第四十四話 こくどうって──なんなんですか?

 平和祈念公園へなだれ込んでゆくこくどう達を尻目に、安奈は公園を大回りして脇道を通り、原爆ドーム前の広場を目指していた。

 あの日、不動院から白島の暗殺に乗るよう命じられ、悠には筋について教えてもらった。一月もしない間にまた来ることになろうとは思っていなかった。

 おりづるヒルズの入口は、先ほどと同じくばらばらの制服に身を包んだ数人のこくどう達が固めている。裏口は無いだろうかとも考えたが、時間がない。こうしている間にも、ゆみ達は消耗しているのだ。

 安奈はできれば気づかないでくれと思いながらも、足を踏み出した。


「誰な、自分?」


 バレた。

 なんと言ったものか、安奈は言葉を選んでいたが、それを口に出すまでに、相手があっと気付きを得たようだった。


「姉妹! こ、こんなあアレじゃ!」


「ま、まさか……右目の包帯、龍のジャケット──天神会の白島じゃ!!」


 白島。その名前を聞いた瞬間、彼女らが一歩下がったような気がした。


「日輪会長とタイマン張りにきたんじゃ……」


 誰かがそう呟き、誰もが顔を見合わせる。彼女らの考えは安奈には透けていた。

 相手はヒロシマこくどうの頂点だ。下手に手を出せば殺される──。


「ど……どいてください!」


 安奈は精一杯そう凄んだ。なんの縁もない人間と喧嘩はしたくなかったし、勘違いしているのなら都合が良い。


「わたしは、日輪会長に会いに来たんです!」


 どよ、とこくどう達の動揺が、そのまま目に見えたような気がした。いつだったかショート動画で見た、預言者モーゼが海を割ったという逸話が安奈の脳裏をよぎる。自動ドアをくぐると、がらんとしたおみやげコーナーが広がった。従業員は残っていない。


「……ちいと待てや。ワレ、どこのもんじゃコラ」


 ヒルズのエレベーターホールへ続く道を塞いでいる数人のこくどうのうち、セーラー服に身を包んだ、浅黒い肌の女が併設カフェの席から立ち上がりながら、そう言った。


「わたしは──」


「白島です、なんちゅうんは無しで。ワレ髪の色が違うじゃろうが。口八丁でそのまま通ろうっちゅんかい」


「……通してもらえませんか」


 安奈は祈るように言った。ここで傷つけ合ってもなんにもなりはしない。


「いいやあね。そがあなわけにもいかん。ほいでそのジャケットは本物っぽいじゃない。ワレもそれなりの首じゃ言うことじゃろうが、のう?」


 呼応するように、こくどう達がにじり寄ってくる。


「おう、みんな囲めや! 天神会のこくどうじゃろうがなんじゃろうがよ──」


 浅黒い肌のこくどうは、スカートの裏にマウントしたもものホルスターから、拳銃を抜いた。ヒロシマリボルバーだ。空いている左手の人差し指と親指で、小さな空間を作ると、笑った。


「こがあな小さい弾で死によるけえの」


 照星の先に安奈を捉えるより早く、彼女は身を屈めてすっと左へ動いていた。浅黒い肌のこくどう──三次にとって初めての人に向けての発砲。彼女は、そもそも人間が撃たれるときに左右に動くなど考えてもいなかった。

 耳をつんざく銃声が合図になったように、安奈は左頬に赤い線を作りながら前へ。

 どうして、前に──?

 動揺する三次が射線を修正する前に、安奈は既に彼女の真下へ辿り着き、下から銃を握る手を掴んで持ち上げていた。

 再び銃声が轟いて、天井に穴が開き、取り囲むこくどう達が恐れ慄き下がる。


「これ、使わせてもらいます」


 いつの間にか、リボルバーは安奈の手にあった。

 振り向く前に、三次の身体は地面に転がっていた。なにが起こったのか──リボルバーを一瞬で奪われただけでなく、思い切り銃底で殴られたのだ。


「こん、ボケが……」


「動かないでください!」


 銃口を向けるたび、こくどう達は恐怖に慄く。こんなものか。なんだか安奈は拍子抜けしてしまって、銃を下ろした。かつて殺してしまった達川も、天神会のメンバーも、もちろん高子だって、銃を恐れてはいなかった。彼女らは『違う』のだ。安奈から見れば、死を、別れを恐れる『ふつう』の女の子でしかない。


