二章 遊技盤の王女(むすめ)
最初に私が手に取ったのは勿論、ルーシア姫の名前が書いてあった紙片だ。内容はまだちゃんと読んではいないが書かれている内容だけをざっと見た感じでは一番古い事が書かれている様に見える。けれど紙は割と新しい様で他に比べるとまだはっきりと白く光に焼けてすらおらず黄ばんでいない。とは言っても充分に古い物でそれなりに傷んでいる。
紙の劣化に関係するのは光に曝す事。そして何よりも湿気だ。そしてこの家は湿気がとても少なくて閉じられた屋内で空気も腐っては居なかった。上の戸棚にしまわれていたしきっと母親も開いてはいない。その事が保存条件としては良かったのだろう。
これがもし普通の家なら腐ってしまっていたかも知れない。紙は書き記す上では便利な物だけど保存や記録と言う点で見ると劣化が早く適していない。だから司書院での業務も大半が複写作業で私も散々文字の練習をさせられてきた。
そう考えるとこれは本当に運が良かったのかも知れない。
そんな幸運に感謝しながら私は祖母マギーの書いた手記に目を通し始めた。
○マギーの手記・その一
私の家は没落した元貴族で、生まれた頃には潰れてしまったと聞いたことがあった。
けれど、それでも『身元のしっかりした娘』という事で私が選ばれたのね。
何も判らないままで私は立派な馬車で城へと連れて行かれた。
最初はなんて立派な童話に出てきそうな馬車だろう、だなんて喜んでいたけれど実際にお城の中を歩いているとどんどん不安になっていって、怖くて仕方が無かったわ。
何度も廊下を曲がって、階段を二つ昇って、ようやく部屋の扉の前に到着したの。小さい私には来た道を覚えるなんて出来なかったわ。
そうやって部屋の扉の前に行くとミス・メアリはノックをして扉を開いた。
するとこじんまりとした部屋の中にテーブルと椅子があって、そこに一人の女の子が座って何やら弄って一人きりで遊んでいたの。
何を弄っているんだろうと思って見ていると、その女の子は貴族や大人がよくやっている遊技盤の駒を一人で黙ったまま弄っていて、こちらの方を見ようとすらしない。
私は連れて来られた場所の事も忘れて『ああ、なんて愛嬌の無い、無愛想な子なんだろう』と思った物だわ。
ミス・メアリは恭しくお辞儀して何やら私の事をその少女に説明すると、それだけで入った時と同じように大仰にお辞儀すると私を残して部屋を出て行ってしまった。
私もあの頃は浅はかで世間知らずな小さな娘だったからね。それまで怖いと思っていた事も忘れて、その女の子に話し掛けたの。
『私はマーガレット・エヴァンス。皆は私をマギーって呼ぶわ。あなた、お名前は?』
今、その時の事を想い出してみても汗が吹き出してくるわ。それまでさんざん『王室の姫君のお相手』とか話を聞いていた筈なのに、そんな事もすっかり忘れて、そこいらで普通に友達に話し掛ける様に口を利いたのだもの。
ただ、そこでその女の子は大きな椅子に座ったまま、ぶらぶらと揺らしていた足を止めてじっと私の方を目を丸くして見つめたわ。
女の子は驚いた様な顔のままで、私にルーシアとだけ告げた。
これが御歳八つのルーシア・フィオメナ・グリゼルマ王女殿下との初めての出会いね。
*
ルーシア姫――その懐かしい名前をマギーの文字で見て私は胸が熱くなった。
いつも祖母が話してくれた名前。マギーはいつも彼女の事を『ルウ』と愛称で呼んでいた物だ。文献でも既に見られない名前が文字としてマギーの手記に綴られている。
マギーは彼女の事を『姫様』とか『王女様』とか呼んでいたけれど大半は『ルウ』と呼んでいた。それは私に話す為ではなくて思い出して遠い目をしながら口にする時だった。
そして私はこんな初めて出会った頃の話を一度だって聞いた事が無かった。
エヴァンスという姓が貴族家だった事も聞いた事がない。没落した元貴族だったなんて私の母や叔母達も知らない筈だ。ただ、そう聞いて少しだけ納得出来る事もあった。
