妙寺さんは顔色一つ変えない……むしろうっすらと笑みを浮かべてさえいる。良く出来た生徒を見守る教師のように。


「……答えて。どうして―――」

「……昨日の会話は……私にとっては有益でした……部長が沙弥の事をどうお考えになってるか……良く分かりましたし……何よりも……『片恋』をお読みになって……沙弥の想いをご理解いただけたという事も……伝わって参りました……」


 もう一度聞き直そうとした私をスルーして、円妙寺さんはまるで歌うかのように朗々と語りだした。


「……万が一……あの時部長が……私の満足いく返答をなさっていなければ……今頃はその全身に赤い蝋の華を咲かせ……快楽と苦痛の狭間で……身悶えていたことでしょう……」


 その言葉に、私の全身が一気に粟立つ―――な、何!?私もう少しで謎めいたキャンドルサービスの餌食になるところだったっていうの!?

 狼狽える私に対して、円妙寺さんは一言、低温蝋燭ですから火傷は心配ないです……と付け足した。し、知らないわよ、そんなマニアックな豆知識!!


「……私も……『片恋』を読んで……部長の人となりは理解したつもりでしたが……私の望んだ場所に立つ資格があるのか……どうしても一度確認したかったのです……」

「望んだ場所?よく分からないけど、それが……答えなの?」

「……まだ分かりませんか……簡単な事です……部長は……失礼ですが……やはりその……鈍くていらっしゃる……」


 本当に失礼なことを平気で口にして、円妙寺さんは、私が想像もした事がない顔をした。

 と言っても、角が生えた、とか、牙をむき出しにした、とか、そういうんじゃなくて……むしろ、そんなのならまだ想像も出来た……かも。

 ―――悪戯っ子みたいにぺろっと舌を出して、片目を閉じて、キュートにウインク。


「……二年間……親友としてずっと沙弥の傍に居て……存在を変えて尚も寄り添い続ける事を願っていた私には……上手くいきかけてる二人に……ささやかな意地悪をする権利くらいは……あると思うのです……」


 円妙寺さんの手にした携帯のストラップがぶつかり合って、チャリッ、と少し寂しげな音を立てた。

 それで―――全てが納得いった。

 円妙寺さんは強い子だ。私などの杓子定規では計り知れないほどに、彼女は―――ううん、彼女の秘めてる想いは……強い。

 鉄砲塚さんに向けられた―――円妙寺さんの恋心は。

 またいつもの飄々とした態度に戻り、彼女は口元を押さえて笑みを浮かべる。


「―――……そういう意味も含めて……私は部長にお礼を言われる覚えは無いと……申したのです……」

「ううん、ありがとう、円妙寺さん……本当に、ありがとうね……」


 その気持ちを慮り、湧き出そうな涙を堪えながら、私は心から彼女に感謝する。そ、その……一応言っておきますけど、鉄砲塚さんと私がどうこうは置いとくとして、よ?

 私は、この得体の知れない癖に、純粋なまでに一途な、円妙寺了子って女の子が、大好きになった。


「……この話はここまでに致しましょう……それより……原稿のチェックを……」

「あ、ああ、そうね。じゃあ読ませていただくね」


 少し照れたような様子の円妙寺さんに促され、私は手にした紙の束へと目を落とす。

 綴じられた原稿の表紙には、平仮名で『にじゆりっ!!』と書いてあった。うわ……何この急激で露骨な路線変更……。ま、まあ前回のよりマシと言えばマシだけど……。

 それにしても『にじゆりっ!!』ねえ。タイトルから察するに、虹が関係してるのかな?それとも二次元……両方掛かってるってのも、勿論あるよね。

 例えば……そうだなあ。虹を絡めた女の子の絵を描くのが大好きな主人公の少女の元に、お気に入りの一枚に書いた女の子そっくりな子が現れるんだけど、実はその子は絵から抜け出てきた存在で、とか?