「邪魔をしないでください。弾はまだ残ってます」


 三次を残して、我先にと逃げ出していくこくどう達に、安奈は呆れつつもエレベーターホールに向かった。

 高子は銃を恐れなどはしまい。あんなふうに戦いがすぐに終わることもないだろう。すっかり軽くなったリボルバーを握り直して、安奈はエレベーターのボタンを押した。

 永遠に続くように感じたエレベーターが開くと、昨日見たばかりのガラス張りのオフィスフロアに、豪奢な椅子が一つだけ鎮座していた。

 高子はそこにかけて、カーボン製日本刀を杖のように地面に突き立て、目を閉じている。


「姉さん」


「……おう、安奈。早いの。下の連中は役に立たんかったか」


 言葉を出そうとする度に、今ここで言うべきことではない言葉がいくらでも漏れ出しそうだった。どうして。なんで。もうやめて。

 その言葉のどれもが、高子には届かないだろうと分かってしまう自分が嫌だった。


「用件は伝わっていますよね」


「ああ」


「戦うしか無いんですよね」


「……ああ」


 高子は立ち上がり、肩に日本刀を担いで、窓際へ顎をしゃくった。


「見いや、安奈。そこから原爆ドームが見えようが」


「……はい」


「ヒロシマはの。原爆が落ちて全てが無うなった。何も無くなった土地から、ワシらこくどうは生まれた。乙女の手で乙女を守るちゅうてよ。……アホくさいと思わんか」


 安奈はそれには否定も肯定もせず、静かに姉貴分の言葉に耳を傾けていた。それは彼女の叫びのようなものだった。安奈にはそれを聞く義務があった。


「乙女を守る言うんならよ。なんでわしらは、殺し合わにゃならんのじゃ。挙げ句、家族も死なせてしもうた。御子は、ゆりは──めるのオフクロはなんで死なにゃならんかったんか、ワシにはようわからんようになった」


 再び椅子の背もたれ近くに立って、刀で床を突く。何度も、何度も。


「ワシは、オフクロを殺した白島にケジメをつけさせたかっただけじゃ。家族を守りたかっただけじゃ。ほいじゃがよ、安奈。強くないと何にも守れん。何も取り戻せん。弱いやつは、ずっと奪われ続ける。これはもう、こくどうの宿命じゃ。わしらにゃ変えられん」


「……姉さんは、とっても強いです。強くて、わたしの憧れで──だから」


「だから、なんじゃ。お前が認めとったけえ、なんじゃ。そがあなもん、何の証にもなりゃせん。お前が認めとっても、何も取り戻せやせんのじゃ、ワシは!」


 高子は刀を床に転がすと、椅子の後ろにかけていたジャケットを掴み取る。ジャケットが宙を舞い、彼女はそれに袖を通し──その背を安奈に向けた。

 その背に刻まれていたのは、飛びかかってくる虎の刺繍。


「昔、わしゃ家出しとっての。バイトにパチンコ屋で玉拾いをやっとった。昔のパチスロも置いとってよ。そこで昔なかなかええことを言っとった──『虎は何故強いと思う? 元々強いからよ』っての」


 言葉の一つ一つが痛々しく安奈に突き刺さってゆく。あなたはわたしに家族をくれたのに。暖かい時間をくれたのに。わたしに全てをくれたのに、あなた自身は失ったことに苦しんでいたなんて。


「安奈。こくどうの世界は力が全てじゃ」


 高子は日本刀の鞘を抜いて、ぎらりとその刃を輝かせた。それを合図にしたように、十二月のヒロシマに似合わぬような雨が降り始める。あの日のように。すべてが始まった一年前のあの日と同じ、土砂降りの雨が。


