第3話「初めまして、サリタ様。どうか俺と結婚してください!」

 気づいたら、その歌が少年の耳に届くようになっていた。具体的にいつからだったのかまでは、少年すら覚えていない。

 その歌は少年にしか聞こえない。家族にも、村の人にも聞こえない。少年だけの特別な歌だ。だから、彼は、その歌声の持ち主を自分にとって特別な人だと思うようになった。


「あ、また外した。下手だなぁ」


 聖母神への賛美歌を歌うと、歌声の主はたまに音程を外す。たまに、どころではなく、頻繁に。鼻歌ならば綺麗に音程が取れるのに、歌うと途端にガタガタになる。しかし、耳障りな歌声とは思わなかった。

 音痴な人なのだろう、だから練習しているのだろう、と少年は歌声の主に思いを馳せる。少年は相手が「人」だと感じている。目には見えないが、特別に神聖なものや邪悪なものではない。聖母神よりももっと俗物的な存在だ。そう解釈していた。

 どうして、自分にだけその人の歌声が聞こえるのか、少年にはわからないままだったが、それでも幸せな気分にはなった。少年にとって、その歌声は幸福そのものだったのだ。




「それはもしかしたら聖女様かもしれないねぇ」


 近くに住む博識な老領主の小間使いのような仕事をしていたとき、少年は彼が聖職者の中でも重職に就いていたことを知って「音痴な歌が聞こえる」と打ち明けた。歌声が何なのか、彼なら知っていると思ったのだ。

 近所の人のために庭を開放している気さくな老領主は、少年の話を一蹴することなく、少し考えた上で少年に自分の考えを話し始める。


「聖女様の祈りの声なのかもしれないね。聖女様は祈りで我々を守っていてくださるから、お前にだけはその声が聞こえるのかもしれない」

「本当に?」

「歌声が聞こえるとき、周りの状況を確認してみるといい。近くで『瘴気の澱』が現れているのかもしれないから」


 その日から、少年は歌声とともに周りを見るようになった。そうして、歌声から少しあとに流れる噂によって、確かに『瘴気の澱』の出現と消滅が確認できるようになった。「東の森で『瘴気の澱』が現れた」「北の街の『瘴気の澱』はすぐに消えた」という程度の噂で精度は高くないが、少年はあの歌声が聖女のものであると確信したのだ。

 それを嬉々として老人に伝えると、「お前は勇者の素質があるのかもしれないね」と微笑んだ。


「聖女様の聖なる祈りが聞こえるということは、やはり素質があるのだろう。この村の近くに『瘴気の澱』が発生しないのは、お前がいるからなのかもしれない」

「でも、まだ勇者様がいらっしゃるよね? 聖教会には僕が勇者だっていう神託は降りていないよ?」

「もちろん、確定ではないよ。ただの素質だからね。聖母神様から勇者や聖女に選ばれるのは、素質のある者たちの中でたった一人ずつだからね」


 特別な力を持つ者が他にもいるかもしれない、と知って少し残念に思いながら少年は家路を急いだ。風が強く吹いている日だった。

 少年の両親は農場の葡萄畑で働いている。食事の準備をするのが彼の仕事だった。しかし、野菜たっぷりのスープを作って待っていても、両親は帰ってこなかった。スープが冷たくなっても、戻ってこなかった。


「大変だ、エリアス! 農場に『瘴気の澱』が現れた!」


 農場で両親と働いている同僚の誰かが少年を呼びに来たとき、それを信じたくはなかった。しかし、走って、転びそうになっても走って、葡萄畑にたどり着いたとき、ようやく少年は自分が特別でも何でもないのだと知ったのだ。

 暗闇の中であっても、巨大な昏い靄がはっきりとわかった。風に煽られて、葡萄畑を覆い尽くすほどの大きさに膨らんでいる靄。なぜか、少年の心が悲しくなる。


「教会に連絡したか!? 勇者様は!?」

「勇者様は来られないんだ、高齢だからな!」

「皆は無事なの!?」

「お父さん!? お父さんはどこ!?」

「聖女様は!? 聖女様に、早く!」


 あたりは従業員や村人たちが入り混じって騒然としている。少年は両親の姿を探すが、どこにもいない。父も母も、近くにはいない。

 靄がどこまで拡散するかわからない、もっと離れるように、と農場主が声を張り上げている。よく太った農場主だ。葡萄酒の売上が良くても、従業員の賃金は増えずに仕事ばかりが増える、と少年の両親もよく愚痴を零していたものだ。


「早く! 離れるんだ! 死ぬぞ!」


 農場主が野次馬たちにそう叫んだときだ。ごう、と大きな音を立てて強い風が吹いた。あちこちで悲鳴が上がり、『瘴気の澱』がぶわりと広がる。農場主が昏い靄に巻き込まれた。

 酷い断末魔だったのだろう。野次馬たちは一斉に逃げていく。一人、少年だけがその場に残る。


「……お父さん? お母さん?」


 なぜ、昏い靄を見て悲しい気持ちになるのか。なぜ、昏い靄は農場主を飲み込んだのか。この『瘴気の澱』が何なのか、少年は理解し始めている。


「僕も、連れて行くの?」


 昏い靄は揺れる。風に揺れて、吹かれて、拡大していく。『瘴気の澱』は少年の眼前にまで迫っている。

 しかし、昏い靄は少年を飲み込みはしなかった。あの音痴な歌声が聞こえ始めたのだ。


「……聖女様?」


 切羽詰まったような、少し緊張した歌声。聖女は必死で『瘴気の澱』を祓おうとしている。国のために、民のために。見たこともない、少年のために。

 少年の目の前で、『瘴気の澱』は消えていく。ゆっくりと、浄化していく。調子外れの祈りの歌声は、そのあともずっと聞こえていた。朝になるまで、ずっと。




 農場からは、少年の両親と農場主を含む七名の遺体が見つかった。突如発生した『瘴気の澱』によって、七人が犠牲になったのだと聖教会は発表した。近年稀に見る、犠牲者の多さだった。

 少年は『瘴気の澱』が発生した理由を知りたかったのだが、調査はされなかった。ただ、両親の遺体が帰ってきただけだった。物言わぬまま。スープも食べられない状態になって。

 涙が枯れるほどに泣いたが、両親を弔うと、彼は不思議と「あれで良かったのだ」と思うようになった。農場主が飲み込まれたのは、あれで良かったのだと。


「成人するまでは面倒を見てあげよう。お前が勇者になったら、恩を返してくれればいい。まぁ無理強いはしないから」


 老領主が少年の後見を申し出てくれたため、食べるものや寝る場所には困らなかった。博識な領主は少年に勉学を教え、教養を身に着けさせて、聖職者たちとの会合にもよく彼を連れて行った。いずれ、彼が勇者になったときに困らぬように、後ろ盾を強化していったのだ。


 それから五年がたち、ようやく高齢の勇者の引退が発表され、新たな勇者の神託が降りた。

 少年が十六歳になったとき、彼は勇者となった。


「エリアス、よろしくね」


 青みがかった銀色の長い髪。深い海の底のような紺青の瞳。あの歌声と同じ声。微笑む聖女を目の前にして、少年はやはり自分は特別だったのだと思った。彼女に生かされた命を、彼女のために使うのだと。


「初めまして、サリタ様。どうか俺と結婚してください!」


 困惑する聖女と、目を輝かせる新人勇者。この出会いが長年に渡る追いかけっこの始まりであることを、まだ二人は知らなかった。



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