 コミカルなやり取りを続けながら、最後は絵の中に女の子は戻っていって―――でも、タイトルからだとハッピーエンドがいいな。落ち込む主人公の所へその子が再び現れて、とか……逆に実は不幸な身の上な主人公が女の子を追いかけて絵の世界に、っていうのもおとぎ話みたいで嫌いじゃないなあ。虹をバックに、二人仲良く歩いていく絵の描写でおしまい、みたいな。

 そんな風に考えながら、原稿を捲る私の顔が……湯気が出そうなくらいに真っ赤に紅潮していくのが自分でも分かる……。動悸も乱れて息切れもしてきてるし……あ、汗も尋常じゃないわ……!!

 身体の危険シグナルに従い、私は円妙寺さんの原稿をそっと閉じる。……それから顔を伏せて、震える声で彼女に質問を浴びせた。


「……あ、あのね、円妙寺さん……これ……ど、どこらへんを修正したのか、き、聞かせてもらえないかな?」

「……沙弥の……『もっと読み易い、キャッチーな題名にすればいいっしょ!』……というアドバイスにより……タイトルを全面的に見直しましたが……?」

「あ……そ、そこだけ?……っていうか、それじゃタイトル詐欺じゃないの……虹はどうしたのよ……絵の中の女の子は……!?」

「……虹?……絵?……部長の仰ってる事は分かりかねますが……『にじゆりっ!!』というのは『新【に】ん【じ】ょ教師被虐の縄化粧~悪夢の果てに咲く【ゆ】合二【り】ん~』の略です……促音のつと感嘆符は勢いであった方がいいと……」


 勢いって……何よそれ……っていうか、【ゆ】と【り】は分ける必要無いんじゃないの……?

 と、とにかく、なんとかしなきゃ―――日数もほぼ無い事だし、こうなったら今から二人でここで缶詰めして、不眠不休ででも新しい作品を―――!!そ、それしか手は無い!!


「円妙寺さん、これはボ――――」


 ―――ツにして、と言いかけて顔を上げた私の視界には、もう彼女の姿は微塵も無く……。

 く、くくく……に、逃げられた……!!!大好きって考えを改めるわ……円妙寺さんの……ばかあああああああ!!!

 それにしたってどうしよう……とりあえず、危険なとこは伏字にして載せるとか?……うう……そんな暇無いのに、どんどん作業が増えていく……。

 頭を抱え、机に倒れ込んだ私の耳に、振動音が響く。何?携帯?だ、誰よ、こんな非常時に……。

 鞄からパールピンクの携帯電話を取り出し、デコレーションされた上面の中央にあるデジタルの着信表示を見る。……白……峯……?

 その名前に、思わず悩みも吹き飛び、慌ててメールをチェック。画面には、白峯先輩の、いつもの口調を思わす文字が並んでいる。


『件名・仲直りできたみたいだね

 やあ。宮嶋くんから連絡をもらったよ。どうやらバレてしまったらしいね。もう少し保つかな、とも思ってたんだが……まあそれも、君に伝えるべき事を先延ばしにしよう、という、私のエゴかも知れないな。また鉄砲塚くんに怒られそうだ。

 先に、あの時言いかけた事を伝えておこう。私はね、彼女には―――鉄砲塚くんには感謝してるんだ。あの子は私の逃げ道をハッキリと断ってくれたからね。

 逃げ道、そうだな。言い訳上手とは私の事を上手く表現したものだ。私は、怖かったのかもしれない。君を傷付ける事が、では無く、自分が傷付く事が、ね。だから……君の想いには気付かないフリをして、やり過ごそうとしていた。

 こう見えても私は臆病者なんだよ―――人が、自分の周りから離れて行ってしまうのが、堪らなく怖いんだ。家庭の事情も多分に影響してるのだろうけれど。―――おっと、早速言い訳じみてきてしまったかな。

 だけど、君にはちゃんと伝えようと思う。私は―――』


 そこまで読んで、文章をスクロールさせていた指を止める。次に何が来るか、分かってはいたけど……心の準備が必要だから。

 一度大きく息を吸い込み、覚悟を決めると、私は眼鏡を掛け直して、再び文章を読み進めた。


『私は―――香坂くん、君の気持ちに応える事は出来ない。』


 吸っていた空気を一気に吐き出す。悲しみも一緒に心から追い出してしまうように。


『謝るしかないんだろうな。ここまでそれを伝えるのを引き伸ばしてしまった事も含めて。私から見た君は、真剣で、純情で、真っ直ぐに私へ好意を向けていた。だからこそ、言いにくかったのかも知れないな。君を失えば、いつか帰りたいと思ってる場所で、待っててくれる人が居なくなるような気がして。