私の母や叔母達は他の大人達と比べて明らかに違う。態度や仕草、振る舞いが優雅と言うんだろうか。作法じみた動きが自然に出るのは祖母の躾けた結果らしい。そして祖母と長く一緒にいた私も影響を受けたのかも知れない。学術院では教授から『お前はグリゼルマの貴族家出身なのか?』と尋ねられた事がある。勿論違うと答えたし私は大好きな祖母の所作を幼い頃から真似ていたから今でも癖がついて残っている。
今までは深く考えた事がなかったけれど、冷静になってみるとマギーが貴族家の出身というのは当然だ。だって王族の姫君の傍にいてお茶を淹れたりする人が平民の訳がない。
王族に付き従うのは貴族で、女性なら侍女――つまり貴族令嬢だ。それに『王女と友達だった』と言うのならマギーもそれなりの出自でなければ絶対に務まらない。
そして何よりもこの手記が私に向けて記された物だという思いが強くなった。書かれている記述方法が口語で誰かに語り掛ける形式だからだ。私が王女について知りたがれば祖母は幾らでも話してくれた。けれど私が本当に知りたかったのは『悪姫』ではない証拠だ。
マギーが語ってくれたのは思い出であって何かを証明する物じゃない。その思い出話が好きだった私が王女様を貶める『悪姫童話』を許せないだけだ。その事を言っても祖母は困った顔で笑うだけだったけれど、好きな物を悪く言われるのだけは絶対に許せない。
だからきっとこれはマギーが残してくれた『真実』の証言だ。この手記には私がまだ知らない事が書いてある。マギー自身が気付いていなかった事だってあるかも知れない。
――マギー、ごめんなさい。読ませて貰うね。
一度だけ目を閉じて小さく謝罪の言葉を呟くと私は次の手記を読もうと手を伸ばした。
○マギーの手記・その二
ルーシア姫は王族の姫でありながら、とても優しくさっぱりとした性格の娘だった。
普通、王族や貴族の娘は恭しくされる事に慣れているのに、ルウは逆にそう言う態度を取るととても機嫌が悪くなってしまうから困った事を憶えているわ。
『あなたは臣下ではなく友として来たのだから』と言っていつも私に愛称で名を呼ばせようとするものだから、大人達の前ではずっとひやひやとしていた物よ。
ロジャー――先生も私と同じ様に彼女に振り回される立場だったから、すぐに仲良くなれたのだけれど……それを見てルウは笑顔で『お似合いね』と言って必ず茶化すのよ。
先生は真面目で見栄えも良いけれど融通が利かない処のある若者だったから、ついつい私も調子にのってルウと一緒になって弄ってしまったりして。
考えてみればあの頃が一番楽しくて、誰もが幸せな時間を過ごせた時だった。
ただ、そんなルウもロジャーから遊技盤を習っている時だけは真面目だった。
遊技盤なんて戦争での戦い方を学ぶ物だし、王女が習うには似合わないと思っていたわ。
どうして遊技盤なんて物を熱心に勉強しようとするのかと私は尋ねた事があった。
ルウは少し困った様な顔をして、けれどすぐに少し寂しそうに『これは私の宝物で、だから一番上手くなりたいの』と笑いながら言ったのを憶えてる。
実はそれが陛下から賜った物だと言う事を私は後で知ったわ。陛下はルウと逢う事が殆ど無かったけれど、それでもルウに何か欲しい物は無いかと一度だけお尋ねになられて。
その時陛下が手に持たれていた遊技盤の駒を見て、ルウがそれを望んだと言う事だった。
こっそりとロジャーが教えてくれて、それで私も合点がいった。きっとルウは寂しかったんだと思う。あの子はいつも一人ぼっちで、遊技盤だけで遊んでいたのだから。
*
書かれていたのはルーシア姫自身に関する事で、これも私が聞いた事がない話だった。
そもそも書かれているのは幼い子供に話す様な内容じゃない。ルーシア姫が王――父親から余り相手をされなかっただなんて聞いても子供にはよく分からないからだ。
