17.エピローグ
歌舞伎町の雑居ビル三階に入っている雀荘『紅一点』。
平日の昼。
閑古鳥の鳴いている時間帯に、店長である一色勘九朗は一人の客を出迎えた。
「勝負しようぜ、一色勘九朗さん」
そう言ってやってきた鯨波雫の姿を見て、勘九朗は嫌そうな顔を隠しもせずに言った。
「帰れ。うちの店はお触り禁止の健全な店だ。よそを当たれ」
「さわんねーって。さきっちょだけ、さきっちょだけだから!」
「若い女がさきっちょとか言ってんじゃねぇ。てめぇいい加減にしろよ、クソ」
適当なことを言って追い払おうとしたら、同レベルの下ネタで返された。若い女にそれをされると、年を食ったオヤジとしては立つ瀬がない。
げんなりしながら、勘九朗は吐き捨てるように言った。
「そういう人を喰ったようなとこ、本当にあいつにそっくりだよ、クソが。まあ、バレちまってるのは分かってたから、いつかこんな日が来るとは思ってたがな」
鯨波が一色勘九朗の正体に気づいたことはすぐに分かったので、勘九朗は出来る限り彼女の情報を集めていた。
結果として、彼女が何者なのかも知っている。
その事実に苦々しいものを抱きながら、勘九朗は言う。
「勝負ったって、賭けるものなんざ無いぞ。昔ならいざしらず、今の俺はしがない雀荘の店長だ。金もなけりゃ、プライドだって犬に食わせる程度のもんしか残っちゃいない。そんな引退したやつと戦ったって、面白くともなんとも無いだろ」
「無理に勝負しようとは思っちゃいねぇよ。ただ、アンタに教えて欲しいことがあるんだ」
「教えてほしいこと?」
「アンタの姪っ子、一色雅についてさ」
みやびの名前が出た瞬間、勘九朗はギロリと睨んだ。
「みやびに何をする気だ? 言っておくが、あの子を危ない目にあわせるなら容赦はしないぞ」
いきり立つ勘九朗を前に、鯨波は嬉しそうに答える。
「その提案は魅力的だが、あいにく今の所はそのつもりはねーよ。それより、危ない目ならこないだあってたぞ。あいつ、六億の借金背負ってルーレットやってたんだけど、知らないのか?」
「………………あの馬鹿娘は」
勘九朗は頭を抱えた。
どうやら本気で知らなかったらし。あからさまに気落ちしている勘九朗の姿に、鯨波は「あー」と困ったように頬を掻く。
「アンタに聞きたいっつーのは、その勝負に関わることなんだけどよ。そもそもあたし、まだ一色ちゃんのことあんまり知らねぇんだよな。なんで一色ちゃんが、あそこまで今邑環季に執着してたのかが分からん。だから、親族なら分かるかなって思って話を聞きに来たんだよ」
そもそもよ、と。
鯨波は小首をかしげながら尋ねた。
「どうしてあいつは、アンタに引き取られたんだ? 伯父に育てられたっつー話は本人から聞いたんだけどよ。実の両親の話なんかは聞かせてもらえなかったんだ」
「本人が言わないことを、俺の口から語ると思うのか?」
「はは、だから勝負しようって言ったんじゃねぇか」
鯨波の言葉に、勘九朗は目を細める。
長いこと一線から退いているため勝負の勘は鈍ってきているが、そんな今の勘九朗でも、この鯨波という女が危険であることは察することが出来た。
世の中には、常識では測れないネジの外れた人間が存在する。この鯨波雫という女もそのたぐいだろう。
こいつを野放しにするのは得策ではない。
ならば、背に腹は代えられない。
「一回だけ勝負をしてやる。その代わり、みやびがやったというルーレット勝負について話をきかせろ。それが、勝負に乗る条件だ」
「あいよ。それで、あたしが勝ったら一色ちゃんの過去について話してもらうけど、アンタが勝ったらあたしは何をすればいい?」
「何も聞かずに店を出ろ」
勘九朗は自動卓の電源をつけて、麻雀牌をセットする。
そして、牌を一枚ツモる。
