幕間 冀城陥落
涼州、
州都でもある冀城が
晴れ渡った昼下がりの青空に、強い風が吹きつけて城壁の軍旗を揺らしていた。
そんな城壁に立って東方に連なる
この包囲が始まった頃、
最も恐れるのは、彼の友人であった
今では冀城城内の食糧も底をつき、牛馬家畜の類も全て食肉として潰してしまった。冀城の人々は既に役人、将兵、民に至るまで、水だけで命を繋ぐ状況となっていた。中には飢えた子供の為に、己の肉を削ぎ落して食べさせる者までいた。
通りで倒れ伏した母親に縋りつき、泣いている幼子がいた。母親は既に息絶えていた。幼子はまだ死という物を理解できぬ年齢で、起きて起きてと言いながら泣き続けていた。
道行く者たちは同情の視線を送りつつも素通りしていく。今は皆自分たちの事で手一杯なのだ。分けてやる食糧も無い。自分の家族もいつそうなってもおかしくはない。
そんな幼子を抱きかかえてあやす者がいた。冀城の主である涼州
「もう限界だ。馬超に使者を送れ」
それが政庁に入った韋康の第一声だった。その場にいた参軍の
「お言葉ながら、それでは今日まで耐え抜いてきた事が無駄になってしまいます!」
楊阜の言わんとしている事は韋康も理解していた。だが兵も民も飢えに苦しみ、あと数日もすれば餓死者は累乗的に増えていくだろう。例え援軍が到着しても、城内の者が皆死んでしまっていては何の意味もない。
「民を生かす道はもうこれしかないのだ。それにここで馬超に降ったとしても、必ずや再起の機会は巡ってくる」
「しかし、馬超が我らを生かしますでしょうか?」
「己の命を惜しむか?」
「いえ。これは義の問題です」
強い口調で断言した楊阜に、韋康はゆっくりと頷いて言う。
「私は殺されるやもしれん。その時は、再起の時まで馬超に恭順の意を示せ。
韋康は
「馬超には誰も殺さぬように条件を出す。開城と引き換えなら承諾するであろうよ。奴とて大勢の前で約束は違えまい」
楊阜は韋康の覚悟を感じ取ると、拱手礼をしてその場を辞した。
冀城城門の外にすぐさま使者が送られ、軍営の
使者が開城の条件を言い終えると、馬超は迷う事なく承諾する。
「よかろ。誰も殺さぬ。約束しよう」
「ありがとうございます。韋刺史もお喜びになります」
使者は安堵の笑みを零すと拱手をして深々と礼をした。
それから間もなく冀城の城門が開かれると、わずかな供回りだけを連れて韋康がその姿を見せた。馬超は下馬するとその前に歩み出る。
「城内の民はもう限界だ。どうかまずは食糧を分け与えてやってくれ」
拱手礼をした韋康は、馬超に念を押した。それを聞いた馬超は呵々大笑して韋康の肩を叩くと、片言の漢語で答える。
「心配するな。この冀城を始め、漢陽の民はこれより我が民になる。疎かにはせぬ」
拱手礼の格好のまま腰を折って頭を下げている韋康を素通りすると、城門の方へと歩き出す馬超。安堵の溜息を吐いた韋康が顔を上げると、目の前にいた将が槍の切っ先を突き出し、韋康の胸を貫いた。城門の周囲にいた涼州兵や、城壁の上から様子を見守っていた役人たちが驚きの声を上げる。
韋康を突いた将は表情を変える事もなく無言で槍を引き抜いた。
傷ついた肺から昇ってきた血を口から吐きながら、韋康は振り返り馬超を指さす。
「
何かを言おうとするも、もはや声が出ない韋康はそのまま倒れ伏し、黄白色の砂に血だまりを広げて絶命した。
その様子を肩越しに見つめていた馬超は、口元に笑みを浮かべていた。
役人たちは口々に、嘘つき、卑怯者との罵声を馬超に浴びせたが、馬超は余裕を崩さぬままに言い放つ。
「誰も殺さぬと言ったが、殺させぬとは言っておらん。刺史を生かしておいても良かったが、
張師君とは、
この件によって劉璋とは冷戦状態となるが、漢中における張魯は民生に力を注いで善政を布いた。これにより朝廷としても迂闊に手が出せなくなり、
しかし先年に
つまり張魯は曹操から明確に宣戦布告を受けていると言えた。
張魯の支配する漢中と、曹操の軍が駐留する長安のある関中の間には険しい
この時点で既に馬超軍と張魯軍は同盟を結んでおり、張魯配下の
血にまみれて倒れ伏した韋康の亡骸を尻目に呵々大笑する馬超に対し、城壁の上から怨嗟の視線を向ける趙昂。怒りに震えるその肩を楊阜が抑えて首を振った。
「今は耐えるのだ、
こうして八カ月間に及ぶ籠城戦は終わり、冀城は馬超の手に落ちた。
漢陽郡の実質的な支配者になった馬超の下に、冀城に残った将兵・役人たちは帰順する事になったのである。
その多くの者が、嘗胆の志を胸に秘めて。
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