第三十七集 違算

 渭水いすいほとりで朝を迎えた趙英ちょうえい呼狐澹ここたんの二人が、青臭い約束を交わして間もなくの事。呼狐澹が川の向こうに船の一団を見つけた。


「あれは……」

「どうした、澹兒たんじ


 元より遠目が効かない趙英には、霞んだ川面が目に映るだけで、そもそも何も見えていない。呼狐澹は笑みを浮かべながら振り返って答えた。


ばくさんだアレ!」


 先年の船旅で出会った水賊の頭領・莫浪風ばくろうふうの事である。声を張り上げ、飛び跳ねながら手を振った呼狐澹に気が付いた虎髭の大男は部下を率いて船を接岸させ、相変わらずの豪快な笑いで久しぶりの再会を喜んだ。


「お前ェたち、何だってこんな所にいるんだ?」


 莫浪風のそんな当然の質問に、趙英は先年以来のりょう州の情勢を掻い摘んで説明すると、莫浪風は闘志に燃えた目で笑い出した。


「なるほど……、あの狡氐こうてい(氐族の蔑称)どもの後ろには馬超ばちょうがいたってわけだ」


 話を聞いてみると、馬超が城を包囲していた頃に時間稼ぎとして関中かんちゅうを荒らしまわった武都氐ぶとていが、略奪と殺戮を繰り返した事で、彼らも大いに困らされたという話だった。


 彼ら渭水賊は元々、自分たちに必要な分の物資以外は奪う事はせず、抵抗しなければ殺しもしない。狙うのは基本的に金持ちだけという暗黙の了解で動いていた。

 被害を受ける側からすれば賊である点は変わらないと言えるのだが、あの時に武都氐が行った無差別の殺戮と略奪は、その領分を完全に犯してきたのである。


 莫浪風ら渭水賊にとっては、縄張りを荒らされた事で、周辺の民からはこれ以上奪える物は無く、また賊に対して官軍の目も一気に厳しくなり、今後の生活の糧すらも破壊し尽くされたのだ。

 今では半ば漁師のような形で自給自足の生活に追いやられた彼らは、荒らすだけ荒らして何食わぬ顔で立ち去って行った武都氐に対して憎悪にも等しい思いを抱いていたというわけである。


「だったら俺たちと協力しないか? 馬超とは近々派手にやりあうはずだ。何だったら兵士として仕官する口も利いてやってもいいぜ」


 趙英のその提案に莫浪風は呵々大笑した。


「馬超と狡氐どもに一泡吹かすなら喜んで協力するぜ! 仕官の話は、まぁこんなご時世だ。俺はまだ決めかねるけどよ、部下の中には受けたい奴もいるだろうしな」


 こうして不幸中の幸いとも言える奇縁によって莫浪風率いる渭水賊も新たに味方に加えた趙英は、連絡役を近くの村落に配置する事を決めて、蜂起決行の日まで待機してもらう事とした。




 莫浪風らと一旦別れ、二人は徒歩で冀城へと向かった。距離にして五十里(二〇キロ弱)ほどなので、馬が無くとも陽が沈む前には到着する。


 趙家で待っていた趙昂ちょうこう龐淯ほういくにしてみれば、山道で彼らの馬を回収し、生きていると信じて待っていようと思い立ったその日の暮れには戻ってきたわけだ。


 どこか肩透かしを食らいつつも、共に無事を喜びながら、西平での交渉はほぼ成功した事、渭水賊が味方に付いてくれる事など、事態が好転しつつある面も報告しながら、未だに黒幕の存在が判然としない事と、その尖兵である何冲天かちゅうてんの恐ろしいまでの強さという不安要素は拭いきれていなかった。




 さて、一方で緑風子りょくふうしの滞在する西都せいと城では、新たなる動きが出てきていた。


「何と、これは全て閻行えんこうめの策略という事か!?」


 驚いた表情で訊き返したのは麹演きくえん。閻行失脚を狙ってかん夫人こと阿琳ありんと協力しようとした矢先の事。

 それを告げたのは、笑顔を崩さぬままの紅顔白髪こうがんはくはつの優男、鍾離灼しょうりしゃくである。


「左様ですとも。このままではあなたも韓夫人も、城内の韓遂かんすい派諸共に一網打尽とされてしまうわけです」


 鍾離灼の言によって拳を握り締めて悔しがる麹演。その様子を見てうすら笑いを浮かべた鍾離灼は、穏やかな口調で麹演に語り掛ける。


「しかしそれを覆す策もございます。閻行を陥れ、同時にあなたが忠臣として韓遂に取り入る事が出来る策が……」




 篝火かがりびが焚かれた真夜中の閻行私邸。

 麹演は物音を建てず、密かに阿琳の寝所に忍び込んだ。そんな麹演の姿を見た阿琳は、共に閻行を陥れる協力者として顔を合わせていた事で、人目をはばかる何らかの用があるのだろうと思い、静かに部屋の中に迎え入れた。


「こんな夜更けに何用だ?」


 他人を駒としか見ていない、偉そうな小娘。初めて顔を合わせた時から麹演は阿琳に対してそんな印象を抱いていた。この夜もそう思わせる態度はまるで変わらない。だが麹演は鼻で笑いながら話を続けた。


「今の計画では、閻行を陥れるどころか、我らが諸共に滅びるしかないという話を聞きましてね。全てが閻行に漏れていると」

「まことか!?」


 驚いた様子の阿琳に、麹演は大きく頷いて続けた。


「そこで計画を変更し、確実に閻行を失脚させる新たな策を実行しようと思いましてね……」


 阿琳は笑顔で麹演の次の言葉を待っていた。

 麹演もまた笑顔のまま阿琳に近寄ると、耳打ちかと思った阿琳もまた歩み寄るが、ふと腹部に違和感を覚えた。

 阿琳が目を向けると、そこには麹演の右手と、自身の腹部に深々と刺さった短刀が見えた。突然の出来事に麹演の顔に向き直る阿琳。麹演は穏やかな笑顔のままである。


「韓遂の最愛の娘が何者かに殺害される。となればその夫たる閻行の罪は重い。これほど簡単な話はありませんな。これで確実に両者の仲は壊れる。あなたも本望でありましょう」


 腹部から真っ赤な血が溢れ出し、その場に倒れ込む阿琳。

 違う、これは自分が望んだことではない。政治の駒として使われる事が嫌だった。だからずっとそこから逃げたいと思っていた。だが自分は、その最期の時でさえ、政治の駒でしか無かったのか……。

 己の運命を呪い、薄れゆく意識の中で天に向かって手を伸ばした阿琳だったが、その手も力なく床へと落ち、その命の炎が消えた。


 阿琳の脈が止まった事を確認した麹演は、周囲に人がいない事を確認すると、夜の闇に紛れて閻行の私邸を抜け出した。

 西都の城門には逃走用の馬を用意してある。このまま韓遂の所まで走り、阿琳の死を真っ先に報告する。これで韓遂と閻行の関係は修復不可能になる。閻行が滅ぼされた後、韓遂に対し自分が西平の統治をしたいと望めば、恐らくはそれは叶うだろう。

 麹演は夜道に馬を走らせながら、己の描いた未来予想図に高笑いをした。


 西都の城壁の上から、そんな麹演の逃走を眺めていた鍾離灼は、静かに笑みを浮かべた。


「さて、どう出るかな、若師叔わかししゅく……」






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