「ワシは証明する。虎よりお前りゅうより強いことをな。そして、奪われた全てを奪い返す」


「私の命も奪う気ですか。……それに筋があるんですか。仁義ルールは!?」


「そがあなもん知らん。ワシは弱いけえ奪われた。全てを奪われた。それを奪い返すために、ヒロシマのてっぺんの肩書が必要なら──お前の命も奪うだけよ」


 雨の中に閃光が轟き、二人のこくどうの背中がガラスに反射する。

 二人の背に宿った龍と虎が、ちょうど並ぶように闇の中に浮かび上がり、ガラスへ投影される。向かい合ったそれらは今にも飛びかかりそうだ。

 もはや一刻の猶予もない。


「姉さん。こくどうとしての盃も、絆も、仁義も筋も意味がないんだとしたら──こくどうって、一体なんなんですか!?」


 高子はふっと笑って、哲学的な問いの答えを少しだけ探したが──披露できそうな答えは何も出なかった。

 見つけ出そうにも、もう何も見えない。目標も、行先も、己が正しいのかさえ。


「さあ。……ワシにはもう、分からんわ。でも分かっとることもある。ワシとお前、生き残った方がこのヒロシマのてっぺんじゃ」


「そんなこと」


 安奈は左手で拳を握る。銃のグリップが右手にめり込む。


「……そんなことを決めなくちゃならないなんて、ばかみたいじゃないですか」


「ほたら、ワシに譲るか」


「それは、無理です」


 じり、と絨毯が擦れて音を鳴らす。それに呼応するように、閃光が再び部屋中を満たし轟いた。


「私は──あなたに勝つ」


「ほたら、来いや! 安奈ァァァ!」


 安奈は銃を向けて、一発放つ。高子の刀の刃をすべり、銃弾が天井にめり込む。返す刀で袈裟懸けに振り下ろされる刃は、安奈のリボルバーの銃底に阻まれた。

 その瞬間、再び目もくらむような閃光が轟き、ガラスに背中の龍虎が相打った!

 得物を解いて、二人は一歩下がる。銃と剣──しかし間合いは詰まっている。

 姉さんがどれくらい強いのか、わたしは知らない。でも確かに言えるのは、油断してられる相手じゃないということだ。

 安奈は構わず二発目を発射するためにトリガーを絞る。高子の姿は射線から既に消えていて、今度は横薙ぎに刀を振るってきた。

 すかさず身を屈めると、カーボン製刀が銃身を通り抜けていき、安奈の毛先をきれいに切り飛ばした。銃は役に立たない。安奈は上に向かって、リボルバーを投げつける。高子はそれを首を傾げて避け、迷わず上段から刃を振り下ろす。あんな切れ味では並の得物では防げない。

 安奈はスカートから下げていたクマのマスコット──御子の形見を引き千切ると、バネ仕掛けを展開させて、スチール製特殊警棒に変化させた。直後、刃が警棒の上を火花を散らして通過していく。

 左腿を警棒で打ち据えると、高子の顔が苦痛と憎悪に歪む。すかさず安奈は腹めがけて蹴りを入れた!

 高子はそれを受けて少し下がるが、気持ちは前のめりだ。刀と警棒が火花を散らし、交錯する。一度、二度──三度は無かった。スチール製特殊警棒は、カーボン刀を半分飲み込むように噛みついた。安奈はすかさず、それを捻り刃ごと折りとった。

 舌打ちしながら高子は刀を投げつけるが、当たらない。しかし僅かに隙を見せた安奈に対して、高子は思い切りタックルを決めた。安奈の身体が吹き飛ばされ、ガラス製の仕切りを巻き込んでガラガラと音を鳴らす。

 全身を割れたガラスが苛み、制服とジャケットが裂けた部分から血が滲む。


「立たんかい、ボケェ! 地獄の一丁目一番地じゃ。まだ終わらんど!」


 特殊警棒を杖にして、安奈は痛む身体をなんとか立ち上がらせる。ここで終われない。そこで倒れれば全てが終わってしまう。

 姉さんを助けられない。それだけは嫌だ。

 振り上げた警棒が途中で止まる。高子に手首を掴まれたのだ。そのまま、彼女の額が安奈の顔にめり込んだ。容赦のない頭突きだ!

