第十八集 失意の帰郷

 関中かんちゅうの地を蹂躙する武都氐ぶとていは、時が来れば領地に戻っていく心づもりであり、支配して治めるつもりがない。つまり民心を掴む必要が無く、ただひたすらに移動した先で略奪を繰り返した。これは兵站の概念が必要無いという事である。


 そんな神出鬼没の相手に正面からの戦いを避けられ続け、かと言って襲われた民を見捨てる事も出来ない官軍は、半年以上も翻弄され、関中に封じ込められた。その間に馬超ばちょう軍は漢中かんちゅう張魯ちょうろからの援助を取りつけて城の包囲を有利に進めていたわけである。正に馬超の手の内であった。


 趙英ちょうえいもまた、この間は夏侯淵かこうえん徐晃じょこう張郃ちょうこうら官軍の客将として前線で剣を振るい続けていた。呼狐澹ここたん緑風子りょくふうしも同様である。


 趙英はただ一心不乱に戦場を駆けた。だがいくら氐族を斬った所で、冀城救出の目途は立たない。それでも何もせずにはいられなかった。ただ眼前で略奪を繰り返す賊に怒りの剣を振るい続けた。


 そんな武都氐の襲撃が次第に止み、その大軍が南方の秦嶺しんれい山脈へと姿を消した時、趙英は不毛な戦いの毎日からの解放を感じたと同時に強い悲しみを覚えた。それは冀城が馬超軍の手に落ちた事を意味していたからである。


 既に季節は冬に入り、いつしか年も明けて建安十八年(西暦二一三年)となっていた。


 趙英は何よりも家族の安否だけが気になった。

 涼州参軍さんぐんの父は処刑されていないだろうか。誇り高い母は自害の道を選んでいないだろうか。まだ幼い弟は飢え死んでいないだろうか。

 家を飛び出したまま、省みる事もなく気ままな人生を送ってきたはずなのに、いざ家族に危機が迫ると、こんなにも心が乱される。趙英はそんな己を自嘲した。



 官軍はすぐさま関中西部の陳倉ちんそう城に軍営を構え、涼州へ斥候を向かわせたが、馬超軍は既に冀城を陥落させて主力部隊を上邽じょうけいに移し、万全の防衛体制が完成してしまっていた。さらに馬超は守りの薄い北部側である隴関ろうかんの守備を埋める為、けんの氐族も味方に引き入れて関中にくさびを打ち込んだ。迂闊に涼州に攻め込めば、武都氐に代わって今度は汧氐けんていが北から関中を襲うというわけである。


 無論ながら馬超軍とて易々と関中に攻め上れるほどの軍備が整っているわけではないが、夏侯淵率いる長安駐留軍もまた同様だ。戦力が拮抗してしまった以上、攻め込んだ方が不利となるのは自明の理である。隴山ろうざん山脈を挟んで東西に別れ、互いに攻め手を欠いた状態で睨み合い、戦力を整えながら機会を伺う情勢へと変化したという事である。


 曹操そうそうの主力軍が再び出撃してくれば当然ながら話も変わるであろうが、この時期の曹操は赤壁せきへきの戦い以降に関係が悪化しているよう州の孫権そんけんとの間で、国境付近である巣湖そうこ合肥がっぴを舞台に小規模な戦いを続けていた為、そちらに軍の主力を傾けていたのである。

 長安駐留軍としては、情勢に何らかの変化がない以上、これ以上の戦いは被害を増やすだけ。つまり涼州への出兵は見送られたという事だった。


 客将として扱われていた趙英、緑風子、呼狐澹の三人は、その決定を受けて夏侯淵の元に暇乞いとまごいに向かうと、夏侯淵はそれを当然の事と受け入れた。


「すまなかったな……、何もしてやれなくて……」


 申し訳なさそうに言う夏侯淵に、趙英は包拳ほうけんして答える。


「いえ、此度こたびは敵が上手うわてだったのです。むしろ感謝しております」


 夏侯淵は、顎鬚あごひげさすりながら笑みを浮かべ、そんな趙英を励ます。


「だが俺たちは見捨てたわけじゃねぇ。状況が変わったら、その時は必ず援軍を送ってやる。その時までは耐え抜け。冀城の連中にも、そう伝えてくれ」


 明るくも力強い夏侯淵の言葉に、趙英は涙腺を緩ませると、包拳をしたまま黙って一礼する。後ろに控えていた緑風子と呼狐澹もそれにならい礼をする。

 その後、張郃や徐晃の元へと挨拶に回ると、三人は陳倉を離れて馬で駆けた。



 渭水いすいに沿って隴山山脈を切り裂く渓谷を西へと駆ける。まだ陽の高い午後であった。途中で休息を取ったとしても、翌日には冀城へと到着するだろう。たったそれだけの距離が、まるで別世界への移動に思える。

