第2話 夏ごろ
委員会の仕事は学業と並立すれば苦労するときもあった。けれど長い目で見ればそれほどの重労働でもなかった。沖委員長の説明から受ける印象よりも実際はずっと楽に感じられた。というのは、委員会に相談しに来る学生が月に二人いるくらいなもので、その検証とか審議とか書類制作とか、そういう業務の一切を累積して考えても読書や勉強にあてる時間のほうがたしかに多いからである。私は寮の部屋で業務時間(とまで言っていいかは分からない)を計算した。仕事の多い週でも働いたのは十時間程度だったし、何の仕事もなく室で課題を終わらせている週もあった。むしろそういう週のほうが多かったように体感している。だから私はこの委員会の、便宜上そう呼んでいるだけの業務のために部活動もままならなくなると口々に語る人たちを陰で嘲った。内実を毫も知らないまま外面を見渡してあれこれ評価していては内側の様子を見る前に足を止めて、あるいは引き返してしまっては、大局を見て細部すら把握できたと得意になっては深部を理解できない。深くにある真理を掴みえない。
長谷見さんはソフトボールにいっそう精を尽くしていた。休日には三試合も四試合もして一日を過ごしているらしかった。私は土埃の混じる熱風と日射を受けながらじっとピッチャーの挙動、バッターの挙動を見る長谷見さんを想像した。頬を伝う汗も厭わずうちに力をみなぎらせている彼女の幻影を追った。それから以前に行った「投球練習」とは何なのか考えた。外野に立つ彼女が一塁や二塁を守る仲間にレーザー・ビームのような速球を何よりも速く投げてしまうための練習だろうか? 有望な投手としてマウンドに立って相手をねじ伏せるための練習だろうか? 私は長谷見さんの細を穿ちそこねていた。勝った負けたという話は彼女と会ったときよく聞いた。どんなプレーをしてチームを救い、どんなミスのために惜敗に終わったかを聞いた。けれど彼女がどのポジションにいるかやどのくらいの打率(あるいは防御率)であるかはまったく知らなかった。同時に私は長谷見さんに自分の部活動や委員会活動を打ち明けていなかった。委員会の話は俎上にすら載せなかった。それに長谷見さんから私の書いている物語の如何を尋ねることもなかった。私たちは二人なりにそのとき話したいことをどちらからか話し始めて、相手は意見を言うか相槌を打つかした。同情もすれば反論もした。だが無視だけはしなかった。そうしたやり取りは全部木橋の上で行われた。底を撫でるような浅い川の音を耳にしながら、私たちは欄干にもたれた。
言うまでもなく私は部室に通っていた。そこには沖部長も姉の黒川さんもいた。彩さんもときどき同席していた。他の部員は日替わりで別な人がいた。その中には同級生もいた。その部に慣れつつある新人たちはやはり物語のことで苦心していた。皆の前でその旨を告げるときもあれば、偶然私と二人きりになった時機に恋愛の悩みを打ち明けるように話すときもあった。私は当たり障りのない言葉を選んで助言めいた文句とか同情の念を喋った。私自身も小説に関わる所作を理解できているわけではないし、黒川朝美さんほど偉ぶって話せもしなかった。それに私も同じようにその進捗に悩んでいた。書き出し以降順調に進んでいた物語は、中盤(と思われる場面)を過ぎて急に停滞した。人物は行動も会話も止め、淡い像のままそこに固定されてしまった。大気すら死に絶えたように動かず、温度や質感は失われた。私は復活を切実に希求した。一度凍結しきった大気に熱が吹き込まれ、静止した世界がまた活動し始めるよう祈念した。私は本来そこにあった交際や情動のほとんどすべてを書き留め、一般に理解しやすい順序と文法によって秩序立った一つの有機体的な物語に仕上げる義務を負っていた。それはその世界を脳裡に構築したからこそ請け負うべき義務であり、それでいてあくまでも個人の主義の上に成り立つ義務であった。だから拒否してもよい権利とも言えた。しかし日夜精力を尽くして苦心することがあっても物語が停止した現在は権利の行使すら叶わない。私は眠りながらになかば夢見の中で物語の続きを考えた。ついに芽生えた作家的な心情の上で以上の小世界が脈動する瞬間を庶幾う情熱だけは旺然とあった。けれども情ばかり熱く燃えても無力であるからどうにも立ち行かなかった。時折りはまるぬかるみで私の気力だけが無為に空転した。
そうした故障を別にすれば、物語を書くことはおおむね私の習慣だった。不意に浮かんだ冒頭を書き出してから私はほとんど無心で書き進めていた。ここに至るまで私は、自分は小説を書くことについてある種の才能を持っている気がしていた。それは現状どうやっても主観的な判断でしかなかった。私の執筆について私以上に理解している人はいないし、少なくとも篠崎唯一が趣味的に小説を書いている事実は私の交友関係のうちにとどまっている。そしてその事実はその圏を越えて知れ渡るほど多くの人にとって有益ではなかったから、現実的な情報として外部に漏れる心配はいらなかった。〈物語を創作する篠崎唯一〉は実に限定的に動く人物像として校舎と部室と寮を行き来し、黒川姉妹と沖那美子と多くの部員や長谷見優花と交流した。