それでも読んでいるだけで自分が幼かった頃に戻った錯覚を受ける。あの頃みたいにマギーが私に語り掛けてくれている様に感じる。最初の手記と同じ口語書式で昔話を語り聞かせる様に書かれていて、懐かしさの余り不意に頬が緩んでしまう。
そして何よりも、祖父のロジャーが王女の『先生』だった事に私は驚いていた。
ロジャーは私の祖父だがまさか王女に遊戯盤を教えていたとは思わなかった。それにやはり王族に教える程の立場なら相当高位な貴族だったと言う事になる。
祖父ロジャーはとても無口な人で幼い私から見ても怖い印象が強かった。遊戯盤で一人遊んでいる姿をよく見たが、その時だけはとても優しい目をしていた事を覚えている。
恐らくその時に使っていた遊戯盤は今、目の前の丸いテーブルに布を被せて置いてある。
小さい頃に私は一度だけ祖父に『それは面白いの?』と尋ねた事があった。その時祖父は目元にしわを寄せて『憶えたいなら教えてやるぞ』と無愛想に答えた。けれどそんな祖父の一言に恐怖を抱いた私は逃げる様にマギーの元へ飛んで行ってしまった。それきり祖父ロジャーとは殆ど話さないままで亡くなってしまった。
結局私はロジャーとは数回しか会った事が無い。と言うのも私がこの家に来る様になって少しして亡くなったからだ。三度目か四度目に私が連れられて来た時に祖父は倒れた。
だけど今にして思えば一般的に女の子が遊技盤を覚えるなんてあり得ない。戦争での戦略を覚える為の遊びを女が学ぶ意味が無いからだ。
世間では最近剣を手にする女性が登場する物語が描かれる事も多いが、現実にそう言う女性は先ず存在しない。戦場に赴くのは男性の役割で女は家を守るのが一般常識だ。
基本的に女には軍隊を動かす権力が与えられない。女系国家で女王が統治する国でも戦うのは原則男性で女性が指揮を執る事はない。この国も王制から共和制になったが議会は男性議員だけで構成されているし今も女性は議員にはなれないのだ。
だから遊戯盤もそれなりの権力を持つ男性、もしくは嫡男の嗜みに限られている。
因みに隣国のリーゼン王国は現在も未だ王制だ。但し政治自体はグリゼルマ共和国と同じで議員制が導入されていて上院には貴族が、下院には平民が所属している。王は基本的に外交に携わるだけで政治顧問として意見する程度の一風変わった制度が採られている。
それでも基本的に女性は関わらないし王族であっても姫君が顔を出す事はないらしい。
そんなリーゼン王国の議員制度を参考にした結果、グリゼルマ共和国は議員制で国家の方針を決める王不在の『共和国』と言う世にも珍しい国として復活したのだ。
私が生まれるより随分前からこの国は共和国だ。だから過去に貴族がやっていた娯楽も一般庶民が嗜む程度には普及している。しかしそれでも女には『はしたない遊び』扱いで見る事はあっても誰も関わろうとはしない。そんな娯楽を『教えてやる』と言うのだから祖父ロジャーも相当変わった人だと後になって知る事となった。
だけどまさか『姫君』の教師をしていた前科があったとは思わなかった。道理で抵抗もなく女の私に『教えてやる』だなんて言った訳だ。
けれど『王女が独りぼっちで寂しい』と言うのだけは良く分からなかった。普通王女と言えば社交界の頂点でいわゆる主賓とされる。それに王が姫に会わないのも不自然だ。
王とは実は孤独で、例えどんなに臣下がいても信じられる相手は少ない。権力が集中する王宮に於いては権力闘争や派閥抗争が必ず発生するし王族自ら参加している事もある。
そんな中で『姫君』と言う立場は寵愛を受け易く王が気を許せる相手でもあるのだ。
グリゼルマ王朝は男性主権で女が王権を得る事はなかった国だ。そんな情勢下では王にとって気を許せる相手は身内であってもそうはいない。特に幼い姫君は権力に関心もなく、親として純粋に可愛がれる『我が子』だ。マギーから聞いた話によるとルーシア姫は性格に多少癖はあるものの穏やかな気性で、見た目も可愛らしく美しい銀髪の持ち主だ。愛でられこそすれ孤独で寂しいなんて事があり得るのか。そこがどうしても分からなかった。
