第24話「この下に私の妻が眠っているものですから、新年の挨拶をしに」

 石造りの牢屋に窓はなく、空気はひんやりと冷たい。不思議なことに真っ黒な壁はカンテラに照らされてキラキラと輝いている。珍しい塗料の壁だ。

 馬車に乗っていた時間から考えて、王都に程近い場所なのだろうとサリタは考える。ならば、夜中に脱走して一晩中歩き続ければ、どこかの街や村にはたどり着くだろう。新年祭を催している場所があるかもしれない。

 そんなふうに考えて、サリタは毛布の中に潜り込んだ。夜中に行動をするならば、今は体力を温存しておかなければならない。ヘビの聖獣アンギスを撫でながら、サリタはすぐに眠りについた。


 目を覚ますと、夕食は鉄格子の近くに置いてあった。冷たくなったパンと野菜のスープだ。サリタは一瞬躊躇したものの、銀のスプーンに変色が見られなかったため口をつける。腹は減っていたのだ。

 それから夜が更けるのを待つ。染粉が取れて薄くなってきているのか、髪の色に銀色が少しずつ混じり始めている。斑のような髪色を見て、サリタは「綺麗じゃないわね」と嘆く。

 そんなふうに身なりを整えながら、邸が静まり返るのを待つ。そうして、ようやく左手首の聖獣を撫でる。


「アンギス」


 金色のヘビが眠たそうに顔を上げ、鉄格子の隙間から鍵穴へと向かう。アンギスはあっさりと解錠し、サリタの手首に戻ってくる。サリタは靴をポケットの中に入れ、木箱の板を手に、そろりそろりと足音を立てないようにして歩いていく。

 侯爵家とは思えないほどに警備が緩い。牢屋に続く階段の近辺にも、廊下にも、警備兵や傭兵は見られない。しかし、物音を立てないように注意しながら、廊下を歩いていく。

 窓の外は真っ暗だ。夜が明ける気配もない。まさかこんな形で新年を迎えるとは思っていなかった。サリタは溜め息をつく。

 そうして、サリタは一瞬だけロランドのことを考えたが、自分の身の安全のほうを優先した。彼がこの邸に閉じ込められているかどうかもわからないのだ。

 食堂にも厨房にも人はいない。サリタは厨房から外に通じる扉を開け、靴を履いて邸を抜け出した。


 闇の中に浮かび上がる邸は大きい。侯爵の別荘なのだろう。もちろん、庭も広い。大変広い。走っても走っても、庭の塀が見えないくらいだ。


「ここ、どこっ?」


 痛む脇腹を押さえながら、サリタは走る。花畑や噴水は、今でなければ美しく思えるのだろう。とにかく今はそれどころではない。見たこともない背の高い植物が生い茂る庭を駆け抜ける。


「……え」


 サリタは足を止め、背の高い植物の畑を見る。ざわざわと揺れる植物の前に、誰かが立っているのだ。侯爵でもなく、ロランドでもなく、新たな聖女になりそうな幼い娘でもない。屈強な兵でもない。懐かしい横顔だ。何年か前まで、恋い焦がれて仕方なかった――。


「エドガルド様!?」


 サリタは慌てて前副神官長のほうへと駆け寄る。エドガルドは長い髪を緩く結び、神官服に似た白い衣服を着ている。サリタを見つけ、エドガルドは「おや」と微笑んだ。

 月明かりの下、エドガルドの深い皺がよく目立つ。聖女を引退する際に会ったときから、随分老け込んだようにも見える。それでもサリタの記憶の中のエドガルドと同じだ。

 サリタは嬉しくなるが、状況が状況だ。前副神官長がなぜここにいるのか、不思議に思いながら近づく。


「これはこれは、サリタ様、お久しぶりでございます。新年おめでとうございます」

「おめでとうございます。エドガルド様、あの、どうしてここに」

「この下に私の妻が眠っているものですから、新年の挨拶をしに」

「え」


 エドガルドの視線の先に、背の高い植物の畑がある。サリタはようやく、危険を察知する。背の高い植物から、ぼんやりと昏い気配がする。『瘴気の澱』と同じ嫌な感じだ。


「エドガルド様、その、それは」

「ブロテキビの畑ですよ。欲張りな妻が、砂糖をいつでも食べられるようにしておきたいと何度も何度もねだるものですから、ここに植えたのです。本当に我儘で横柄で強欲な」

「離れてください、その畑――」


 その畑からは嫌な気配がします、という言葉を、サリタは飲み込まざるを得なかった。畑の中にエドガルドの妻が眠っているという意味を理解したときにはもう、サリタの体は地に倒れていたのだ。


「エド、ガルド様!?」

「ええ。ここは私の邸なのですよ」


 両腕を後ろ手に縛られると同時に、左手首から冷たさが消える。サリタが「アンギス!?」と叫んでも、金色のヘビは目の前にやってこない。


「聖獣を見落とすとは……愚かな男ですね」

「エドガルド様、どういうことですか!?」

「あなたもまだ気づかないのですか」


 パンパンと泥を払い、エドガルドが立ち上がる。金色のヘビは見たことのある黒い瓶の中に入れられている。前副神官長は、先代聖女に向けて大変冷ややかな視線を向けている。


「幸せな結婚生活だったのでしょうね。あなたは何も知らず、ベルトラン殿の庇護下にあって。それはもう幸せな……反吐が出る」


 サリタは目を丸くして、エドガルドを見上げる。そんな乱暴な言葉遣いの彼を、激しい憎悪を抱く表情を、見たことはなかった。


「なぜ……?」

「知りたいですか? 私はあの愚かな男と違ってそう簡単には喋りませんよ。……モタビリー」


 エドガルドのそばに、小さな人影が見える。サリタはその姿に見覚えがある。愛らしい少年――聖女宮で幾度となく探した聖獣の姿だ。


「モータ……?」

「サリタ様を牢へ戻して差し上げなさい」


 勇者でもない、聖女でもない人間の言葉に聖獣が従うのは不思議なことだ。しかし、少年の姿をした聖獣は悲しげな表情を浮かべたまま、サリタに近づく。


「ごめんね、サリタ」


 そう呟いて、モータはサリタの腕に触れる。その瞬間、サリタは脱け出したはずの牢屋の中にいた。手は縛られたまま、土がついたままの姿で。


「ちょっと待って。どういうことなの……?」


 サリタは混乱しながらも立ち上がり、鉄格子の鍵を確認する。開けたはずの鍵は、しっかりと閉められている。アンギスがいない状態では脱出することもできない。

 手枷はただの木綿布ガーゼだったため、少し手を動かすだけで簡単に取れる。床に落ちた白い木綿布を見下ろして、サリタは溜め息をついた。


「エドガルド様が……どうして」


 床に落ちた毛布の中にくるまり、サリタは「どうして」と繰り返し呟く。しかし、どれだけ考えてもエドガルドが自分を恨む心当たりがなく、途方に暮れるのだった。



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