 たたらを踏んで二歩下がる。ぱたぱたと血が床に吸い込まれていく。


「トドメじゃ、コラァ!」


 高子のストレートが、赤い視界の間から伸びてくる。安奈は杖代わりの警棒を縦回転させて拳を弾き、身体ごと回転させて高子の周りをくるりとすべって後ろにすり抜け、頭上に振り上げてから叩きつける。

 高子はそれを十字に腕をクロスさせて防ぎ、ふたりはその場で競り合いを始めた。殺意。殺意殺意──。

 涙が出てきそうになる。こんなはずじゃなかったのに。望んでいなかったのに。

 でももう戻れない。前へ出るしか無い。床が擦れて、高子の身体が押し込まれていく。その先にはエレベーター。

 安奈の腹に高子の放った膝蹴りが突き刺さり、警棒を握った手が緩み、警棒が落ちる。高子がそれを蹴ると、エレベーターの外へ転がっていった。見越していたかのように扉が閉まったのと同時に、高子は掌底で屋上行きのボタンを押す。

 お返しと言わんばかりの安奈の拳が、高子の頬を掠めた。

 高子はその隙を見逃さずに肩で彼女を押しのけ、胸ぐらを掴み直し、エレベーターの壁に叩きつける。

 仄暗い諦めと殺意が安奈の瞳の奥に宿ったのを、高子は見逃さなかった。同時に、屋上テラスにたどり着いたことを知らせる音が鳴る。すると、高子の身体ががくりとバランスを崩した。膝に上から蹴りを入れられたのだ。

 頭が下がったのを見逃さず、かつて白島が見舞ったものと見紛うような膝蹴りが安奈から放たれ、顎に膝がめり込んだ。高子は思わずエレベーターから出て下がる。カフェバーのカウンターに背中がぶつかり、そのまま頭を掴まれカウンターに後頭部を叩きつけられた。一度、二度!


「調子ィ、乗んなァ!」


 バーカウンターに置かれていたディスプレイ用の酒瓶が安奈の頭を捉え、破裂する。一瞬で血だるまになった安奈だったが、その目はまだ死んでいない。

 割れた瓶から殺意が伝播し、高子の覚悟を刺激する。これで安奈を抉ればヒロシマを奪れる。たったそれだけで。全てを奪ってきた連中に復讐できる。ふらり、と安奈の頭が揺れて、彼女は地面に倒れて伏した。