承前して言えば、私は寮内でも三島さんや広田さんとごく簡単な挨拶をするだけの間柄に落ち着いていた。向こうは彼ら独自の関係を築いていた。私のほうでも同じようなことをしている。すると我々は島のように分離して、何か橋の役割になる人がいないかぎりどうやっても交わらなかった。それはごく自然な摂理である。そしてだれも橋になりえなかった。黒川さんは彼女たちと深い仲にいるわけでもないし、長谷見さんが三島さんたちと懇意にしているようでもなかった。私は今より三島さんや広田さんと親しくなることはできない。もう最後に会話したのがいつかもはっきりしなかった。そのうち昼の日差しは鋭くなり夜風すら熱を含んだ。初夏だ。目新しいものをおおむね体験し尽くして慣れが生じるころでもある。彼女らと離れた一方で、変わらず長谷見さんとはよく話す。黒川さん姉妹ともわりに仲がいい。大体は授業が始まったころから変化せず、ただ周囲の景色ばかり移ろいだ。私たちはそれに合わせて服装を変え面持ちを変えた。概容だけが依然としている。
入道雲が早くも山の端から立ち、生ぬるいなかに生きるものの香りが溶け込んでいるような風を頬に受けているところに黒川さんが私の部屋を訪ねた。同じ寮に住んでいるとはいえ、裏の広い土地で二、三度話すくらいであって部屋に来るのは初めてだった。私はよほど重大な用事があるのだと思った。しばらく玄関で待たせている間に卓袱台を部屋の中央まで持ってきて水出しの麦茶を用意した。合図する前に黒川さんは私に対面するように座った。私にはこの急に訪問してきた彼女が何を話すのかと一人構えていた。「今日はどうしたんですか」と話を促すとすぐに口を開いた。
「小説は進んでる?」
「ぼちぼち進んでます」
「ならよかった」
「黒川さんはどうですか」
「夏合宿の間に書き終わればいいかなあって感じかな」
「夏合宿ですか?」
「うん」
「どんな感じでやるんですか、合宿は」
「言ってなかったっけ」
「はい」
黒川さんは随分と案外な顔をした。私はそれにつられて自分の不始末かと緊張したが聞いてみるとやはり黒川さんは私の知らないことを話した。
「学外でやるよ。一泊二日」
「敷地の外に出ていいんですか」
「うん」
「いいんですか?」
黒川さんは何も気にかかるところではないという顔をした。「学校公認の部活動なら、学外で合宿してもいいよ。文芸部はもちろん学校公認だから」
「去年はどこに行きました?」
「去年は……」黒川さんはしばらく黙っていた。急に顔を暗くした。私のほうでは不得要領な空気を吸って吐いているだけだから何も口を挟めない。そのうち黒川さんはまた話し出した。「去年はコテージを借りたよ」
「何をするんですか?」
「別に遊ぶだけだよ」と黒川さんは付け足した。「もちろん小説も書くけど、テレビを見たり、買い出しに行って料理をしたり、近くをみんなで散歩したり。強制じゃないけど来たほうが楽しいよ」
「何も用事はないと思うので行きたいです」
「うん。ぜひ来てね」
黒川さんはようやく麦茶に口をつけた。それからどこか遠くを見た。
「篠崎さん」
「はい」
「クラスに友だちはいる?」
「いなくはないです」としか言えなかった。というのは私は妹の黒川彩さんとは一緒に昼食を取ることがあったけれど他のクラスメイトとはきわめて事務的で必然的な話をするばかりで深長な話をするほどではなかったからである。最初席が前後であったあの背の高い品川さんとは時折り冗談を交わしたけれど、遠くから見ればそれは本来の人づきあいの上で必要なある種の儀礼じみた交流でしかなかった。長谷見さんなどを鑑みれば品川さんとの会話はずっと広くて浅かった。だが長谷見さんとの会話も、そうした相対的な見方を別にすればそれほど深くはないように思われた。私は目の前の黒川朝美さんの目をじっと凝視しながら、その手前に長谷見さんや彩さんの顔を特別な操作のために浮かんだ実像のように思い浮かべた。品川さんは虚像のようにも映らない幻であった。そしてそれ以外のクラスメイトは幻としても認知できなかった。今度は中間に何も映さずはっきりと黒川さんの目を見た。どういうわけでもなかった。この瞬間に義務感を覚えてただ真面目な顔の黒川さんをみた。彼女も一時私を見た。だが少なくとも私よりは早くに目をそらし、姿勢を崩した。私はその姿すら目で追った。彼女の一挙動も見逃してはならない気がしたのだった。
「ベランダに出よう」黒川さんが言った。部屋に比べるとベランダは持て余すほど広かった。洗濯はもとより園芸やブランチや野宿すら楽しめそうなくらいに広いベランダは二人で並んでも余裕がある。私たちは眼前に並ぶ林を透かすように見た。黒川さんが不意に「友だちはちゃんと持っといたほうがいいよ。どこにもいなくならない友だちを」と言った。
