マヨヒガ

荒瀬ヤヒロ




(まいったな)

 幾重にも連なる細い枝をかきわけて進みながら、少年は思った。

 なぜ、こんな山深く入ってしまったのだろう。今更ながら後悔が胸を突く。

 日はとうに暮れ落ち、少年の周囲は闇に染まっていた。鬱蒼とした木々の重なり連なる枝葉の隙間からわずかに差し込む月の、淡い頼りない光のおかげで、どうにか前に進むことはできるが、どちらの方向にどう行けば元の場所に戻れるのか、とんと見当もつかなかった。

 少年は小さく舌打ちした。こんなことになるなら散歩になんか出るんじゃなかった。父の実家のあるこの遠野には毎年夏になる度に遊びに来ていたが、こんな山奥に足を踏み入れたのは初めてだった。

 ああ、でも弟をあそこに置いて来てよかった。連れて来たら大変なことになるところだった。自分が戻ってこないから泣いているだろうか。いや、もう誰かにみつけられて家に帰っているだろう。そう思うと、少し気が楽になった。自分一人なら、一晩や二晩帰らなくても、誰も心配などするまい。

 ガサガサと音をたてて茂みに分け入ると、草陰で休んでいたトノサマバッタが驚いて飛び跳ねた。

「悪い悪い」

 バッタはしばらく身を潜めていたが、すぐにまた大きく飛び跳ねてどこかへ行ってしまった。

 少年は立ち止まって空を見上げた。

 ぼんやりとした白い月の光が見える。そう、あんな感じの光だった。と、少年は思った。

 家にいてもすることがなかったので夕涼みをかねて散歩に出た。一緒に行きたがってむずがる幼い弟の手をひいて。

 山の麓にひろがる雑木林までやってきた時、少年は不思議な光を見た。木々の間でふわふわ揺れる、淡いかすかな光。すぐに見えなくなってしまったが、少年はその光が気になって仕方がなかった。

「すぐに戻ってくるから、ここで待ってるんだぞ。絶対に動いちゃだめだ」

 少年は弟にそう言い聞かせ、雑木林に飛び込んだ。目を凝らすと、ずっと奥のほうで揺れている光が見えた。

 あれは蛍の光だ、と思った。後を追っていけば、もしかしたら大群落を見られるかもしれない。そんな期待のせいだろうか。こんな山奥まで足を踏み入れてしまったのは。

 光を見失って、はたと気づいた時には、もう帰り道がわからなくなっていた。行けども行けども、木の下闇が続くばかり。

(疲れたな)

 激しい疲労がどっと出た。

 少年は大きな木の根元に座り込んだ。ひんやりした風が頬をなでた。山の空気はさえざえと澄み渡り、濃厚な夜の闇が辺りを飲み込んでいる。

 怖くはなかった。静かな場所に一人でいるのは、むしろ好ましいことだった。耳をすますと、さわさわというかすかな葉ずれの音が聞こえる。

 少年は大きな溜め息をついた。そして、ふと悲しい思いにかられた。なんだろう。なぜ悲しいのだろう。孤独だからだろうか。

 今、自分は遠野の山奥にひとりぼっちでうずくまっていて、心配してくれる人も迎えに来てくれる人もいない。だからだろうか。

(でも、そんなのはとっくにわかりきっていたことじゃないか)

 その時、膝を抱えてうずくまる少年の耳に、葉ずれの音とも虫の声とも違う何かがとどいた。それは、冷たい風にまぎれて、どこか遠いところから聞こえてくる。

(誰かの……声……歌声……)

 少年は立ち上がった。きょろきょろと辺りを見回す。と、大木の後ろの、茂みの向こう側が白くぼんやりと、霧がかかったように輝いていた。

 歌声が大きくなった。それは今度こそ少年の耳にはっきり届いた。  

  悲しかったら迷うてこ

  苦しかったら迷うてこ

 歌は白い光の向こうから聞こえていた。少年は歌声に引きずられるようにして茂みに足を踏み入れた。

 その少年の体を、白い光が包み込んだ。



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