 それについて、どう罵られようと構わないよ。我ながら軽蔑すべき考え方だからね。最後に君に会わずにS市を後にする事が出来て、正直安心していた部分もあったんだ。最も、その企みは君の想いの前に敢なく潰えたけれどね。真っ直ぐな人間というのは、やはり、強くて、私には少々眩しすぎる。

 鉄砲塚くんもそうだな。私は彼女に羨望すら感じるよ。どこまでも香坂くんに対しての想いに真っ直ぐで、全力だ。時には手に余る事もあるかもしれないが、それだけは信じてあげて欲しい。仲直りしたのなら、余計な忠告かもしれないけれどね。』


 最後の方の文章に、つい笑ってしまう。―――ええ、分かりましたとも。あの子が私の手に余るくらい全力だって事が。誰よりも。

 けど、私から言わせたら、あなたも真っ直ぐで、全力でしたよ。あの女の子に対しては。そうじゃなきゃ、二人だけでここを離れようなんて考えないはずです。だから、やっぱりどこか、白峯先輩と鉄砲塚さんは似てるんですよ。

 それは、先輩には教えてあげませんけどね。……円妙寺さんじゃないけど、私からのささやかな意地悪です。


『長くなってしまったな。色々話したい事もあるのだけれど、それは取っておこうか。いつの日か、そちらに帰った時に。虫のいい話だが、待っててくれると嬉しい。君だけではなく、鉄砲塚くんと二人で。

 どうか君たち二人が楽しい日々を過ごし続けますように。そう心から祈って。

 白峯千都流』


 メールを読み終え、返信を押す。私からも先輩に、どうしても伝えておかなければいけない言葉があるから。


『件名・メール、読みました。

 鉄砲塚さんと私がどうとかはともかくとして、です。

 まずは、先輩、ありがとうございました。 

 そして―――順序は逆ですけど、私も言いますね。


 白峯千都流さん、私は、あなたの事がずっと好きでした。』


 ボタンを押す指が微かに震えてる。眼鏡の前に広がる世界が歪み出してるのが分かる。

 それでも、私は文章を打ち続けた。


『先輩の仰る通り、真剣で、純情で、真っ直ぐに、です。だから、私も怖かった。断られてこの想いが終わってしまうのが。

 だったらせめて、信頼で繋がってたいって、そう考えてきました。私の理想の関係に置き換えて、それだけでもいいなって。

 きっと、私もずるかったんですよ。けど、こうしてちゃんと失恋できて、良かったです。だから、もう一度。

 ありがとうございました、先輩。

 いつの日にか戻っていらっしゃった時には、沢山話しましょう。先輩と彼女の出会いとか、実は興味あったりするんです。こう見えても百合部の現部長ですからね。その時鉄砲塚さんが隣にいるかは、お生憎と不明ですけど。

 その時は必ず教えて下さいね。待ってます。』


 そこまで書いて、結びの一文を考える。

 意外にも、というか、それはすぐに浮かんだ。円妙寺さんの強さを、見習いたいから。どんなに相手を慕っていても、どれ程自分が傷付いても、願う事はただそれだけっていう、彼女の想いの強さを。

 私もまた、鉄砲塚さんの『片恋』や、先輩のメールにあったみたいに、本当に本当に、白峯先輩に強い想いを抱いていたのだから……きっと、同じように願う事ができる。


『先輩と、お相手に、幸せと笑顔が絶えませんように。


 ―――遠く離れていても、私も祈ってます。

 それでは、また。

 香坂史緒』


 送信して、携帯電話を閉じ、先輩への想いに区切りが付けられたことを―――失恋したって事をようやく実感したからか、頬を少しだけ涙が伝う。

 それは、一年間の想いに終止符を打つにしては、本当に少量の涙だったけれど、何故か私は、心が晴れやかになっていくように感じていた。

 ―――いつまでもお幸せに……白峯先輩。

 声にせずそう呟いて、椅子にもたれて、私は静かに瞼を閉じた。



 と、ノックも無しで、バン!と勢い良く開かれる部室のドア。な、なんなのよ今日は……入れ替わり立ち代り……私には少しの感傷に浸る余裕もないっていうの!?