 八カ月前、同じこの川を楼船ろうせんで下って長安へと向かった時、こんな結果になるとは思いもしなかった。


 家族の安否を知りたい。そんな焦燥感から無言でひたすらに馬を駆っていた趙英だが、陽も暮れかかると緑風子に制止される。


「気持ちは分かるけど、夜道を行くのは危険だし、何よりも馬超軍の巡回兵にでも出会ったら旅人だという言い逃れが使えなくなる。朝まで待ったとしても明日の内には着くんだ。急がば回れだよ。下手に厄介事を招いたらそれこそ冀城に辿り着けなくなる」


 緑風子の正論によって素直に馬を止める事になるが、周りは山ばかりで村らしい村が無く、大人しく野営する事になった。

 休んでいろという言葉に従って腰を下ろしている間に、薪を拾い集めてきた二人がすぐに火を起こす。空はいつしか群青に染まって満天の星空となっていた。


 思えば家族とは何年会っていないだろうか。家を飛び出して酒泉しゅせんに赴いたのは、まだ十二歳であったから建安十年(西暦二〇五年)の事だ。弟の趙月ちょうげつは当時まだ言葉を喋り出したほどの幼児であった。


 かつて漢陽郡で起きた叛乱に巻き込まれて二人の兄が死に、その後に生まれた男児であった趙月。後継ぎが出来たと家族で祝福した事を覚えている。今にして思えば、家を出たのは弟を可愛がる両親に対する嫉妬と、自分が出ていっても別に両親は寂しくはないだろうという反発にも似た心づもりがあった事は否定しない。本当に子供だったなと趙英は自嘲する。


 いつの間にか横に座っている呼狐澹が、狩ってきた獣肉を捌いて焚火で炙っていた。ほどよく火の通った肉を先に差し出されるも、食欲が湧いてこない趙英は呼狐澹に譲る。


 出会った頃より少しは背丈が伸びたであろうか。相変わらず趙英よりは低いが、砂漠で初めて出会った頃の呼狐澹よりも体格が良くなっているように思えた。成長期であるなら一年と経ずに目に見えて背が伸びる事もよくある話である。


 考えれば、弟の趙月も同じ年ごろのはずだ。

 笑顔で肉にかぶり付いている呼狐澹を見て、冀城包囲の間に趙月はちゃんと食べる事が出来たのであろうか。或いは餓死しているのではないかという不安が再び頭に浮かんできてしまう。再び両目に涙が浮かんできた趙英は感情の赴くままに呼狐澹を抱き寄せた。


 一方で急に後ろから趙英に抱きしめられた呼狐澹は困惑する。


「え、何……、何……?」

「すまん……、少しこのままで……」


 後ろからそう耳元に囁かれた呼狐澹は赤面しつつ、焚火の対面にいる緑風子に視線を向けると、優しく微笑んだまま頷いている。そのままでいなさいという意思が見受けられた。

 趙英の声、抱きしめる腕から、悲しみや寂しさを感じ取った呼狐澹は、気まずさに赤面しつつも、黙ってそのままでいた。


 そしていつしか夜も更け、先に眠ってしまった趙英を横たえて寝かせる呼狐澹。寝息を立てる趙英は、その眼に涙を浮かべている。剣も武功も自分より遥かに上である趙英だったが、家族を失う事をこんなにも恐れている。


 既に家族を全て失っている呼狐澹には、趙英の気持ちが理解できると共に、それを乗り越えて今日に至っている。狄道てきどうで初めて出会った時に結んだ「対等の取引」という言葉をふと思い出す。趙英のそうした心の部分は自分が支えてやるべきではないかと思い至る呼狐澹であった。






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