表にされた牌は、
「ルールは簡単だ。山から一枚ずつツモって、先に四面子一雀頭の和了系を作り上げた方が勝ち。役や点数などは関係ない。純粋に和了系を作り上げる勝負だ。捨て牌はなしで、必然的にポンチーなどの鳴きは無しになる。ツモった牌の中で、十四枚選んで和了系ができればいい」
「シンプルでいいね。そういうのは好きだぜ」
言いながら、鯨波は山の中ほどから牌をツモる。
牌を弄びながら、鯨波はニヤニヤ笑って言う。
「山からツモるんなら、どこから取っても良いってことだよな?」
「ああ。問題ない」
勘九朗はそのまま続けてもう一枚ツモる。
「どこからツモろうと問題はない。今言った以上のルールはない。どんな屁理屈でも考えつくのなら言っていいぞ。それで勝てるのならな」
ま、無駄だろうがな。
そう言いながら、勘九朗は鯨波の晩を待たずに、無造作に残り十二枚をツモった。
一萬三枚、二萬から八萬まで一枚ずつ、そして、九萬が三枚。最後に、一萬をもう一枚ツモってきて、
「俺は最短十四回だ。さあ、どうする? 俺がみやびの過去を話すという約束は、お前が勝った時の話だ。一度でもムダヅモすればお前の負け。そうでなくても、もはやお前が勝つことはない。どうあがいても引き分けにしかならないからな」
「は――はは!」
勘九朗の挑発に、鯨波は愉快そうに哄笑を上げた。
「それでこそ、七星研吾を倒した一色勘九朗だ!」
十分後。
鯨波は『紅一点』を去っていった。
あとに残された勘九朗は、つまらなそうに鼻を鳴らして椅子に座り込んだ。
雀卓に並べられた純正九蓮宝燈を見る。萬子の牌には、右角に僅かな傷あり、それを頼りに勘九朗は四面子一雀頭を揃えた。これは先日遊びに来た旧友、ガン牌の
店の備品になんてことしやがると思いながらも、都合よく利用させてもらったのだった。
ついで、勘九朗はその正面に揃えられた和了系を見る。
「……ふん。化け物め」
一度のムダヅモもなく、十四枚で完成したダブル役満。
鯨波雫は、卓上の山から的確に索子と發を選び出し、勘九朗に見せつけるようにその和了系を作り上げた。
「索子に付けられたガンは、側面に薄く塗った糊だったか。しかし、發はわからないな。まあ、考えるだけ無駄か」
人外レベルの視点など、考察した所で無意味だと勘九朗は知っている。
そう言った連中とは戦うべきではないし、仮に戦う必要が出てきたとしても、正面から打ち破る必要はない。搦め手、不意打ち、奇襲――相手の土俵で戦わず、ルールで縛って人間的な部分をしつこく追求するのが、凡人に許された戦い方だ。
「しかし、みーちゃんめ。とんでもないやつに目をつけられたな」
苦々しく思いながら、先程聞いたルーレット勝負に思いを馳せる。
今回はたまたま上手く事が運んだようだが、鯨波から聞かされたみやびの策は捨て身でぶつかっていく博奕でしかない。
勝てたのは交通事故のようなもので、二度目はない。もし今後も同じことをするようなら、そう遠くない未来、みやびは身も心も破滅することだろう。
最も、勘九朗にはそれを止める筋合いはない。
勘九朗自身が、昔は同じような博奕ばかりを打っていたのだから。
「とはいえ、なんとかするべきではあるな。常識的な金額で打ってくれるうちは良いが、億を超えるとさすがに手に余る。億、億か……」
博奕における賭け金は、桁が一つ上がるごとに勝負の性質が大きく変わる。百万なら生活がかかり、一千万なら人生がかかり、一億なら他人を巻き込む。ギャンブルに置いて常勝はありえない以上、大勝負をする時に必要なのは勝負勘などではなく、どれだけ保険があるかだ。
かつて身一つで命を削るようなギャンブルをしてきたからこそ、自分以外の所で保険があることの重要性は嫌というほど理解している。