長いこと外で熱風に当たると黒川さんはそれ以上に付け加えもせずに帰った。私のうちにきざな印象を残した。
彼女は麦茶を半分残していた。
夏期休暇前の試験が迫って部活動は禁止された。部室に行って誰彼と会話するだけだった私は部屋で書き進めているから禁止自体は特に意味をなさなかった。長谷見さんはグラウンドでソフトボールができなくなって苛立っていた。彼女の肉体ないし精神はソフトボールを主とする運動によって適切な状態に保たれるらしかった。課題を解く姿を見るうちでは尋常の学業で悩んでいるようでもないから、少なくとも今度の試験のために悩まされているのではなくて週に何度もやっていたソフトボールの試合に臨めないために何かしら解消されないのだった。とはいえその苛立ちを無遠慮に人へぶつける人でもなかった。長谷見さんは自分のなかに溜まる欲求や鬱憤をよく理解して、別なやり方で上手に解消していた。それは彼女が登校時からランニング・シューズを履いていることからうかがえた。海外の菓子みたいな蛍光色だった。
私たちが試験に向けて勉強を始めたのはその二週間前だった。学校から与えられた参考書の問題を解き、たまに教科書を読み返した。英単語や古典単語は即座に意味を答えられるようになるまで何度も確認し合った。それから二人で先生に質問しに行ったこともある。こういうときは長谷見さんのほうがずっと率直に質問していた。私は横で先生と長谷見さんとのやり取りを注意深く聞いていた。
そうして食堂で一人その日に暗記した単語をもう一度思い出していると黒川さんに会った。そのときは誰か友人と二人でいたから声をかけるまではできなかったが、私を発見すると彼女はひらひらと手を振って微笑んだ。黒川さんと横にいた友人は向き合って席に座り食事を取っていた。たしかスペイン風オムレツを食べていたと思う。私も同じものを食べた。傍から見るとその二人は周囲の人よりも、言うまでもなく私よりも知的で、ある種の社会性みたいなものを持っているように見えた。彼女たちは私やほかの多くの人が知らないことを先んじて知り、それについて構造的な論議をしているように見えた。友人のほうも何かの面で秀でているのだろう。私は黒川さんの友人全般についての噂じみた経歴を思い返した。一人はアラビア語とロシア語が堪能で、数学検定の一級を取得している人もいたはずである。他には新体操の世界的な大会で優勝した人や書道の準師範代に上り詰めた人もいるという。それはややもすると黒川さんを盛り立てる派手な装飾に過ぎないし、かといってそう言いきってしまえない絶妙な信憑性もあった。もとより学業の面で極めて優秀な黒川朝美さんにそういう別の面で極めて優秀な人間が友人としていても不思議ではなかった。私は本人にそういうことの真偽を問えずに自分の中で期待を膨らませていた。実際も噂に相違なく、優秀な黒川さんは優秀な人と仲良くしていてほしかった。あるいはその願いを現実に落とし込むために私は彼女から離れてよかった。私はこうも思った。彼女はむしろ自身の妙々たる姿を維持するために私を疎外するべきだと。黒川朝美の後輩の場に立つ篠崎唯一はまずまずの成績と可もなく不可もない身体能力を持ち合わせているだけで、たとえば語学とか、たとえば数学的な能力とか、もしくは芸術的な能力なども、とにかくいかなる方向にも群を抜くことはなかった。平均的な身体に一般的な能力を詰め込んでいた。できないわけでないがうまくやれるわけでもないことが多い。主観的に見れば私はそういう人である。けれど主観ほど頼りない情報もない。認知はしばしば歪められ、情報は間違ったまま伝えられていく。伝達の過程で複雑な流れに翻弄されるともとから誤りばかりだった情報はさらに不要な脚色があしらわれる。だからこの目で見ている外界とそこで活動する人間およびすべての生き物はまったく不明瞭で不確実である。私の目が神経や脳を通して映し出す黒川さんや自分でさえも実際には歪んだ誤謬でしかないのかもしれない、とも私は考えた。そうした考えは際限なく延々と続いた。私は同じような話題を同じような手順で考えて最後に同じような結論を出して終わらせた。「ただし確かなことは一つだけあって、我々はその正しいのかも分からない情報をもとにおおむね不安なしに生きていられる」