 眼鏡を外して、ゴシゴシと目を擦る。泣いてたってバレたら、また何か余計な心配かけちゃいそうだし。しかも白峯先輩絡みとなると、色々面倒そうだもんね……この子は。

 再び眼鏡を掛けた私の前に立っていたのは、予想に反せず、彼女だった。

 キラキラと窓からの光を反射して煌めく、背中に伸びた赤味がかった茶色い髪。頭頂部近い、その両端で結ばれた、フルフルと揺れる猫の耳みたいなツーサイドアップ。

 長い睫毛に縁どられた、綺麗な二重瞼の大きな吊り気味の目に、髪と同じように光を浴びて、緑に輝く瞳。

 高い鼻梁を中心にした整った顔立ちに、セクシーなぷっくりした唇。

 女の子ならちょっと嫉妬すら感じるくらい、細い癖にくびれるところはくびれて、出るところはちゃんと出てる、モデル顔負けのスタイル。

 そして―――能天気で、猫を思わす、魅力的な笑顔。


「ブチョー!!ゲンコー進んでますかー!?差し入れ持って来たんですケド!!」

「……あなたって人は……ノックくらいしなさいよね……いつもの事ながらだけど……」


 鉄砲塚沙弥さんは、私の小言など意に介さぬ様子で、手にした大きな風呂敷包をソファの間のテーブルの上に、どん、と置いた。

 風呂敷の結び目を解き、中から幾つかのタッパーを取り出しつつ、彼女はニパニパと嬉しそうに笑いながら私へと顔を向ける。


「もー、堅いコト言いっこナシですって!!ブチョーとあたしの仲じゃないですかー」

「人に聞かれたら誤解されちゃうでしょ!?一体どんな仲だっていうの!?」

「どんな仲って……そりゃ、一緒の布団で身体を重ね合いながら、お互いの秘裂の奥の隅々までも指と舌で確めあって――――」

「な、なんでいきなり話作るのよ!!そ、そんな事は一切してないでしょ!!大体ね、夕べはあなたの方が、私より先に―――」


 まあまあ、と掌を前後に倒して、顔を熱くして椅子から立ち上がった私を軽くいなすと、鉄砲塚さんは持ってきたタッパーをテーブルの上に広げ、蓋を開ける。


「それより、調理実習室借りて色々作ってきたんです。腹が減っては、って言うじゃないですか。お一つドーゾ」

「あ、何これ?美味しそうだけど……」


 テーブルの前に移動して、タッパーの中を覗く。サンドイッチに、ハートや星の形のクッキー。あ、たい焼きまであるんだ。ちょうど小腹が空いてたのよね。果恵も今日はオヤツ作ってきて無かったし。ありがたくいただかせて――――。

 ……しかし、鼻腔が怪しげな匂いを察知して、私はつまもうとした指の動きを止めた。……何これ……何か生臭いような……?


「どーしたんですか?ブチョー。エンリョ無くドーゾ?」

「う、うん……あ、あのさ、鉄砲塚さん。このサンドイッチって……?」

「ああ、これは自信作ですよー。心を込めて作った、鯖味噌サンドです。で、こっちは鯖の塩焼きサンドで、こっちはしめ鯖サンド!」


 う……な、何よその鯖のオンパレード……。変り種サンドは予想してはいたけれど……せめてツナサンドくらいにしておきなさいよね……。

 サンドイッチは危険だ、と判断して、クッキーに目を移す。うーん……見たところは普通のクッキーだけど……い、一応聞いておいた方がいいよね……。


「これはただのクッキー……だよね?」

「モチロンですよ。オカカとツナを混ぜて焼き上げた、ただのクッキーです」

「え!?こっちにツナ入れちゃったの!?それにおかかって……っていうか、ただのクッキーって言うよりも、それ……」


 どっちかというとキャットフードじゃないの?という言葉を、さすがに失礼かと飲み込み、引きつった笑いを浮かべて、迷いつつも、たい焼きを一個つまみあげる。安全度は分からないけど、他のよりはまだ……。

 ここはあえて、中に何が、とは聞かない方が良さそう……ここまで色々用意してきてくれたのに食べないのも悪いし……ええい、ままよ!!