「……金、稼いどくか」
今では姪の方が高収入であるし、何よりすでに成人して手元を離れている子に対して、過保護だとは思うが――そこで見捨てられないのが、一色勘九朗の甘いところだった。
そもそも、十五年前にみやびを引き取ったのも、見捨てることが出来なかったからだ。
「ふん。どこにでもあるような、面白みもない話だ」
鯨波はみやびの過去を知りたがったが、そんなものは語るまでもない。
誰かに依存しないと生きていけない女が居た。
その女は男に何度も捨てられながら、ある時、子どもを生んでしまったのだ。人の親としてまともな感性も持たず、生きながらにして破滅しているような人生を歩む女が、子どもなどまともに育てられるはずもない。
その女というのが勘九朗の妹であったというだけの話。
身内の恥を好き好んで語ることはないし、同時にみやびも、自分で語ろうとはしないだろう。不幸な過去というものは、口にした時点で自分を被害者に固定し、幸せであることを放棄してしまう。
姪の幸せを願う育ての親としては、勘弁願いたいものだった。
※ ※ ※
四月。
季節は春になって、新しい生活が始まる月となった。
私は平日の真昼間から、女子中学生のわがままに付き合っていた。
「ねえ胡桃ちゃん。私はいくらでもおごるって言ったし、これくらいは借りたお金に比べたら大したこと無いのは分かってるけど、それでも言わせて。これ、全部食べきれるの?」
目の前に並んでいるのは、ケーキバイキングかと見紛うほどの多種多様なケーキたちだった。ホイップクリームが白く輝き、ふんだんに使われたフルーツ類が存在感を主張してくる。一つ一つは非常に美味しそうだが、この物量が並ぶと食べる前から満腹感を覚えてしまう。
私の質問に、胡桃ちゃんは「え、何言ってるんです」と小首をかしげて言う。
「僕が食べきれなかった分はみやびさんが食べるんだよ。全部少しずつ食べたかったから、あと残りはよろしくね、みやびお姉ちゃん」
「なんて意地汚い……」
ちなみにここはケーキバイキングなどではなく、都内の有名洋菓子店である。この耶雲胡桃という男装少女は、なんとお店のショーケースの前で、「右から左、全部一個ずつ」を実行しやがったのだ。おかげで今、私達の前には三十個近くのケーキが並んでいる。
まだ一口も食べていないのに吐き気を覚えながら、私は今からでも持ち帰り用の箱をもらえないか考え始めた。
「っていうか、おわびに奢るとは言ったけど、そもそも胡桃ちゃん、学校は大丈夫なの? 新学期でしょ。教室に行かないと浮いちゃうよ」
「大丈夫だよ、もう浮いてるから」
そりゃあそうだろうが。
男子の制服を来た女子中学生が、浮かない理由はないが。
何が大丈夫かはわからないけれど、まあ本人が言うならそれ以上追求するまい。私にした所で、学生時代を真面目に過ごしたとは言い難いので、人のことを言えた口でない。
説得を諦めた私は、仕方なくケーキの山に取り掛かる。
二人して黙々とケーキを食べていると、不意に胡桃ちゃんが口を開いた。
「それにしても、よく生き残ったよね。お金を貸すってなった時、あ、これは多分戻ってこないなって覚悟してたもん」
「……まあ、それは自分でも思ってるよ」
カジノ『モノクローム』での対決から、一ヶ月が経っていた。
胡桃ちゃんにはお金も借りた負い目もあるので、私がどういう勝負をしたのかを聞かせていた。
本来なら女子中学生に教えるようなことではないけれども、この耶雲胡桃という少女はとにかく達観しているので、常軌を逸したギャンブル勝負の話も自然体で受け入れた。
「お金はこの間、勝ち金と一緒に口座に戻ってたよ。送金相手が『クジラナミ シズク』って人になってたのだけが気になったけど、あれ何? 新しい女?」