大局的に見れば定期試験のたびに抱える不安はほとんどないものと言ってよかった。飛行機の上からでは公園の隅に自生する草がよく見えないように、俯瞰するとそうした不安など取るに足らなかった。そのことは私によく理解できた。けれど今ここの細部上を生きているうちはむしろ刹那的に考えるからそうした不安は過去に抱いたものよりいっそう重く苦しかった。いくら勉強を重ねても試験に対する懸念は居残った。私は目下の憂慮を払ってしまいたかった。試験前の休日の私を圧倒する気がかりを投げ捨てて逃げたかった。それで私は昼前くらいに外へ出た。日の光は濃く道を塗り影を際立たせていた。そこには光が差すか否かの違いしかなくて熱風が吹き抜けるのはどこも同じだった。春には冬の面影を持つ冷たい風に薄められた草いきれや生命の匂いも、熱っぽい風の中では意識を侵されるほどに強く臭い立った。今まで長らく死んだように硬く臥していた土も突然に風の中に粒を混じらせた。すべては春以上に盛り猛った。風や土や草どころか建物や服や車でさえ一切が意思のある生き物だった。その有機的な連関は私の内側まで及んでいて歩くたびに肌ににじむ汗は何かを求めているようだったし身体の熱は名状しがたい欲を満たそうとしてすさぶっている。欲求をため成熟させるほど熱は高まった。それは肉欲に近い原始的な欲求だった。地を踏む足の裏から体内へと大地自身の精が浸潤し自分の中でもとから自然に発生していた何かしらの欲と混淆してますます強い欲になる気がした。もはやそこに以前のような区別はなかった。私は足先から自然世界と一体になった。篠崎唯一は風であり土であり草であった。そうして一個の生命であり欲求であった。履き古したスニーカーとようやく着慣れた制服の内側で篠崎唯一という無二の命が成熟した。臓器より体に固く結合し強くつながる欲求は今まさに熟している私の命と合わさってまったく別な色を見せた。体に湧く力が私の足を動かした。目的地はなかった。帰り道だけ分かっていた。無辺にも思える敷地の道から道へ、通りから通りへと湧く精力のままに歩を進めて幾分か心地よい汗をかいた。その間に教員の寮へも行ったし南北の大通りと東西の大通りの両方を端から端まで歩いてもみた。部活棟の周辺の道を歩いて抜け道や見知らぬ建物を探した。部活動は禁止されても棟の前の通りや近くのコイン・ラウンドリーは通常の通りに利用できる。私は自動販売機で冷えた緑茶を買ってそのコイン・ラウンドリーに入った。運動部の学生が主に使っているから今時分は静かで動いている洗濯機や乾燥機はまったくなかった。私は脇にある休憩所の椅子に腰かけて緑茶を少し飲んだ。夏の口でもう空調設備が稼働していて涼しかった。私は今一度、体内の熱を冷まし荒立つ欲求を抑えるよう意識しながら緑茶を気の済むまで飲み続けた。ほとんど残らなかった。それから不意に春以来三冊の小説を読んだと思った。石川上一郎の『知らない町』の後に常田藤夫の『池』を読み、また石川上一郎の『夢見』を読んだ。私の記憶はそのときに読んでいた小説と抱きかかえで脳に収納され、ある小説を見るとそれを読んでいたころの出来事の記憶もよみがえり、また出来事を思い出すとそのころ読んでいた小説も一緒に思い出された。そしてその小説の多くが石川上一郎のものだった。彼は生涯で多くの小説を短編であれ長編であれ発表し、そこには名作が少なからずあった。実際に有名な文芸雑誌の文学賞を何度か受賞していた。ハード・カバーの本だけでなく文庫本も刊行され、死後数年で紙媒体の全集が出版されここ最近になって電子版の全集も出た。紙の全集はここの図書館で発見できた。黒川さんや沖部長は知らなかったけれど石川はまったくの無名というわけではないのだ。緑茶を飲み干すとすぐにそこを出た。私は一つ消化しておきたい用事に思い当たった。
部活動用のグラウンドの横の通りを往き詰めて南北の大通りの北端近くに出る。そこは敷地内を循環するバスの停留所があり北側の出入り口もあった。学外から来る車輛はここか南側の出入り口から進入できた。ガソリンの臭いがした。地を這うように流れる熱流がその臭いを抱え込んでいた。車の出入りはあっても人は少なかった。正午に差しかかるころでもそこらの飲食店は閑散としていた。エンジン音はあたりにあるすべてを持ち去るように流れて行っても店の厨房から漏れ出る音はなかった。場に染みついたように香る調味料とか料理の臭いだけは平生のまま私の鼻腔を刺激してもそうした音が聞こえないためにどこか似非だった。店員はいたし、わずかながら客はいた。それにたしかに店は開かれていた。そこでただ幻のように匂いだけが私に届いた。換気扇の音も頭上を通り過ぎた。そしてそこに立つ香りや音は通りを抜ける風と走行音にかき消された。私はその店のうちの一つに入って魚介パスタを食べた。サバのアクア・パッツァをそのままパスタ麺に和えたようなものだった。オリーブ・オイルの味わいがパスタに絡んで悪くなかった。私はその後でコーヒーを飲みながら道を見た。店にいれば外は光線が燦々と差すばかりで景色は淡くどの音も遠かった。コーヒーの苦みと香りだけが感じられた。私はまたすでにコーヒーに紛れてしまったパスタの味わいを思い起こそうとした。けれど私の成すべき用事は別にあった。今履いているスニーカーは中学生のころに買ったもので泥汚れがつき、靴裏のゴムは擦り減っていた。新しい靴を買って気分を変えたかった。私はどんな靴にしようかと脳裡に思い描いた。中学生のころは真っ白なスニーカーを履き続けた。だから次は派手な色にしたかった。それこそ長谷見さんが履いていた蛍光色のランニング・シューズが理想的だった。