ルーシア姫の肖像画は一切残っていないが、私は祖母から王女の外見を聞いているから知っている。王女様はグリゼルマでは珍しい白銀の真っ直ぐな長髪だ。その上非常に珍しく希少な紫の瞳で、これは世界中でも数える程しかいないと言われている。幼い頃は知らなかったが祖母から何度も聞かされた話で、恐らく『悪姫童話』の原因の一つだ。
当然、世間に王女の記録はないから誰も知らない。祖母に聞いた私だけが知る情報だ。
白銀の髪について調べた事があるが、グリゼルマ王家に稀に生まれるらしい。これは隣国リーゼン王国でも同じだが神殿に入って巫女頭になる事が殆どだと聞いている。
兎も角こうやってマギーの残した手記を読み進めて行けば新しい何かが分かるかも知れない。そんな可能性に期待しながら私は三つ目の手記へと手を伸ばした。
○マギーの手記・その三
ルウはいつもロジャー先生と遊技盤で勝負をするのだけど、いつも勝てなかった。横で見ていても私は遊技盤のやり方なんて知らないから何が何だかさっぱりだった。
ただ、いつも二人にティーを入れると、毎回二人揃って有難うと言ってくれる。
その日もいつもの様に、ルウはロジャーと勝負をしたのね。だけどロジャーはお父上が将軍閣下で、戦争についてもとても詳しかった。元々そう言うお家柄なのだから、十になった娘程度が勝てる筈も無いわ。それでもルウはしつこくせがんで何度も勝負をしたの。
最後の勝負で偶然、ルウが勝ってしまった。
だけどやっとルウは勝てたのにとても機嫌が悪かった。何と言ったんだったかしらね。
確か『本気で勝負と言っているのに、手を抜くとか有り得ないわ』だったかしら。
そんな事を言って怒るルウに、すました顔でロジャーがたしかこう応えたの。
『最後まで諦めないその姫の思いに私は負けたのです。勝たせたと仰るのならば、それこそ我が一族に対する侮辱に相違ありませぬ』
そんな事をまるで演劇の様に古臭く大仰に言う物だから、ルウも隣で見ていた私も思わず吹き出してしまって、ルウもそれ以上怒らなかった。ただ一言、あなたのその優しさは弱点だけど美点でもあるわ、とだけ言って。
そう言えばこれをアニーに話した時、ロジャーの事を王子様みたいだと言ったっけ。あの頃のロジャーは確かに凛々しい若獅子と言った感じだったけれど、実際にハワード将軍の次男だった事を考えればその通りなのかも知れないわね。
*
グリゼルマ王国の歴史を調べると真っ先に登場するのが『ハワード家』の存在だ。立地的に王国は戦争になる事は余り無かったらしいが数少ない戦争史には必ずその名前が登場している。王族達からの信用も相当厚かったらしく戦争が殆ど無かったのにこの一族の存在だけは他国にも知られている。それで戦争を仕掛けられなかったと言う説もある位だ。
そしてその名は今も知られていてグリゼルマ共和国より近隣諸国での知名度が圧倒的に高い。と言うのもハワード家は遊戯盤の強豪として周辺諸国で相当知られているのだ。
これは王女を調べる際に王家の血統を調査して知った事だ。王国の中でも重鎮で王族が意見を無視出来ない存在。『王国の剣』とも呼ばれ、相当な戦略家で平和な時には遊戯盤を嗜んでいた。外交の際にも王族に随伴して他国で親善試合をする事もあったらしい。
遊戯盤競技の界隈では語り継がれる伝説の人物で、今でもハワード家と言えば遊戯盤の競技者の間で有名らしい。だけど残念ながら国内では殆ど知られていないのが実情だ。
しかしそんな将軍も革命の折、国王が殺害された直後に自刃している。
そんなハワード将軍には息子が二人いた。
革命の時、長男は将軍に随行して王族を庇って早々に戦死している。次男は革命の最中行方不明になっていて生死も不明。学者の間では死亡していると言うのが通説だ。
