第十六集 心の楔

 翌朝、藍田らんでんに対する食糧搬入交渉が開始された。

 実際に籠城している賊軍側の食糧は枯渇し始めていて、喉から手が出るほど欲しいのは確実だった。


 初めの内、賊軍は城門で配下の者が受け取ると強く言っていたが、条件が丸腰の若い娘だけと提示すると反応が変わり、中まで搬入させろと言ってくる。露骨な劣情に呆れかえるも、それこそ張郃ちょうこう緑風子りょくふうしの狙い目であった。


 交渉は簡単に成立し、その日の内に搬入が開始された。まだ陽の高い午後の事である。青空にはまばらに雲が浮かび、風も穏やかだ。

 暖かい陽光に照らされて、食糧を乗せた荷車を若い娘たちが掛け声を上げながら藍田の城門へと押していく。


 折りからの飢饉と略奪が重なり、村の所有していた牛馬の類は食肉用に潰されてしまっている為、人の手で運ばなくてはならない。だ。


 趙英ちょうえいはと言えば、他の村娘と変わらぬ曲裾深衣きょくきょしんい(上下が繋がった厚手の着流し)と薄めの化粧のみに抑え、先頭の荷車を引いている。

 城門を入ろうとした所で女装を疑われるも、趙英の声自体は一般的な女性の声域から外れる物でもない為、農作業ばかりで筋肉がついてしまってと、女性的な喋り方で苦笑して見せると番兵もすぐに納得して無事に通された。

 その様子を軍営の中から遠目に見ていた呼狐澹ここたんは、会話の内容を想像して肩を震わせる。


 荷車を押す娘たちの周りに賊兵たちの何人かが近づいて、下心丸出しで手伝いを申し出る場面もあった。


 そうして十台ほど荷車が藍田の城内に入ると、城門が固く閉じられた。


 荷車が城内の中央通りに行列を成して奥の政庁へと向かう。藍田はそれほどの大都市ではない為、四方の城壁からも政庁はよく見え、叫べば声も充分に届く範囲だ。


 政庁から鎧を着こんだ将軍らしき男が歩いてくる。周囲の兵たちとの会話に聞き耳を立てると、それが総大将の梁興りょうこうである事に間違いはなかった。幸いな事に梁興の腰には、直剣がかれている。


 まだ陽が高く政庁の外に姿を晒していて、他の兵たちの今が好機。下手に長引かせると他の娘たちに累が及ぶ可能性もある。趙英はすぐに行動を起こす事にした。


 趙英は梁興の前に進み出ると、拱手きょうしゅをして片膝をつく。


「お約束の兵糧をお持ちいたしました」

「うむ、よく来てくれた」


 梁興はそう言って上機嫌で進み出た。その瞬間に趙英は即座に動く。片膝をついた低姿勢のまま梁興の腰にある直剣をすり取り背後に回ると、すぐ後ろに控えていた二人の兵士に発勁はっけいを打ち込み、梁興の首に剣を当てる。