「いや、登場だけで言えば胡桃ちゃんより先なんだけど……。ねえ、私が女の人の名前出すと噛み付いてくるのやめてくれない? そういうんじゃないから。私、ノンケなんだけど」
「そういう人に限って素質があるんだよ」
「何の素質だよ……」
送金主が鯨波になっていたのは、送金する額が大きすぎたので、一時的に彼女の当座預金口座を利用させてもらったからだった。
勝負するためにお金を借りた時は、胡桃ちゃんから私の口座に直接お金を送ってもらっていたけれど、現金化するのにかなり手間取ってしまったのだ。最終的には櫻庭さんに頼み込んでヤクザの闇の力を使ってもらったけど、基本的に一千万を超える金額の現金化は、日常生活では不審に思われるのであまりするべきじゃない。
今回の勝負で、鯨波は小切手を勝負のテーブルに置いていたので、当座預金の口座を持っていることが分かった。当座預金は普通預金と違って大金を動かすのに適しているので、せっかくならとそれを利用させてもらった。無論、その分の手数料は取られたけれども。
胡桃ちゃんの口座に送ったのは、借りた四千万に利息として五割増で、六千万円。
「勝ち金をあまり上乗せできなくてごめんね。あと、多分贈与税かかるから気を付けて」
「大丈夫だよ。そういうの慣れてるから」
なんてこと無いように言う女子中学生。一千万単位のやり取りに慣れてるって、ほんとこの子は何者なんだろう。お金を借りる時も、胡桃ちゃんならポーカーの実力的にそれなりに蓄えがあるだろうと思って話を振ったけれど、まさか四千万も借りられるとは思ってなかったのでびっくりしたのだった。
バーチャルアイドル・霧雨ナツ。
ポーカープレイヤー・耶雲胡桃。
そして、違法なハッキング技術。
それらを組み合わせた結果として、一千万単位の資産を蓄えているのは納得だけど、それをこの年齢でやっているというのが怖い話だった。
「それで、結局いくら勝ったの? カジノ潰すくらい勝ったんでしょ」
「うん。最後は十三億五千万の勝ち。最後の賭け金を抜くと九億円勝ったことになるね。その前に三億五千万負けてるから、カジノ側が純粋に払ったのは五億五千万円だけど」
「おお。それはすごい」
パチパチと胡桃ちゃんは手を叩く。
そんな彼女に、私は十三億五千万円のその後を話す。
「まず胡桃ちゃんに利子込みで六千万返して、黒井先生には利子無しで四千万を返済して」
「うんうん」
「赤津組には、无影からの手付金五千万と、賭け金一億、そして勝ちの分け前として二億で、諸々合わせて三億五千万円」
「んー」
「あとは櫻庭さんには、事前に借りた五千万と最後に借りた二億五千万に、利子五千万と事後処理の手数料一億を加えて、合計四億五千万円」
「…………」
「そして、最後の賭けに乗ってくれた鯨波さんには、賭け金に対して倍額の配当で許してもらって、四億を返したんだ」
「……あれ、五千万しか残ってなくない?」
「うん。そう」
私はこの勝負に当たって、自分の財産から六千万を手出ししているので、何だったら一千万の赤字だった。
もしこれで鯨波に三倍配当の分け前をすべてよこせと言われていたら、私は破産していた。
億を超える金額を賭けて命がけの殺し合いをして、結果として一千万のマイナスという辺りが、私のギャンブラーとしての身の程を示しているようで複雑な気持ちだった。
「まあでも、相手のカジノはバッチリ潰したんでしょ」
「うん。さすがに五億五千の損失は、无影としては見逃せなかったみたいでね。それを察したのか、新藤は環季ちゃんが負けた瞬間、その場から逃げ出した」
「ふぅん。じゃあ、その新藤って人は行方不明?」
「行方不明はそうだけど、どうも外で赤津組の人に捕まったらしいよ。若頭の人が、外で勝負が終わるのを待ち構えていたんだって」