なにせ当時、王侯貴族はことごとく捕えられてその場で殺害されている。どれだけ勇名を馳せた一族だろうと国民の全てが相手では敵わない。民衆側にも相当な被害が出たが王族は確実に全員殺された。王に忠誠を誓った騎士達も将軍と同じく自害している。
そんな状況だから当然、将軍の次男も死んでいる筈だと言うのが学者達の結論だった。
しかしハワード将軍の次男――私の祖父、ロジャーは生き延びていた。
恐らく革命以降、マギーの家の名を名乗ったのだろう。エヴァンス家が没落貴族の名前なら民衆達にも気付かれ難い筈だ。それに一つ目の手記にも書かれていたがマギーも幼い頃は結構なお転婆だったらしいし周囲から貴族家の娘だと思われていなかったのかも知れない。ただそうなると今度は姫君の友人に没落貴族の娘を選んだ理由が分からない。
兎も角、マギーはロジャーと一緒に革命を生き延びた。母達に昔話を語らなかったのも恐らく自分達の正体を知られる事を避ける為だ。話さなかったのではなく話せなかった。
こんな世間と隔絶した土地で暮らしていたものきっとその為だ。二人は世間から隠れてここで生き、母達を産んで育てた。あくまで山で暮らす猟師の娘達として。
そして何よりも驚いたのは手記の最後に私の名前が記されている事だった。
私の名前、アネット・エヴァンスは祖母の姓を受け継いだ名前だ。普通は父方の姓を名乗る物だけど私の父は平民の孤児で姓を持っておらず母方の姓を名乗る事になっている。
男児は父方の姓、女児は母方の姓に続いて父方の姓を名乗るのが一般的だ。しかし父に姓がないので祖父の家名を受け継ぐ事になる。つまり私の隠された名前はアネット・エヴァンス・ナイ・ハワード。『ナイ』は女孫を指す言葉で男孫なら『ユイ』となる。日常で使う事はないが何かあった時に自分の血統を知っているかどうかで扱いが変わる事がある。
そして記述されている『アニー』とは幼い頃からの私の愛称だ。マギーは私をそう呼んでいつも可愛がってくれた。家族や知人はアンと呼ぶからアニーと呼ぶのは祖母だけだ。
だからマギーの手記に書かれている『アニー』は間違いなく私の事だ。この手記が書かれたのは私がマギーの家で一緒に過ごす様になった後だと言う事になる。
それがまるでマギーが私の為に残してくれた言葉の様で嬉しくて堪らない。
そしてロジャーの事を王子様みたいだと言った思い出も確かにあった。それに書かれたお話も覚えている。幼い頃、この部屋のベッドの上でマギーの昔語りを聞いていた時だ。
幼い王女は遊技盤でいつも勝負するけれど凛々しい若者に勝てない。何度も何度も勝負してやっと最後に王女様は勝利する。だけど賢い王女様はその若者が実はわざと負けた事に気付いていてとても怒るのだ。『情けを掛けて貰っても嬉しくない』みたいな事を言うが若者は『最後まで諦めずに最善を尽くそうとする気持ちに負けたのです』と答えた。
それは私に取ってとても素敵な話だった。今でも『女は男を立てる物』と言うのは当然の様に思われている。なのに若者は王女を認めて逆に立てて見せたのだから。そんな余裕のある態度は格好良いと思ったし流石王女様と仲良しの人だと思った。
だけど拙く言う私の言葉にマギーは目を丸くしてロジャーはむず痒そうな顔になった。
それを見て私はマギーと一緒に大笑いした事をよく憶えている。何せあの怖そうなロジャーが逃げる様に扉を閉じてしまったのだから。その後でマギーはそっと教えてくれた。
『――アニーの言う王子様はね、彼は実は王女様の遊技盤の先生だったのよ』と。
そしてロジャーはマギーと結ばれた。落ちぶれて民衆にも見向きされないエヴァンス家の姓を名乗ってここで暮らし、三人の娘達が生まれた。それが叔母達と私の母だ。
母も祖父母と一緒に暮らそうと誘っても聞き入れなかったし生涯この土地から出ようとしなかった。私が祖父母の元へ預けられたのはそういう打算もあったのだろうけど。