それで図書館の横にある靴屋に向かった。
そう大きな靴屋ではないから品揃えも豊富とは言えなかった。とはいえ新作が多く入荷されているらしかった。店内でそう宣伝されているからそうなのだろう。私には靴屋の品揃えは遠めに見れば常に同じであるように感じられた。だが同じでもよかった。もしそうであっても私はいつも違う靴を買うだろうし、気に入った靴を買いきったらまた同じ種類のものを買いなおすだろう。思えばそんなことはなかった。前に目に留まった靴のデザインはもう忘れてしまったし、それで構わなかった。少なくとも私はそれでよかった。陳列される靴たちが間違え探しの絵のように微細な変化を漸々と繰り返していっても察知しえないし、また気づいたとしてもそのせいで気を悪くするわけがなかった。
ぼんやりと見て回っているうちにすぐに一つのものに目が行って唐突にそれを求める気持ちが胸にうねった。あるいは落雷に打たれる衝撃があった。たしかにその靴は派手な色だった。水色の地にショッキング・ピンクのラインが入ったテニス・シューズで、履き心地もよかった。これだと思った。これこそ私がコーヒーに口をつけながら夢想したイデアの面影を暗に抱く靴なのだ。テニスをするかどうかは実際的な問題ではないと金を支払いながら一人陰で弁解した。別に店員はどういう表情も作っていなかった。後に長谷見さんの前で履いてみせたときも彼女はただ褒めてくれたし、寮内ですれ違った三島さんも何ともなく色合いが素敵だと言ってくれた。私はまた一人陰で恥じた。
石川の『夢見』を数日前に読み終え、靴を買い試験を受け、また石川の『広い土地』を読み始めたころはちょうど委員会の部屋で相談の応対をする係を回されていた。空調設備があるしそう人は来ないから随分いい閑職だった。だから私は返却されていく答案を見返して復習していた。成績はまずまずだった。得意だと感じている科目は平均点より高い点数を取れたが苦手科目はそううまくはいかなかった。今までに返却された科目の点数だけで計算すると私自身の平均点はおおむねよかった。けれど極めて優れていることもなかった。この先も幾度となく試験はあるし、どういうわけか外部の模擬試験も受ける必要があった。現に夏期休業の間に一回、明けてからももう一度試験があって悠然としてはいられなかった。それに夏期休業の直前には生徒総会がある。尋常なら活動内容の確認を手早く済ませ、わずかばかりの生徒からの質問や提案に答えさえすれば何もなくやり過ごせるはずだった。だがこの委員会については急に名称変更または委員会自体の解散、合併の案を沖委員長や各部門を指揮する三人が持ち上げ、いよいよ単なる案ではなく実際的な改革に繰り上げようとしていた。別に立たない論理ではなかった。たしかに勧善懲悪委員会という名は意図的で無駄な装飾であるし近年の実績は空虚だった。たとえ今ここで崩してしまっても大きな損失はないだろう。私の知るかぎり今年度に来た相談は「友人との喧嘩」が二件「物品の盗難」が三件「学習もしくは部活動についての相談」が三件で、数日前に生物研究部の所有する百葉箱が盗まれたという相談も委員会に来ていたが、以前の三件と同様に学校もしくは生徒会に問い合わせて掲示板に張り出してもらうくらいの解決法しか上がらず、実際に部にはそう伝える方針が固められた。私が入学当初に期待していたような出来事はまったく起こらなかった。その活動に自治とか警備とかの評価を付する予定は大いに瓦解した。それなら生徒会に入ったほうがよかったかもしれない。もし委員会が解散してしまえば今年度の私の職は何もなかった。もちろんそれは彩さんも同じだった。夏期休業の最中から私(たち)は文芸部の活動にのめり込むかもしれなかった。私の書いている物語は冗長にも感じられるような個人の主義を書き終えて終結まで書き通すだけになった。そうあってもいまだに物語がどこへ向かいどうなるのかは私に知れなかった。私はただ靄を掻きながらじりじりと進んだ。彩さんは先に書き終えたようだった。