 覚悟を決めて、たい焼きの頭からかぶりつく。その途端に、口の中に広まったのは――――。


「?あ、あれ?普通に餡子だ……」

「フツーにってなんですかー。……どーですか?お味は?」

「―――うん、美味しいよ。鉄砲塚さんってお菓子作りの才能もあるんだ……オールマイティなのは分かってたけど……」

「良かった!それ、たまたま調理実習室に鋳型があったから初めて作ってみたんです。じゃあ、あたしも一つ……」


 たい焼きの背中の部分を、ぱくん、とくわえる鉄砲塚さん。な、なんかそうしてると本当に猫みたいよね……。


「……それにしても、初めてでこれなんだ。凄いね、鉄砲塚さんって」

「そりゃそーですよ。あたしの初めては、全部ブチョーに捧げるんだってトクダイの愛情込めて作りましたからね」

「ちょっと、へ、変な言い方しないでよ!」

「変なって……本当のことですモン。初タイヤキに、初恋に、ファーストキス!」

「むぐ!!?」


 ちょっと待って!?な、何か今聞き捨てられない事を口にしたよね、この子!?

 驚愕にたい焼きを喉に詰まらせ、胸を叩く私に、慌てて鉄砲塚さんがポットに入ったお茶を紙コップに注いで渡してくる。それを飲んで一息つくと、私は恐る恐る彼女に質問した。


「……ふ、ファースト……キス?」

「当たり前じゃないですかー。だって、あたしはブチョーが初恋の相手なんですから!つか、あたし、誰にだってキスするようなフシダラな女じゃないんですケド!」

「い、いや、そうかもしれないけどさ……」


 あの日の事を思い出す……ふ、ファーストキスで……あ、あの舌使いって……鉄砲塚さんってもしかしたらそっち方面の才能も凄いんじゃ……。だ、だとすると……。

 そんな事を考えてしまい、思わず頬を熱くして俯いてしまった私を見て、鉄砲塚さんがニンマリといつもの好色そうな笑みを浮かべた。


「……あー、ブチョー。もしかして……ヤラシーコト想像してません?」

「ややや、やらしい事なんて、そ、想像してません!!」

「ウソばっかりー。……なんだったら、あたしのテクニック、試してみます?ブチョーの初めてと、あたしの初めてを、今ここで一緒に散らすのも―――」


 存在しないピアノを弾くかのように、顔の脇に掲げた両手の指をワキワキと動かしながら、鉄砲塚さんが私に一歩詰踏み出す。ちょ、ちょっと、その卑猥な手つきするの止めなさいよ!!

 肉食獣から逃げる憐れな小動物の如く、私は部長用の机に走って回り込み、その陰にしゃがみ込んで隠れた。な、なんでこういう時に限っては誰も来ないの!?


「や、やめなさいってば!!原稿が進まないでしょ!!」


 苦し紛れにそう言うと、この姿勢では見えないものの、鉄砲塚さんが追ってくる気配がないことに気が付いた。あ、あれ?いつもなら迫って来るパターンなのに……?

 そろ~っと頭を上げて彼女の様子を窺うと、鉄砲塚さんは私の予想に反して、おとなしくソファに腰掛けて、両手を紙コップに添えて、静かにお茶など啜っている。

 何やら拍子抜けした私は、彼女の真意を図るかのように、おどおどと怯えつつも話しかけた。


「あ、あの~……鉄砲塚さん?そ、その……何かしようとしたり……しないの?」

「……しません。つか、あたしブチョーの邪魔しに来たワケじゃないんですケド。ゲンコー書くなら、大人しくしてます」

「あ、そ、そうなんだ……よ……良かったー……」

「それに、あたし―――ブチョーの新作早く読みたいんです。ホントに楽しみにしてますモン」


 目を閉じ、ちょっと頬を赤くして、そう言った鉄砲塚さん。

 何かその姿が可笑しくて、私はついつい微笑んでしまう。―――うん、ここまで期待されてるなら、頑張らないとね。

 椅子に腰掛け、腕捲りしてキーボードに向かう。さて……とは思ったものの、どんな話を書くかすらまだ決まってないんだよね……。どうしようか……。閃け……閃くんだ私……!!

