第30話 培養瓶の中

 大きなガラス瓶に浮かぶ小さな子供の体を、ぼんやりと見つめる。

 あれから三日、レナロッテは手が空いた時はずっとノノの培養瓶の前に張り付いていた。

 ホリー石鹸のお陰で蛭になりかけた体は人間に戻った。包帯を巻かれた右の上腕部はまだ時折疼くけれど、抑えられないほどではない。

 すべてが森を出る前に戻った。

 戻らないのは……ノノだけだ。

 狐の尾と耳が培養液の波になびいている。ノノはこの姿が本性ではないと言っていたが、瀕死の状態でこの体になったのだから、これが一番安定したかたちなのだろう。

 抉れた腹は背骨が再生し、周りに根のような筋組織が纏わりついている。目に見える速さで、ノノの体は修復されていく。


「溺れないのかな」


 ゆるくとろみのある液体を漂う子供にぽつりと呟くと、


「今は肺呼吸ではなく、皮膚から培養液内の空気を取り込んでいる状態です。だから苦しくはありませんよ」


 いつの間にか隣に立っていたフォリウムが説明する。


 ――あの後、落ち着いてからレナロッテは魔法使いに街で何があったかを話した。


 ブルーノが異国で結婚したこと。それを知って魔物が暴走してしまったこと。そして……止めに入ったノノを攻撃してしまったこと。

 最後まで黙って聞いていたフォリウムは一言、


『つらかったですね』


 と悲しそうに微笑んで、それきりレナロッテを責めることもなかった。

 罵倒してくれれば、お前の責任だとなじってくれれば、もっと彼女は楽になれただろう。許すとも許さないとも言わず、ただ現状を受け止めるだけのフォリウムが歯痒い。


「あと数日で培養瓶から出せそうですね」


ガラス越しに傷口を確認しながら、魔法使いが顎を撫でる。


「治るのか!?」


 レナロッテは色めき立って振り返るが、


「体だけは」


 魔法使いの発言は意味深だ。


「体だけって?」


 聞き返すと、フォリウムは伏し目がちに、


「脳に酸素が行かない状態が長かったですから、目を覚まさない可能性があります」


「そんな……なにか方法はないのか?」


 すがりつく女騎士に、魔法使いは困ったようにため息をつく。


「あとは、この体をベースに脳ごと作り直すかですが……そうなると、元のノノではなくなります」


「……どういうことだ?」


「ノノの体に、別人格のノノが生まれます」


「それは……」


 今のノノが“死ぬ”ということではないか。


「いやだ。頼む、ノノを助けてくれ。お願いだ。私にできることは何でもするから!」


 泣き出したレナロッテに、フォリウムは力なく微笑む。


「こればかりは神の領域。一介の魔法使いである私にはどうすることもできません」


 感情のない声に、カッとなる。


「どうしてフォリウムはそんなに冷静なんだよ!」


 八つ当たりに叫んだレナロッテを、彼はまっすぐ見つめて、


「私が冷静に見えますか?」


「……え?」


「私の方があなたよりずっと、ノノと長く暮らしてきたんですよ」


「……っ」


 レナロッテは唇を噛んで俯いた。


「……すまない」


 全部、自分のせいなのに。

 大粒の涙を床に落とす彼女の震える肩に、魔法使いが優しく手を置いた。


「激しい感情はあなたの体にもさわります。どうか心穏やかに」


「……ああ」


 これでレナロッテが魔物になってフォリウムの心労を増やすわけにもいかない。

 大きく深呼吸して、心を整える。

 見上げる目線の先には、揺蕩たゆたう狐の子がいる。


(どうか、目を覚ましますように)


 今の女騎士には、祈ることしかできなかった。

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