 周囲の者の目には、跪いていた女が消えたと思った瞬間、背後の兵士が左右に吹き飛び、気が付けば梁興の首に剣を当てていたという光景に見えた。

 よく研がれた直剣の刃が梁興の首筋に押し当てられ血が滲む。


「全員動くな! 動けば大将の首が飛ぶぞ!」


 よく通る声が響き渡った。それは城門の上の兵士は元より、外で控えている官軍の陣営にも聞こえた。

 城門の外を警戒していた弓兵が振り返り、状況に困惑している。その様子を見て取った夏侯淵かこうえんも思わず笑みを零す。


 ここで最も恐れていた事は、梁興が自分の命を顧みない事であったが、それは杞憂であった。部下が武器を構えると、梁興は焦った様子でそれを制止したのである。


「部下に武器を捨てさせろ」


 趙英は梁興に耳打ちした。梁興は呼吸を荒げて趙英に問う。


「投降すれば、殺さないと保証できるか……?」

「約束しよう」


 その趙英の言葉を聞いて、部下に武器を捨てるように指示する梁興。賊軍の兵たちは互いに顔を見合わせた後、渋々といった感じで次々に武器を捨てていく。


 最後尾の荷車に控えていた村娘たちが、得意顔で門番を押し退けると、藍田の城門が開かれた。その後は官軍の兵士たちが雪崩れ込み、賊軍は全員捕縛されたのである。



 後ろ手に縛られた数百人の賊軍が、夏侯淵ら官軍の将の前に引き立てられた。趙英、緑風子、呼狐澹もその後ろに控えている。


 賊軍は大人しく投降した為、沙汰を待って官軍に編入されるだろうと思われた。夏侯淵もそのつもりで話を進めたのだが、間もなく風向きが変わる事態が起きる。


 人質にされた藍田の民衆を保護した所、何十人分もの死体が発見されたのである。また生存はしているものの、無理やり衣服を破かれて手籠めにされたと思しき若い娘も大勢保護された。切り刻まれた男たちの死体は、それを止めようとして殺害されたものと容易に推測ができた。


 後世の感覚としても、強姦による肉体的、精神的苦痛は取り返しがつかぬ物だと理解できるが、儒教倫理の強い社会で女性の貞操はそれ以上の意味を持つ。例え本人に責任がなくとも嫁の貰い手が無くなる事が常であり、それこそ趙英の母・王異が常々言っているように、体を汚されるぐらいなら舌を噛んで死んだ方がマシであると考える女性も多い時代なのだ。

 実際に、手籠めにされたと思しき娘たちの過半数は自死を選んだと見え、死体で発見された。


 それが伝わった時、参加した村娘たちを始め、見守っていた周囲の村の者たちは怒りに打ち震え、殺せと言う声が次々に沸き起こる。梁興はその声に怯え、震えながら命乞いをした。


「おい、助けてくれるんだよな……? そう約束したから投降したんだぞ……?」


 梁興の視線は趙英に向けられていた。約束したのは趙英自身であったからだ。だが趙英は否定も肯定も出来ず、ただ沈黙するだけであった。

 夏侯淵は冷たい視線を梁興に向け、静かに言い放つ。


「そもそもお前らには、最初からそんな要求をする資格なんて無かったわけだ……」


 歯軋りをして怒りを露わにした梁興が怨嗟の声を上げる。


「この嘘つきめが! やはり曹操軍は殺戮者の集団……!」


 その叫びが言い終る前に、夏侯淵が手にしていた大刀を薙ぎ払った。憎悪に歪んだままの梁興の首がゴロゴロと地面に転がる。

 その場にいる者が静まり返った中、夏侯淵は静かに言い放つ。


「全員、首を落とせ」


 縛られたままの賊軍の兵たちが命乞いの悲鳴を上げながら、次々に殺されていく。


 趙英は苦虫を噛み潰したように表情を歪めると、その場を離れ軍営の後ろへと向かった。緑風子と呼狐澹は声をかける事も出来ず、その背中を見送った。


「どうしたのかな……、慧玉けいぎょくは」


 呼狐澹の純粋な問いに、緑風子が静かに答える。


「今はそっとしておいてやろう」

「でもこれで、城に援軍を送れるよね」


 既に頭を切り替えて笑みを零す呼狐澹に、緑風子は悲しげに微笑み返した。



 趙英は天幕テントの中に入ると、無言のまま深衣を脱ぎ、それを感情のままに投げつけた。着慣れた服に着替えようとするも、頭の中で梁興の声が響き続け、手が止まってしまう。


 夏侯淵の判断は正しいと頭では理解していた。あのまま賊軍をゆるして官軍に編入などすれば、それこそ民心が離れてしまう事は目に見えている。

 また感情論としても賊軍の行為を許す事は出来ない。

 それでも命は保証すると約束して投降させたのは事実である。


 梁興が叫んだ嘘つきという言葉が、趙英の脳内で響き続けていた。





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