血塗れのアリス

武田コウ

第1話 退屈な日常

 血のような赤? いいえ、晴天の空のような澄んだ青色かしら。




 私にはわからない、一体赤色と青色の間にどのような違いがあるのか。いいえ、それはきっと重要な事ではないのでしょうね。だってこの世界では色なんて何の意味も持たない。






――ほら、空から青が零れ落ちるよアリス






 錆色の空がギラギラと輝きを放つ。零れた青は地に降り注いで全てを染めていく。






――まあ大変、薔薇を赤く塗らなきゃ






 ここが私の世界、私の居場所。足元を濡らす青に右手の人差し指を浸す。ドロリと滴るそれを自身の唇にそっと押し当てた。




 白いうなじに金の髪


 幼いアリスは不敵に笑ふ




 空の青に指を浸し


 桜色の唇に塗りたくる




 ああ、それとも血の赤かしら?




 どうだっていいわ


 ほら、私はとっても綺麗




 景色がだんだんと歪んで見える。空色に塗った唇がニヤリと意地悪くめくれ上がった。




「時間だよアリス」




 自身の口から出てきたのは聞き覚えの無い男の声。


 ああ、意識が……遠のいて……




そして私は目を覚ました。











 甲高い声で叫び続ける目覚まし時計の音で目を覚ます。どうやらよくない夢を見ていたらしく、睡眠による疲労の回復は期待できそうにない。寝汗でビッショリと濡れた服が不快だったので軽くシャワーを浴びる事にした。




 夢を見る。詳しくは覚えていないが、たぶん同じ夢を。




 どこかここではない世界で、自分ではない誰かになって、そしてそこはとても美しかった。




 ハンドルを回す。シャワーから溢れ出した温水が体を濡らした。体に纏わりついた不快な汗が流れていくと同時に、あのぞっとするほど美しい夢の残滓も解けて消えていく。




 風呂場から出て、脱衣所の鏡にその身を映す。金髪でもなければ幼くも無い、疲れた顔をした私の顔が見返して来た。血の気の失せた薄紫色の唇にそっと指を当てる。




「吐き気がするわ」




 自分の顔が嫌いだった。他人からよく褒められるつややかな黒髪も、病的に白いこの肌も、キリリと攻撃的に吊り上がった鋭い瞳も、何もかもが気に入らない。




「いえ、きっとそれは嘘ね」




 気に入らないのは、自分の顔ではない。




 空が美しいと、海が綺麗だと誰かが言った。




 でもわからない、私にはわからないの。夢も希望も、不幸も絶望も、綺麗も汚いもみんな混ざり合って融けてしまうのです。




 風に吹かれてザワザワと鳴る木々も、キラキラ輝く爽やかな朝日も、この世の全てが、私は気が狂うほど嫌いだった。




 ああ今日も始まってしまう。普通で退屈で、素晴らしく醜い平和な一日が……。











 最初に“ズレ”を感じたのは幼稚園の時だったと思う。お絵描きの時間に、先生は好きなものを描きなさいと画用紙とクレヨンを渡してくれた。他のみんなが意気揚々とお絵描きを始める中、私は真っ白な画用紙の前で途方に暮れていた。




 自分の好きなものがわからない。なぜ他のみんなはお花やら太陽やらをあんなに嬉しそうに描いているの? 私にはわからない、わからないのです……。




「神崎さん、聞いてる?」




 快活なアルトヴォイスによって私の思考は現実に引き戻される。目を上げると、程よく日焼けした健康的な女性の顔が視界に映り込む。




「あ、ごめん。なんだっけ?」




「もう、やっぱり聞いてなかったか。だから、もうすぐ次の講義始まるから一緒に行こうってば」




 名前は忘れてしまったが、彼女はよく私に話しかけてくる。一体私みたいなつまらない人間の何が気に入ったのか知らないが、迷惑な話だ。私は少し微笑んでいるような曖昧な表情をして頷いた。結局のところ、この曖昧な表情が非常に楽なのだ。




 髪の毛の薄い、いかにも偉そうな教授が黒板の前で熱心に何かを喋っている。私はぼうっとしながら周囲を見回してみた。




 うつらうつらと眠そうに頭を揺らしている男子、机の下でスマホをいじっている女子、何やらコソコソと内緒話をしている者、真面目に講義を受けている奴……。




 くだらない、一体彼らは……否、私は何をしているんだろう。私にはわからない、私には何もわからない……






―――やれやれ、なんとも生きづらい事だねえアリス。






 突然目の前にニュッと湧き出てきた大きな猫の顔、意地の悪いニヤニヤ笑いが顔面に張り付いている。




「なに、あんた」




 眉をひそめながら小さな声で問いかけると、猫のニヤニヤ笑いはますます酷くなる。






―――いいねぇ、明らかに異常な俺に対してその態度。宙に浮かんだ猫の顔が笑うだけでは驚いてくれないのかい?






「驚かないわ、私が狂っているというだけの事なのだから」




 周囲の人間がこの猫に気が付かないという事は、私にだけ見えているという事。つまり私自身が生み出した幻想の類だろう。驚くほどの事でもない。






―――答えを出すのは早計だよアリス。狂っているのは君では無く、この世界かもしれない。






「同じことよ」




 正常な世界でただ一人狂っている私と、狂った世界でただ一人まともな私。この二つに差異なんて無い。どっちにしろ私は異常なのだから。






―――どうやら君は生きる世界を間違えているように見える。






 幻想のくせに偉そうね。






―――いっそのことどうだろう、俺に全てを任せてみないかいアリス。君の望む世界に連れて行ってあげるよ。






 ……うるさい。






―――生きる理由もなく意義もなく、意味もなく価値もない。何を躊躇う?






 ……うるさいのよ幻想風情が。




「そもそも、私はアリスじゃないわ」




 気が付くと、講義室には誰も残っていなかった。当然、私の目の前には猫の顔なんて無く、無人の講義室で私一人、顔をしかめて座っている。




「私はアリスじゃない、アリスじゃ……ないの」




 私は今、どんな顔をしているのだろう。温かな液体が頬を伝って落ちるのを感じながら、私はそっと講義室を立ち去った。

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