だけどこうして考えてみるとマギーから聞いたルーシア姫は姫君らしくない。細身で可憐な少女だが悪戯心のあるごく普通の少女で弱々しくなく逞しい部分も多く持っている。
私が聞いた限り祖母の事を本当に友人だと思っていた様だしマギーだって姫君を相手に友人だと断言していた。王族特有の偉い立場や権力を振りかざさない気持ちの良い少女だ。
でも祖母が私に語ってくれた昔話が真実なら世間で誰もが知っているあの『悪姫童話』は一体何処から出た物なのだろうか。何処の誰があんな酷い逸話を思いついたのだろう。
この国で起きた革命は正当な事だったとこの国の誰もがそう信じて疑わない。だから倒された王族や貴族達は悪であり絶対に間違っている必要があった。革命の直後リーゼン王国は軍を派遣した。けれどリーゼン軍が駆けつけた時には既に王族は全て殺害された後だ。
結果リーゼン王国は侵略や吸収ではなく緊急的臨時措置として統治代行を行った。これはリーゼン王国にとっても苦肉の策で本当は余り関わりたく無かったらしい。これについて私はそれ程政治的な話に詳しくないから良く分からないが教授がそう言っていた。
一度はリーゼン王国に統治された物のグリゼルマ王国が君主不在の共和国として成立したのはリーゼン王がそれを認めた為だ。世間では圧政に苦しむ民衆による革命が起きれば王族の統治失敗を意味する。そしてそれを半ば黙認し肯定した形となった。
近隣国家からはリーゼン王国の人道的行為と肯定的に受け止められた。けれど倒された王国の姫君が実は善良であったなら話は大きく変わる。王は戦闘で死亡たから王女は見せしめの為だけに処刑されたと見るべきだ。それは民衆にとってとても正義とは言えない。
元々この国の土地は自然豊かで資源も豊富だ。立地も海に面していて近隣諸国から見て相当魅力的だそうだ。それが簡単に手に入るのなら裏から手を回してもおかしくはない。
実は王女や王族達に正当性があって、逆に革命を起こした民衆が何者かにそそのかされたのだとしたら世論はどう動いただろうか。私は王女に思い入れがあって考える事が偏っている事を自覚している。それでも十三歳の少女を処刑する事が正しいとは思えない。
ルーシア姫の落とされた首は未だ見つかっていない。王女が実在した事は明白なのに根拠となる物が残っていない。不自然な位に何も残っていないのだ。
これが実は『残っていない』のではなく『残さなかった』のだとしたら?
あの『悪姫童話』は革命を起こした民衆やリーゼン国に都合が良過ぎる。グリゼルマ王国の王族や貴族を悪と出来るし民衆の行動も正当化出来る。そしてリーゼン王国も統治代行した上に民衆の独立を認めた事で実際に共和議会から資源も融通されている。近隣国にも人道的な国として評価を受けているしあの革命によって様々な恩恵を受けている。
もし『悪姫童話』の裏にそんな陰謀が隠されているとしたら――もしロジャーやマギーが生きていれば、それが世間に知られれば一体どうなるのか。王女の友人だったマギーと国際的に有名な将軍の息子がもし声を上げていれば世間は誰を信じるだろうか。
この手記がその引き金となるかも知れない――そんな事を考えた処で私は我に返った。
分かっている。あの優しいマギーはそんな事を望まない。そもそも実の娘達にも事情を一切伏せていたのだから、ただ穏やかに生きていたいと考えていた筈だ。やがて孫の私と出会って、昔話を聞いても問題ないと考えたのだろう。それだけの時間は過ぎている。
陰謀があったと考えなければ私がやり切れなかっただけだ。十六年もの年月を掛けてもそれでも分からないルーシア姫の真実。『悪姫童話』を否定したいのにその材料が見つからない。そして祖母の死と別れ、残されていなかった私への遺言。それが組み合わさって私を駆り立てている。焦りとジレンマが私を責め立てる。きっとマギーの存命中に王女の真実に辿り着けなかった事が罪悪感となって重くのしかかっているのだ。