浅黄毅彦という若頭は、勝負の結果がどうなろうと、新藤を拉致する気でいたらしい。考えてみれば当たり前の話で、赤津組からすれば、今まで探していた新藤の居所が知れただけでも十分だったのだ。
そもそもの話、櫻庭さんは无影の幹部である黎道龍と密約をかわしていたようだった。その内容は、勝負の場をセッティングする代わりに、勝っても負けても新藤の身柄は赤津組が引き取るというものだった。
「は? それじゃあ、みやびさんが勝負する必要なかったんじゃない?」
「まあ、そうなんだよね」
建前上は、勝負を成立させるための代打ちが必要だったというのと、无影側が新藤をかばえなくするために勝つ必要があったという理由はあるけれど、仮に私が負けた場合でも新藤にだけは落とし前を付けられるようにしていた所が、さすがはヤクザという感じだった。最も、負けた時は私も同じ目に合っていただろうから、本当に勝ててよかったと思う。
「あとは――環季ちゃんだけど」
「ルーレットディーラーだよね。その人は、何の落とし前もなし?」
「……危ないところではあったよ」
そもそも、新藤が赤津組を裏切ろうと思ったきっかけは、无影からの誘い以前に、環季ちゃんのルーレット技術があったからだ。
ある意味では元凶とも言える彼女を、ヤクザたちが放っておくわけもなかったけれど――
「櫻庭さんに払った事後処理の手数料一億だけど、それは環季ちゃんを見逃してもらうためのものだったんだよ」
「それはまた、お人好しだね。みやびお姉ちゃん」
お人好しというか、ケジメのようなつもりだった。
もともと私の目的は、環季ちゃんを救いたいというものだった。その利己的なわがままで、億を超える勝負をして、色んな人間を巻き込んだ。その上、救うべき環季ちゃん自身を手ひどく傷つけたのだ。そこまでしておいて、環季ちゃんを救えなかったでは済まない。
一億は、人を破滅させることの出来る金額だが、同時に人を救うことも出来る金額だ。
私は櫻庭さんに頭を下げて、環季ちゃんの身の安全を請うた。
環季ちゃんは都内の別の場所に引っ越しをして、新しい仕事を見つけて、今はひっそりと暮らしている。彼女の交友関係は新藤を中心としたものだったから、それを断ち切ればカタギの生活に戻れるだろうと言うのが、櫻庭さんの話だった。
「顔を変えたり名前を変えたりしなくて済んだだけでも、良かったと思うよ。まあでも、二度と闇カジノで働くことは許されないだろうけど」
「それは別に悪いことじゃないでしょ。そもそも、違法な場に出入りしているから今回みたいな痛い目にあうんだし。それはみやびさんも同じだけど」
「ははは、違法行為を繰り返しているハッカーが何を言っておる」
まあでも、胡桃ちゃんの言うとおりだ。
今回のことで私もさすがに凝りた。今までも危ない目にあうことは何度かあったけれど、今回みたいに自分から巻き込まれに行ったのは初めてだった。巻き込まれただけなら被害者ヅラ出来るけど、自分から勝負に行った時は、引き際を誤るとたやすく破滅する。
何事も、損切りが大事というわけだ。
「――と、ごめん。胡桃ちゃん。私そろそろ時間だわ」
「ん? 今日はお仕事休みって言ってなかったっけ」
「仕事じゃなくて、病院の予約の時間。診察終わったら戻ってくるから、余ったケーキはお店の人に預けといて」
「それは良いけど、どしたの。どこか悪いの?」
「ちょっと胃が痛くて……」
これも後遺症だ。
人体というのは一度バグったら中々治らないらしく、勝負から一ヶ月も経つというのに、未だに胃酸がドバドバと分泌されている。そろそろ処方された薬が切れたので、新しく貰いに行きたいのだった。こうなると、もはやスリルがどうとか言っていられない状況だった。