試験の成績表とともに近況を簡単に書いた手紙を包んで実家に送った。結局の成績はまずまずであったし、近況も部活や委員会のことを書けばそれ以外はそう言うべきもなかった。だから手紙は便箋の半分くらいで収まるどことなく薄情な箇条書きの文章にしかならなかった。私は何度も書き直した。けれどいつも同じように冷淡な箇条書きになった。その返事は順当な日時に来た。じきに電話で話したいと言うようなことが季節の挨拶の後に書いてあった。いつ連絡が来るかは分からなかった。生徒総会までの準備を終え、勧善懲悪委員会の解散と生徒会執行部の新設が決定して私は一人脱力した。どういうわけか不思議な疲労感でただ盛夏の色を含んだ風に当たった。部屋のベランダから見える林は以前よりもずっと濃い緑色になって目に眩しかった。土の臭い、草花の臭いがますます強くなって常に私の意識の片隅に残った。それは日中どころか夜もそうだった。地面から抜けた地温とともに昇り立ち消えになるはずがいつまでも中空で熱っぽく漂っていた。そのために血の通っているような欲求が体内に以前のまま燻っていた。それは暑さに気を取られる私のなかでどこに向けられたかもはっきりしない肉欲に変化した。物語に恋愛や性交は不要で「ただ付き合いとかやり取りを書ききっている」よう目指す私は、推して知るべきであるが、生活上に性欲が立つことも嫌った。体の内側のどこからともなく水のように湧き火のように燃える特異な欲求をいかに解消するかは自分によく心得ていた。だがむしろ日常の欲に対する態度を物語内部に持ち込んでいる私は欲を孕む同じ一個の精神と身体でそれを拒んだ。自然に湧いた性欲を自然に拒否した。そうして一度盛んになった内なる一般をまた内なる特殊のために見過ごそうとした。風に当たり川を聞きときには水を被って永遠に損なわせようと努めた。私でもなぜこうまで忌避しているか理解が及ばなかった。自分の一連の行動を客観的に見られてもどうしてなのかは謎としてあった。私はそのときむしろ冷静にみずからの隆々たる欲を見つめた。それから静まるさまも見つめた。同じ格闘を繰り返しながらいまだに暫時は払えてもすぐに足を取られてしまうのだった。
委員会の打ち崩しは正式に決まった。終わるときは随分あっさりと終わった。それなりの伝統はあってもそこに感慨はなかった。だれも涙せず、だれも反せざるまま事務的に処理されて亡霊のごとくに消えてしまった。私は暇を貰うこととなった。その夜に電話が来た。どういう示し合わせか部室にも赴かずにまっすぐ寮に帰ると管理人が部屋に呼びに来た。電話口に出ると母だった。
「今いいかい」
「うん」
「久しぶりやなあ」と母の声が震えていた。
「もう夏だね」
「そっちは暑いかい」
「そんな変わらんよ」
「ほうか」
「そっちはみんな元気?」
「おうよ」と母が言った。それから「まだ三か月くらいよ」と苦笑した。
「でもちょうどよかった。今帰ってきたところ」
「じゃあよかったわ。部活入ったんやろ? あと委員会も」
「うん」
「ブンゲイ部は何するところな?」
「小説書くところよ」
「書くんな?」
「少しね」
「ほうか」母が感心そうに言った。「読みたいわ」
「文化祭のときでも渡せるんやないかな」
「おお、楽しみにするわ」どちらからともなく二人で笑った。
「委員会は?」と母が言った。
「何だろう、何か、相談受けたりするところ」
「受けたんかい」
「少しだけ」
「ようやるわ」
「でもあんまり仕事がないから、委員会自体もうなくなっちゃうの」
「そうしたらどうなるんゆいちゃんは」母の声が暗くなった。
「今年というか今年度は何もしなくていいかな。来年は何かクラスのやつとかせんといかんけど」
「ほうか。頑張ってな」
「うん」
奥で祖母や姉の声が聞こえた。
「おばあちゃんとおねえちゃん、おるん?」
「いまあす」とその二人の声が遠くに聞こえた。皆で笑った。
「元気しちょるか?」と姉の声が聞こえ、「体悪くしちょらんか?」と祖母の声が聞こえた。
「うん、うん、元気」と言うと母がまた「お父さんが達者でなち言うとったわ」と言い向こうの三人が一斉に笑った。父はやはり仕事で帰っていなかった。
手紙に報告したことを詳しく言っただけのような話をした。けれど文字よりよほど情がこもっていた。それに変にざわめいていた胸も凪いだ。皆笑っていた、楽しげだったと一人思い返した。
黒川さんの掌編を二度、三度と読み返した。そこではあらゆるものが理想的に描写されていながら生命のあるもののように臭った。文に彼女の個人主義が畳み込まれているようでありまた根源的な欲求でさえ内側に入っているようだった。黒川朝美さんの分身が掌編中に潜んでいて読むたびに私に語りかけてきたのだ。そこに登場する女の思考の流れはかえって黒川さんのそれを本流としてその一部を受け継いだ支流であった。そして分断した二つの流れがまた合流するときに黒川さんのうちに新たな流れが渦を巻いているらしかった。
同じ寮に住んでいても部室以外の場所で黒川さんに会うことはそうなかった。彩さんは教室で会うからむしろ彩さんと一緒にいることのほうが多かった。とはいえ実際的な話を交わすのは黒川朝美さんであった。世間話はどの人とでもするが相談は長谷見さんや姉の黒川さんに持ち出して意見を拝聴する。それから相談とも名付けられない諸議論は姉の黒川さんとの間でばかり行われた。どちらが先ともなくあの裏地に行って一人思うことを要約し、あるいは言い換えて対比や並列に落とし込みながらどうにか自分のうちに理解しようと試みた。相手が来れば打ち明けてもみた。そうして別な視点をもらおうとした。そのときには黒川さんと話しているとよくまとまったし、ある種の俯瞰的な認知ができた。他者の持つ主観としての客観を輸入してみずからの主観に添付した。
