第4話


 疲労からか、歩調はずいぶんゆっくりとなっている。いつの間にか二人は闇の中、肩を並べて歩いていた。


「…貴女の名を、聞いてもいいですか?」


 静けさの中で漏れたのは、枯れ草の踏み鳴らされる音よりも小さな若者の声。


 クスっと笑って女は「お密だよ」と答えた。


「ではお密さんとお呼びしても?」

「構わないよ。…お前さんは?」

「僕は吉雅と、今は名乗っています。」

「…そう。」


 お密の声は、既にハリが失われつつある。

 道なき道を歩き続けることは、若くないお密には体力の消耗があまりにも激しすぎた。


 それに気がつき、吉雅は足を止める。

 するとお密は崩れるようにその場に膝をついた。

 おそらくもう、前には進めない。


「ここまでだね。ここまででいいよ。ありがとう」


 気管をヒューヒュー鳴らしながら、荒い息でお密は言う。吉雅は膝を折り、お密の背に手を当てて、何度か擦った。


「お密さん、できることなら最後まで、お供させてもらえませんか?」

「……どうだろう、無理じゃないかね。」


 お密は静かに笑う。


 それでも吉雅はお密の背を優しく熱い手で擦り続け、そして、


「…僕の手も、穢れているんです。貴女よりも遥かに赤く、」


 苦しく絞り出すように言った。


「知ってるよ。お前さんは、罪人の首を落とす、処刑人だろ?」

「………。はい。やはり、貴女は、」

「誰もが忌み嫌う仕事に従事するってのは、相当な胆力がないとできないよ。…アタシは、凄いことだと思うよ。」


 お密の紡ぐ言葉に、吉雅は虚を突かれたのか目を丸めた。


「大変な仕事だよ。…そう、すごい仕事さ。」


 吉雅が言葉を失ったことをいいことに、お密はクスクス笑いながら楽しそうに何やら夢想する。

 そして、


「そうだ。ならお前さん、アタシが捕まったら、お前さんがアタシの首を、跳ねてくれないか?」

「!」


 お密の背に当てていた、吉雅の手が止まる。

 止まった瞬間に震えた。それをお密は背中で確かに感じる。だから、それ以上語を連ねるのを止めた。


「な、何を言うのですか。そんな、馬鹿なこと、…そんな、そんなことができるはずがなかろう!」


 吉雅は、丸まったお密の背に向けて、泣きそうな顔で初めて声を荒げた。


 お密は俯いてそっと微笑む。


「これはね、今思い付いたアタシの夢なんだよ。」


 今思い付いた、と言いながら、お密はおそらく長い間夢想していた希望がある。吉雅にはそれがわかり、だからこそ、口を紡いだ。


「これからの世の中が、どうなっていくかなんてのは、アタシにはわからない。けど、いついかなる世になろうともさ、女が男に勝る日なんて、そうは来ないよ。三歩下がって、虐げられる毎日だろうさ。」

「………」

「だから、せめて男どもの、その最たる長である将軍様や、お武家様たちに献上する刀がさ、アタシみたいな、下賎の女の血を吸った刀だったとしたらさ、なんとまあ滑稽だ。それを奴らが腰に指すのを想像してごらんよ。…胸が、踊るだろ?」


 お蜜は切れ切れの息の合間で、愉快そうに声を立てて笑う。

 だが吉雅は、お密の見えない位置でみるみる顔を歪めて言った。


「…試し斬りに使われる骸に、貴女はなりたいのですか…?」

「ああ。」


 お密はきっぱり言い切った。

 それが吉雅には酷く辛かった。


「どうして!生きて復讐を果たす機会を伺う選択だってあるかもしれないじゃないですか!」

「誰にだい。男どもにかい?アタシだって、うつけじゃない。かといって、死を望んでいるわけではないよ。けどさ、アタシ一人で、何ができると言うんだ。何を成せるっていうのさ、」

「しかし!」

「無学で、手に職もない。アタシはね、何も持たないんだよ。ならせめて、アタシの不浄で汚した刀が、お上に献上されることで、溜飲を下げたいじゃないか。」

「………」

「愚かなことを話している自覚はあるんだよ。けどね、命の期限が見えてきたんだ。愚かなうつけになったって、バチは当たらないんじゃないか?」

「…けど、」

「仏様がね、こうしてアンタに、出会わせてくれたんだ。アタシは、それはとてもありがたいことだと、思っているんだよ。」


 そしてお密はゆっくりと両手を合わせた。


「だから、お前さんは何一つ負い目を感じることなく、お役目を全うしなさいな。それが吉雅様、貴方の、仕事だから。」

「………!」


 吉雅はこの時はじめて、お密が吉雅の心の淀を全て掬って浄土へと渡ろうとしていることを悟った。



「嫌だ!それでも僕は、貴女には生きていてもらいたい!共に逃げましょう!」


 吉雅はお密の腕を掴むと、強く引き寄せ抱き締めた。その吉雅の腕に抗うことなく、お密は吉雅の胸に顔を埋めた。


「若いね。心の臓が、はち切れそうだよ。」


 お密の言葉からはおどけた様子など垣間見えなかった。だからこそ、吉雅は強く奥歯を噛み締める。


「これで十分だよ。十分だ。ありがとう。」


 そしてお密はそっと両手に力を込めて、吉雅からその身を引き離した。


 

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