「そりゃまた、若いのに胃痛もちなんてご愁傷さま。お大事に」
苦笑いする胡桃ちゃんは、最後にこう言った。
「ねえ、みやびお姉ちゃん」
「何かね、可愛い妹ちゃん」
「みやびさんが今回、今邑環季って人を助けたようにさ。もしも僕が助けを求めたら、同じように助けてくれる?」
「私には、君がピンチになる時は想像できないけど……」
でもまあ、そうだな。
こんな思いは二度とゴメンではあるけど――
「困った時は相談なさいな。今回胡桃ちゃんがお金を貸してくれたように、私も胡桃ちゃんの力になってあげるから」
「そっか」
なら良かった、と。
胡桃ちゃんはニコリと笑って、見送ってくれた。
※ ※ ※
通院して薬を処方してもらった後、私はケーキショップで胡桃ちゃんの残り物を回収し、それらをクール便で発送した後、新しいケーキを一切れだけ買って、ある場所に向かった。
一ヶ月前のあの日。
私は環季ちゃんと、殺し合いをした。
片方がお金をかけ、片方が出目を当てる。勝負としてはただそれだけのものだ。
殴り合ったり斬り合ったりするようなものではない。
けれど、あれは確かに殺し合いだった。
今邑環季というルーレットディーラーを倒すために、私は持てる全てをぶつけた。途方も無い金額を積み上げ、言葉や仕草で環季ちゃんの精神を揺さぶって、正常な判断ができない状態にまで追い込んだ。
それでも、勝負の結果を分けたのは、非常に物理的なことだった。
「……ま、あれだけウィールが汚れれば、結果は歪むよね」
私の嘔吐物か、あるいは環季ちゃんの血か。
そのどちらが命運を分けたかわからないけど、飛び散った体液で汚れたウィールは、精密性に欠けていた。
ルーレットは精密機器なので、そうした些細な変化で結果はたやすく歪む。普段の環季ちゃんであれば、その歪みすらも把握した上でボールを投げるだろうけれど、あそこまで精神的に追い詰められた彼女では、そこまで掌握し切るのは難しかったのだろう。
ちなみに、私は吐く時にウィールにも飛び散るように努力したし、水をしこたま飲んだ上に、吐き気を促進する催吐薬を服用して勝負に臨んでいた。もっとも、途中から本当に胃が痛くなったし、吐く時はそれどころじゃなかったのだけれど。
だからまあ、どちらかと言えば、額を傷つけた環季ちゃんの出血の方が、ウィールを汚した要因としては大きかったように思う。
「……そこまでしても、緑0の隣に落とすんだから、ほんと化け物だよね」
環季ちゃんが最後に落とした黒2は、実は緑0の隣である。あとわずかにズレたら私の人生は終わっていたので、空恐ろしい限りだった。
ちなみに、鯨波が最後の勝負に乗ってくれたのも、ウィールの汚れが決め手だったそうだ。つまりは、勝ち目が見えた――と言うわけである。
勝負の後。
事後処理をしながら鯨波は私に言った。
「期待以上だぜ、一色ちゃん。あたしには、あの今邑環季のルーレットは攻略できなかった。それをアンタは、勝ちが拾えるまで追い詰めたんだ。誇っていい」
「……ゲロまみれのみっともない姿で勝ったのを褒められても、嬉しかないですよ」
「何言ってんだ。勝負で必死になるのは、恥ずかしいことじゃねぇよ」
カラッとした笑い声を上げてから、鯨波はニヤリと口角を上げた。
それは、あまりにも挑戦的な笑みだった。
「改めて思ったよ。いつかアンタと、真剣勝負をしてみたいってな」
「……私はゴメンですよ。鯨波さん」
真剣勝負でしんどい思いをするのは一度で十分だ。
私にとってギャンブルは、あくまで遊びなのだ。
大金をかけて、肉体も精神も削るような命がけの博奕など、二度とゴメンだ。
私の本音を聞いてもなお、鯨波は愉快そうだった。