――だけど、あのマギーがそんな事を願って何かを残す筈は絶対にない。
マギーはとても優しいお婆ちゃんだった。初めてこの家に連れてこられて、会った事の無い祖父母の元に置いて行かれて怖くて仕方なかった。そんな私にマギーは本当に優しくしてくれたし泣いていてもずっと傍にいてくれた。そしてそんな私に話してくれたのだ。
『――私はね? 本物の王女様とお友達だったのよ。これはそんな昔のお話よ――』
――そう言って。それからマギーのその言葉は私にとって魔法の言葉になった。
今まで聞いた事のないお姫様のお話。そんなお姫様と友達だと言うお婆ちゃんはいつも懐かしそうに優しい目をして話してくれた。母親ですら仕事で忙しくて余り私に構ってくれた事がなかったから、ずっと一緒にいてくれるマギーの事がすぐに大好きになった。
きっとマギーは純粋に大切なお友達、ルーシア姫を忘れない為に記した。優しかった祖母がそれ以外の為にこんな手記を残す筈がない。私も煮詰まっていたとはいえ、マギーの記した物に対して勘ぐった見方をしていた。私はもっと素直にならないといけない。
革命があった事なんていつかは忘れさられる物だ。祖母は祖父と結婚して母達を産んで幸せを手に入れた。そして末娘の母に看取られて穏やかに眠りについた。
大体この手記から何かが分かっても世間に公表する事は出来ない。もし母や叔母達が知れば厄介な事になるのは請け合いだ。そんな事はマギーだって望んでいないだろう。
第一、祖母が隠したかった事なら世間に知られるのは危険と言う事でもある。私が考えた様な陰謀じみた考えがあったとしたら、それこそ矛盾する。祖母はロジャーと結ばれて三人の娘を産んで育てた。告発する目的であったなら娘達に危険が及ぶ。そんな事を祖母は絶対に考えないし実行もしない。大体私の母や叔母達は確かに品のある態度や振る舞いが出来るがあくまでそれだけだ。貴族の社交術なんて一切知らないし生きる事に逞しいが三人共おっとりとした性格で大雑把だ。今の世の中で暴露してもろくな事がない。
争い事が特に嫌いでいつも優しく穏やかだったマギーはそんな事を望まない。それにロジャーが本当に将軍の息子なら逆にそんな悪手を選ぶ訳が無かった。
このマギーの手記を読む限り幸せだった思い出を書き綴った物だ。それなのになんて莫迦な事を考えたのかと自分に苦笑しながらも更に続きに目を通してみる事にした。
○マギーの手記・その四
ルーシア姫のお誕生日の事を書いておきましょうか。
ルウのお誕生日は冬の、雪の花が咲く季節なの。まるで雪景色の様に綺麗な銀髪で、もしかしたらそれが理由だったのかもね。腰辺りまで真っ直ぐ伸びた、本当にとても綺麗な長い髪だったのよ。
私が彼女の誕生日を知ったのは春を目前にした頃だったわ。十の誕生日を知らないまま過ごしてしまったのだけれど、彼女は王女なのにどうして生誕祭を行わないのか、それが不思議でしょうがなかったわ。
ロジャーは、ルウが生まれた時にフィオメナ様、お母様が身罷られたのでいつも喪に服していると言っていたのだけれど私にはそんな事を認める事なんて出来やしなかった。だってそれじゃあルウは生涯、誰にも誕生日を祝って貰えなくなってしまうから。
私は厨房のオーブンを借りて母から習ったフルーツの砂糖漬けのパイを作った。貧乏貴族だった私の家でも作れるごちそうだったから。ルウはこんな美味しい物食べた事がないと言っておかわりして食べてくれた。
ルウは熱い物が苦手だったみたいで冷めた物しか食べられなかったけれど。それでも本当に気に入ってくれたみたいで、時々せがまれる様になってね。ルウの誕生日になる度に特別なパイを作るのが私の役目になったのよ。