言うまでもなく黒川さんに純粋な相談を持ちかけもした。あるときには二年生からの文理の選択を尋ねた。黒川さんはただ「自分がふだんから気になっている分野が比較的文系なのか理系なのかで考えたらいい」というようなことを言った。そういうものかと聞き入れながら彼女自身がどう考えて現在に至ったか聞いてから私はしまったと思った。黒川さんは以前にどこかでそうなったようにまた険しい顔を見せた。「私は別に……」とばかり言って黙った。私は無理に話の方向を転換させた。けれど黒川さんは黙然と場に止まっていた。彼女どころか一帯が凍りついたように音もなく熱もなかった。一人私だけが彼女に話しかけ、あながちに語った。胸がきうきう締まった。黒川朝美さんから周囲へ拡がった冷凍がついに私に届いて私は自分の体内から熱を奪われてしまった。そうして黙った。また場に静止した。光景ばかり目が受容していたがそこには感覚神経の興奮以上の反応がなかった。二人は疎な闇に溶けていた。
先に口を開いたのは黒川さんだった。
「小説は進んでる?」
その言葉自体が熱源であるようにそこから場の熱も音も風も息づいた。急に弛緩した。そうあってもあたりにさっきまでの緊張の名残があった。
「はい。夏休みの間には終わると思います」
「合宿の後に一回部誌を作るけど、それには間に合う?」
「厳しいかもしれません」
「そっか」黒川さんの返事はあっさりしていた。「まあ待てるよ。どうせ一応の活動実績として作るやつで外部に見せるものでもないから」
帰り際、寮に戻る細道で黒川さんは私の真後ろでこうも言った。
「合宿の前後くらいでできあがるから、私の書いたやつはその後にでも篠崎さんに最初に読んでもらおうかな」
土の臭いが濃く立ち昇っていた。ただ「ぜひ」とだけ返した。
黒川さんが自身の文理選択に際して何に行き当たり何を考えたかは少しだってうかがい知れなかった。彼女が闇の中でそれとは関係なしに顔を曇らせ押し黙ってしまったことだけが私の了解している事実だった。そうしてそれによってしか黒川さんの事情を判断できなかった。私はよくないことがあったのだというような曖昧な回答だけ置いてまた物語に向かった。今の予想では書き進めている終結の場面とそれ以前までとは文字数で言えばほぼ同じ量になるはずだった。それも霞を挟んだ向こう側の見え方と歩んだ道の見え方が同じようであったからというばかりである。どうやっても断定できなかった。黒川朝美さんはあの掌編以外にどんな物語を生み出してきたのだろう? あるいは彩さんはどうだろう、彩さんも姉と同じような作品を作るのだろうか? 本人の自己申告では「わりと長いのも書く」とあったが彼女の姉がやるように自分の精神世界を物語世界に投影するのだろうか? 中学生のころから育まれてきた彩さんの物語への視座は、というよりは他人の抱えている物語への視座とか生活上の基礎的な態度は傍目には把握しえない。しばしば矛盾や疑問を残したままさらに成長する自己の主義とその外延にある諸要素は個人下においてのみ自然な摂理に従って自覚や意思の有無によらず体外に表出している。そしてそのために我々は他者を正確には認識できない。
終業式を終えた帰途を長谷見さんとともに歩いた。寮への道はやはり木橋のある通りを使った。盛夏の入り口で体に充満する熱が風では取り除けないほどに暑く私たちは木橋に着くとそばにある石段を降りて川縁に座った。橋の下は日も落ちずコンクリートが冷えていて気持ちよかった。ぬめる苔が橋の真下にある石垣様の壁にむしていた。私たちは背をもたれることもできずにただ尻をコンクリートにつけていた。
「もう夏休みだよ」長谷見さんの声は浅い川の流れに混じるままに流れそうだった。
「うん」
「ゆいちゃんは何かする?」
「文芸部の合宿に行くかな」
「何か凄そう」彼女は随分と感嘆していた。
「そんな、全然。遊ぶだけだって」
「でもいいね。合宿してみたいなあ」
「ソフトボール部は何かしないの?」と尋ねてみた。
「さあ。多分ずっと試合しっぱなしじゃないかな」
川の音ばかり耳についた。遠くから時折りエンジンの音とか人の声とかが幻のように聞こえた。けれど眼前にある川だけが本物なのだ。私たちは不意に黙ってめいめい何かを考え耽っていた。その中で私は長谷見さんの横顔を盗み見た。木橋の下の影で暗い顔に川の水紋が映る。どことも定めずにただ前方の遠くを見る長谷見さんの真面目な顔は胸が高鳴るほどに美しかった。
