第70話




「かきわ」

 驚いて横を向くが誰もいない。だが、声だけが洞窟内に響き続ける。

「かきわ、行っちゃダメだよ」

 辺りを見回した広隆は、ふと、光の中に小さな黒蛇がいるのに気付いた。声はその蛇から聞こえていた。間違いなく、ときわの声が。

「かきわ、早くこっちへおいでよ。ぼくはこっちにいるんだよ」

 蛇はときわの声でしゃべりながら赤い舌をちろちろ覗かせた。広隆は蛇を睨み付けた。

「俺が蛇の言うことなんて聞くと思うか」

 声はときわでも姿が蛇では信じられるはずがない。無視して先へ行こうとする広隆を、蛇は慌てて呼び止めた。

「かきわはだまされているんだよ。そっちは危険なんだ。こっちへおいで。ぼくは安全なところにいて蛇を使って君と話しているんだ」

 広隆は再び足を止めた。ときわの声は本当にかきわを案じているようでとても演技とは思えない。ときわの声はさらに続ける。

「こっちへくるんだ。秘色もこっちにいるよ。二人とも無事だ」

 広隆の心が動いた。明るいほうへ行けばときわと秘色が待っているんだろうか。

「ぼくを信じて、かきわ」

 これは本当にときわの声だ。

 広隆は蛇を見た。どうしよう。どちらを信じればいいのだろう。

 広隆の迷いを見透かしたようにときわの声が言った。

「ぼく達は別の世界から来た仲間じゃないか。あんな不気味な子供とぼくのどちらを信じるかなんて、悩むことないだろう。こっちへおいで。元の世界に帰ろう。帰る方法がわかったんだよ」

 広隆は顔を上げて明るい道の奥を見た。

「だから早く来るんだ」

 ときわの声はしきりに明るいほうへ広隆を誘う。広隆は思わず引き寄せられてしまいそうになる足を踏み止めて尋ねた。

「ときわ。じゃあ、元の世界に帰る方法を教えてくれ」

 ときわの声は答えた。

「早くこっちへおいで。こっちに来たら教えるよ」

 広隆はなおも尋ねた。

「今、聞きたいんだ。どうやって元の世界に帰るんだ。お前はどうやってその方法を知ったんだ?」

 広隆は力強く尋ねた。

「お前は誰だ」

「ぼくはときわだよ」

「違う。お前の名前を聞いてるんだ」

 ときわの声は乾いた笑い声をたてた。

「ぼくの本当の名前なんて、聞いてどうするんだい?知らないくせに。そんなことどうでもいいじゃないか。ぼくはときわで君はかきわだ。元の名前なんて今は必要ないだろう」

 広隆は明るい道の奥に向かって叫んだ。

「確かに、俺は元の世界でのお前の本当の名前を知らない。だけど、元の世界に帰る方法をお前が知っているなら、自分の名前をどうでもいいことだなんて絶対に言わない」

 ときわの声は沈黙した。

「俺はかきわじゃない。広隆だ。お前の名前は何だ?」

 途端に、洞窟内に甲高い笑い声が響いた。

 大きくこだますその笑い声は、ときわの声によく似てはいたが、明らかに悪意を含んだ声だった。

広隆はほーっと息を吐いて暗い道を進みはじめた。危なかった。もう少しでだまされるところだった。

(もう迷わないぞ。暗い道を選べばいいんだ)

 広隆は闇の中をひたすら進んでいった。しばらくすると、再び道がふたまたに分かれ、一方は明るく一方は暗かった。

 広隆は明るい道のほうにやはり小さな黒蛇がいるのを見た。

「あいにくだな。もうだまされないぞ」

 広隆は蛇に向かって言った。蛇はちろちろと赤い舌を出して広隆を見ていた。

 さっさと進んでしまおうと踵を返した広隆の背中に、今度は緋色の声がぶつけられた。

「まったく、期待外れだわ」

 広隆は思わず振り向いてしまった。もう二度と聞けないはずの声は辺りに大きく響いた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る