この話をしたらアニーも食べてみたいと言うから久しぶりに作る事になった。アニーもルウと同じで冷めた方が美味しいと言って、涙が零れそうになった。そうね、幸せって甘くて懐かしい味がするものだものね。
ああ、そうだわ。どうして忘れていたのかしら。今度から毎年、あの子の誕生日だった日にはフルーツパイを作る事にしよう。きっとあの子もロジャーも喜んでくれるわ。それが私の役目、ルウとの約束ですものね。
*
やはり私は莫迦な考えをしていた事が証明されてしまった。
私が良く知る優しいマギーの言葉が綴られている。やはりこの手記は懐かしい思い出を忘れない為に記したのだと思った。
そしてここにも私の名前が登場している……と言う事は先ほどの手記の前後に書かれた物で間違いない。端には比較的新しい文字でフルーツパイのレシピが書き込まれている。
マギーが作ってくれたフルーツパイは特に良く憶えている。話を聞いた幼い私が食べてみたいとせがむとマギーは驚いていた。そして実際に作る事になって幼い私も手伝って祖母と一緒に作ったのだ。それで出来上がった物は母が作ったパイとは全然違って比べ物にならないくらいに美味しかった事を憶えている。
そしてそれから毎年同じ頃になるとマギーは必ずフルーツパイを作る様になった。大抵私が預けられる頃合いだったから毎回それを堪能出来た。あの日がまさかルーシア姫の誕生日だっただなんんて全然知らなかった。これは他では知られていない唯一の情報だ。
祖母の作ったパイを食べたくて同じ物を母にせがんだ事もあるが完全に別物だった。成長してから知ったのだけど、そもそも母のレシピはマギーに教わった物では無い。母は祖母からフルーツパイの作り方を教えて貰った事自体が無かったのだ。
普通こういう料理は親から子に受け継がれていく物だ。だけど知らなかったと言う事は母達が子供の頃にマギーは作らなかったのだろう。私だって偶然聞いたお話から食べたいと言っただけで本当に偶然だ。だからこのレシピはマギーから私への贈り物かも知れない。
砂糖漬けにしたフルーツのパイは小麦粉を用いるが薄く伸ばして重ねて焼く為に思ったよりも材料を消費しないとても経済的な食べ物だ。例えばよく使われるリンゴも荒れた土地で育つ果実で飲料水がない土地でも水分補給に利用される。比較的安価で少ない食材でも満足が得られる。昔とは違って流通がしっかりしているから今は小麦粉で困る事も無い。
それに貧困に喘ぐ事がなくなっても懐かしい風味と甘い果物の味は子供に人気だ。それぞれの家庭には家庭の数だけ受け継がれたパイの味があると言っても良い。
私は少し考えると記されたレシピを持って来ていた新しい用紙に書き写した。
だけどまさかこんな風にルーシア姫の誕生日を知れるなんて思ってなかった。フルーツパイの日にはそんな意味があっただなんて知らなかった。それに王女様が好きだった料理を食べさせて貰っていたと思うだけで私の中で憧憬の思いが一層強くなっていく。
それにここには石窯もあるし今度このレシピで試しに作ってみよう。今度は私一人だけれど。もし上手く出来たらマギーの眠る丘にも持っていこうと考えていた。
そう言えば――王女の白銀の髪はグリゼルマ王国の王族にも時々生まれていたらしいが元々は北方山脈の方で暮らす民に多い髪の色だそうだ。手記の中でもマギーが言っているけれど雪景色の様に真っ白な白銀でとても美しくて白い肌の美人が多いと聞く。
リーゼン王国や現グリゼルマ共和国でも珍しい髪の色だけどそれでも全く見ないと言う程少ない訳じゃない。一〇人いれば一人いるかどうか、と言う位にいは見掛ける。
特にリーゼン王国では神殿で働く巫女として白銀の髪の持ち主が選ばれているらしいから、もしかしたらルーシア姫とはそんな血統を受け継いでいたのかも知れない。
そんな事を私はぼんやりと考えていた。
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