私もまた考えた。長谷見さんは物語を書いてみたりはしないのだろうか? いやあるいは、多くの人はたとえ読んでも書きはしないだろう。一般に読書は人の文化的な所作になりうる。親は子に絵本を読み聞かせるし、その子が育てばまた似たようなことをする。かなり古くから読書は人間の文化上の基本的な動作であり、媒体に関わらず動作の基礎は変わらない。そしてあるときには思索し物語を共有しようとした。では創作するのはどうだろうか。おそらく多くの人はみずからペンを取ることなしに、もしくはワード・プロセッサーの電源を入れることなしに生活する。かつは自分がそうした一般的な行いに内在するはずのそれの主体になることを想起しない。自分を作者に対する読者であり能動者に対する(その行動自体は能動的に行う)受動者であると見なす。それでこう考えた。人はもっと創作していい。創作こそ基本的な日常の動作であってしかるべきである。けれども私はそういう結論をうちにつけておきながらたとえば横に並ぶ長谷見さんにはとてもそれを言えなかった。ときに何かを考えこむ彼女の横顔に声をかけて小説を書かないかというような勧誘をするほど大胆でもなかった。私は立ってぐずぐずした。長谷見さんは私を見上げた。
「帰る?」
「うん」
「うん。帰ろうか」と彼女が言った。
夕ご飯は申し合わせて食堂で一緒に食べた。長谷見さんは豚の生姜焼きを食べ、私はフルーツ・カレーを食べた。カレーの辛味の中に果物の酸味や甘味が混じって柔らかい味わいになった。私たちは黙々と食べ進めた。
「ゆいちゃんは兼部とか考えてないの?」と食べ終わった長谷見さんが言う。
「兼部?」
「自分で新しく作ったりとか」
「あんまりそんなことは考えてないかな。どうして?」
「委員会なくなっちゃったし、その分時間が空くかなあと思って」
「散歩とかしてたら意外と時間空かないかな」
「散歩してるの?」
「うん」
「ついていこうかな」長谷見さんはどういうわけでもなく私の背後を見ていた。それから水を飲んだ。
「うん。今度行こう」
別れ際の挨拶はやはり淡白だった。
合宿の前日、荷造りをしていると長谷見さんが私を訪ねた。どういう用事もなかった。ただ以前に私から合宿の日時を伝えられて、その前に一度顔を見ておきたかったと彼女は言った。一泊二日ですぐに帰って来るのにと私は笑った。夏期休業の間の予定や課題の話をしているうちに荷造りはすぐ終わった。長谷見さんはまだ話し足りないようでその場に座ったまま始終私に声をかけ話題を持ち出したし後には夕ご飯を食べる時間になるまで散歩にも出た。歩いているうちはぽつぽつとしか話さず、ほとんど二人はそれぞれが見たい景色を勝手に見ていた。それから不意に話し出し、また景色を見た。木橋に行くと立ち止まって漫然と川を見て過ごした。私は何を考えているか推りえない長谷見さんの横顔に「試合はなかったのか」と聞いた。彼女はじっと流れの上に焦点を置いたまま「ない」と言った。それから「部員のいろいろな都合によって大人数では集まれずこれから五日くらいは試合ができない」という旨を機械的に答えた。私はそういうものかと思って黙っていた。梅雨の時期も長谷見さんは試合に臨めずに何だか虚を見つめていた。というのはグラウンドの幻影を追っているのかもしれないし彼女の中に思想を組み立てているのかもしれなかった。そんなことは私には分かりえなかった。遠目に友人と話している彼女の顔を見ているときはむしろ楽しげに見えた。室内で体育の合同授業を受けているときも長谷見さんは競技の種類によらず活躍していたし体を思うままに動かしていた。そうして人と抱き合って喜んでもいた。けれど一人で黙っているときには、長雨の降る暗い外やあるいはその向こうにある何者かの影をじっと見据えていた。川の流れを見るときや私の部屋のベランダから風に揺れる林を見るときでも同じ目をした。彼女は虚ろの中で溶ける何かを捉えている。そう思った。長谷見さんはソフトボールに興じた後も、というよりはむしろその後のほうがいっそう長くそんな表情でいた。まだ土埃が残る体であってもシャワーを浴びた後の濡れ髪であってもふとのぞくと黙っている彼女の顔は何かから目を離せなくなっているようだった。長谷見さんは生活を通して何かを得ようとしていた。そうして結局は何かを失っていた。それは長雨の降る外や砂が混じり飛ぶ風や熱いシャワーの湯が弛緩した柔らかい体を伝う感覚の向こうにたしかにうごめいている。私はそんな長谷見さんの顔と体を想像した。それからまた彼女の汗に混じった砂粒や柔肌の上を流れそれらを洗い落とす湯を想像した。彼女が考え耽るとき、私は彼女のことを思い耽った。彼女が抽象的な思考を弄するとき、私は具体的な彼女の体を弄する想像をした。そこには何も残らなかった。ただ霧散した。
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