「ククク、そういう所、やっぱり一色勘九朗の親族だな。よく似てるぜ、あんたら。だったらまあ、仕方ねぇや。一色ちゃんがその気になる時を、気長に待つとするさ。なあに、あたしは我慢強いんだ。特に、勝ち目がある勝負をするときはな」
鯨波とは結局、連絡先一つ交換していない。
今でも彼女は、毎週金曜日にカフェ『アンバー』に通っているはずだ。もし会いたくなったらそこに行けばいいし、用がなければ行かなければいい。鯨波と私の関係は、そういうものだ。
知り合い以上、友だち未満。
けれど――あまり敵にはなりたくないなと、そう思った。
「えっと、確かこのお店だったよね」
私は秋葉原駅で降りると、電気街口から外に出て歩いていく。
中央通りの歩行者天国を進み、電気店やらメイドカフェやらアニメショップやら、にぎやかこの上ない街並みを眺める。
そして、地図に書かれた雑居ビルの一つに入った。
そこに入ったテナントは、近年店舗数を増やしているアミューズメントカジノ『ヘブンリー』だ。カジノゲームを遊べるカフェとして、若い世代を中心に注目を集めている。
お店に入って、料金を支払ってからチップをもらう。
アミューズメントカジノでは、チップ持ち出しは出来ないし、換金なども出来ない。あくまで店内でゲームを遊ぶための道具だ。余ったチップは預け入れをして、次回は格安で引き出せる。
チップをトレイに持ったまま、私はどのゲームを遊ぼうかと立ち止まる。
手前にはブラックジャックの台があるし、その奥ではバカラが盛り上がっている。右側では初心者講座として店員がポーカーを教えているし、定番どころは揃っているようだ。
「お客様。当店は初めてですか?」
不意に、店員の一人から声をかけられた。
私は振り返りながら、自然と微笑んで答えた。
「はい。どのゲームをしようか迷っちゃって」
「それなら、お勧めが一つありますよ」
ディーラー服を着た女性のスタッフだった。
黒髪を二つ結びのおさげにして、赤いフレームのメガネをかけた童顔の女の子。
彼女はニコリと笑うと、右手を前に出して店の奥にあるカジノゲームを紹介した。
「カジノで遊ぶなら、やはりルーレットが一番です。なにせ、ルーレットはカジノの女王って呼ばれてるんですから」
そう言って、童顔のディーラー――今邑環季は、花が咲いたような笑顔を向けた。
「今邑のルーレットで遊んでいきませんか、みやびちゃん!」
本当に、この子は人懐っこいんだから。
そこまで言われたら、断れないじゃないか。
「うん。喜んで」
私は苦笑いしながら、差し入れとして買ったケーキの箱を小さく掲げてうなずいた。
一ヶ月前、私は環季ちゃんと殺し合いをした。
札束で殴りあい、尊厳を傷つけあい、互いを心から憎み合った。
あんな思いはもう二度とゴメンだと思うけれど――あの戦いは、きっと必要なことだった。
博奕の深淵を覗きながら、常に薄氷を歩み続けていたカジノの女王。
あの日、女王はついに足を踏み外した。
完璧であることを望まれた女王は、足を踏み外してようやく気づけた。
誰かの言いなりになって、ロボットのように命令に従っていた女は、自分がどこまでも人間的であることに気づけたのだ。
葛藤があっただろう。
後悔があっただろう。
恋人に利用され、ヤクザに命を狙われ、推しのアイドルと殺し合いをした。勝負の後には恋人は居なくなり、ヤクザに身を任せることとなった。そんな彼女の内心がどんなものかなんて、想像することも出来ない。
それでも今、彼女は笑顔を振りまいている。
その笑顔が誰かに強制されたものでないことを、私はこれからも願い続ける。
だって私は、女王のファンなのだから。
EP4『正確無比なカジノの女王』END
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