 ふと、目の前の鉄砲塚さんと、白峯先輩の作品の事が頭に浮かぶ。

 『甘美に染まる放課後』は、鉄砲塚さんの私への気持ちを込めた、告白の物語。

 『片翼の少女達』は、白峯先輩の、あの少女に向けた想いと、おそらくは過去の心情を綴った物語。

 なら、私もまた、自らの心を作品に活かしてみるっていうのも、悪くはないかもしれない。私の実体験と気持ちを、少しだけ入れた物語か。

 だったら、そうだなあ……始まりはどこからにしよう。鉄砲塚さんに「いつも手を繋ぐか繋がないかで終わっちゃう」って言われたし……いっその事、私のポリシーを逆手に取ってみても面白いかもしれない。

 ちょっと考えて、私はキーボードに指を走らせ始める。



 初めて二人で過ごす夜という事ではしゃぎ疲れたのか、彼女は私の隣で静かな寝息を立てている。

 普段は五月蝿いくらいに騒がしい女の子なのに、こうして眠っているとまるで別人のようだ。

 私の部屋の、同じベッドの上。向かいあって寝ている私と彼女。掛けられた布団の中には、二人分の体温が篭っている。春も終わりだというものの、夜はまだそれなりに寒く、その熱が私達の身体を互いに温めていた。


「いつもは腹ペコの狼みたいなのに、寝てる時はお姫様みたいだよね」


 そう囁いて、眠り姫の鼻先を指でつつく。それがくすぐったかったのか、ううん……と眉をひそめるのが、変に楽しい。

 こんな表情は、きっと、今までなら見る機会が無かったろう。彼女にはまだまだ私の知らない顔があって、私にだって、彼女の知らない顔が沢山ある筈だ。

 焦らなくてもいい、それをお互いに知っていこう。怒ったり、泣いたり、笑ったりして、ゆっくりと時計を進ませながら。

 二人で歩いていくこれからを想い、私は繋ぎあった手を握り締めた。お互いの顔の前で、指を絡めて正面から繋いだ、私の右手と彼女の左手。

 そこから伝わる体温は、身体ではなく、心を温かくしていく。

 起きてから、どんな冒険が私達を待っているかもまだ知らないままに、私はその心地良い温もりに安心して、瞼をそっと閉じた。


 ここで私と彼女の事をいくつか説明しておかなければならないだろう。

 私の名前は―――――。



 そこまで書いて、一度指を止める。タイトルはどうしようかな。うーん、手を繋いだシーンから始まるんだし、それを絡めてもいいかもね。

 そう考えて、白峯先輩からのメールを思い出す。「楽しい日々を過ごし続けますように」、確かそう結ばれていたっけ。

 楽しい日々、か。この作品がどう展開していくかはまだ書き出したばかりで分からないけど……でも、どうせなら思い切り楽しくて幸せなものにしたいな。

 楽しい―――そうだ、逆に、鉄砲塚さんの書いた『片恋』は、彼女の片想いを書いたものだった。―――ずっと続いてきた、私への哀しい片想いを。

 ……だとしたら、『片恋』という物語は、きっと昨日で終わったんだ。そ、その……り、両想い、ってはっきりとは言い切れないし、もし仮に、万が一、何かの間違いでそうなるとしても……それを素直に認めるにはまだまだ時間は掛かりそうだけどね。

 でも、その哀しい物語を引き継いで、変わっていこうとする、私達の新しい関係を描いた、この作品に相応しい題名というと……。

 額に人差し指を当てて少し悩んで、私はキーボードを叩いた。

 ―――ここから始まるのは、騒々しくて、トラブルが絶えない、それでいて愉快な、私と彼女の織り成す愛すべき日々の物語。

 そのまだ見ぬ未来に、思いを馳せて。

 タイトルは―――。



『つないだ手から始まる明日』



 よし、と軽く頷いて、私は文章の続きを打ち込み始めた。





第三章 『つないだ手から始まる明日   香坂史緒』―完―

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