 近づけなかった。自分が勝った気がまるでしないからだ。握ったガラス片が高子の掌を苛み、血が滴り落ちる。

 たとえ姉妹分の安奈だろうと、踏み台にしててっぺんを取ると覚悟していたはずなのに。


「安奈──」


 刃が震える。でもやらねばならない。ヒロシマのてっぺんは血塗られた玉座だ。それに座る覚悟がない限り、日輪高子は永遠に奪われ続ける弱者でしかないのだ。


「わしを許してくれ、安奈──ッ!」



 安奈は目を覚ました。

 それはあのときのバスの中だった。ヒロシマブルーアリーナへ向かうあの時の──。


「安奈」


 懐かしい声が響く。姉妹分の声──ゆりの声。


「情けないのう、ワレ。根性見せんかい」


 ゆりはそう言って笑った。彼女の目は見えない。なぜか見ようとしても見られなかった。


「安奈。次のバス停で降りろ」


 前の席に座っていた御子が、どこか冷ややかにいった。あの時、別行動をしていた彼女がこのバスに乗っているわけがない。しかし、それにあえて触れず、安奈は頭を振った。


「いやです。私もみんなと……」


「それはダメじゃ。お前にはまだやることがあろうが」


「ほうじゃ安奈。お前にはまだやることがあるんじゃ」


 御子に同調するように、ゆりも続けた。


「高子の姉貴に喧嘩で勝つんじゃろうが」


「でも……でも私、嫌なんです。無理なんです。姉さんは私に色んなものをくれた人なのに、どうして──」


 御子は大きなため息をついて、安奈の頬に触れた。その手には確かな暖かさが宿っている。夢や幻かもしれない。それでも、安奈はそれが御子であると直感した。


「安奈。人間は誰でも間違えるんじゃ。道に迷うこともある──日輪の姉貴も同じ人間じゃけえ、そら間違うこともあるわ」


 バスが停まる。前方の降車口がブザーと共に開いた。安奈は言われなくてもそれが、二人との別れであると、直感的に理解していた。


「間違いは正してやりゃあええ。それだけじゃ。なんも難しいことはないで。今のお前は姉貴と同格じゃ。喧嘩して、勝って、ほいで説得なりなんなりすりゃええが」


 別れるのが嫌だった。別れを飲み込むこともあったが、それでも慣れるわけがない。


「ほれ。安奈! 停留所はここで終いじゃ。御子の姉貴も言うとるじゃろ。……高子の姉貴を、助けちゃってくれや」


 ゆりが言わんとすることは、聞かずともわかる。そしてこのバスを降りれば、再び戦いに戻らなくてはならない。折角また会えた姉妹たちとも、これで永遠の別れだ。


「行けや、安奈! ほいでもよ、これでお別れと違うで」


「安奈。わしらはいつまでも姉妹じゃ。未来永劫、お前が忘れん限り、ずっと」


 安奈は頷き、通路を進む。タラップの先、降車口の外はまばゆい光が差していた。


「大丈夫よ、安奈さん」


 後ろからかけられた声にも、振り返らなかった。そうだとも。その声の主にも約束した。

 わたしは筋を通す。

 生きている友達のために。死んでいった姉妹たちのために。安奈はその約束を守るためにタラップを降りていった。




 砕けた瓶底が彼女を貫く寸前で、安奈はごろりと地面を転がってそれを回避していた。


「生きとったか、コラァ!」


 安奈の背に、カウンター用のイスが当たる。素早く立ち上がると、ぽたぽたと血が絨毯に吸い込まれていく。

 根性だ。根性があれば、こくどうは死さえ遠ざけることができる。そしてすかさず安奈はチェアの背を掴み、姉妹分の──ゆりの至言を思い出していた。


「何でもいいから──ッ!」


 イスが逆さに屹立し、影が高子の頭まで伸びた。見上げながら、彼女は呆れたように笑うしか無かった。


「掴んで、殴れッ!!」


 振り下ろされたイスが高子の頭を捉え、そのまま頭から床に叩きつけられる。常人なら致命的な一撃だ。

 そう、常人であれば。

 日輪高子がこくどうでなければ、全ては決していただろう。しかし、彼女は今こくどうの中のこくどうであり──てっぺんに足をかけたものとして、後退は許されなかった。

 カーテンが引かれたように視界が真っ赤に染まる。絨毯に血液が吸い込まれていく。


「ナメるな、安奈!」


 高子は口端から血を飛ばし、心臓の鼓動を確かめるように胸を叩く。あたかもそれは、止まりかけたそれを無理やり動かすかのようだった。

 決着は近い。


「ワシがヒロシマのてっぺんじゃ!」


 殴りつけられた渾身の拳を、安奈は額で受け止める。めしり、と拳が潰れる音が二人の耳に響く。安奈の脳裏に様々な記憶が流れては消えていった。楽しかったこと、嬉しかったこと、悲しかったこと──そのどれもに高子や御子、ゆり達がいた。

 これからもそうだ。一生忘れることはない。別れなんてない。姉妹たちはわたしの中にいる。

 だからわたしは、今この筋を通さなくてはならないんだ。

 安奈は気合の一声を放つと、左拳で裏拳を放ち、高子の拳を弾き返した。体勢が崩れてがら空きになった顔を目掛けて、渾身の力で右ストレートを叩き込む!

 高子はまだ拳を握っていたが、それを振り上げたと同時に足元がぐらつき、頭が揺れ出し──最後に床に彼女の身体が転がった。

 決着がついたのだ。

 安奈は確信と共に膝をつく。心臓が破れそうなほど激しく鼓動し、息は荒いまま全く整わなかった。

 屋上テラスから先のヒロシマの夜からは、既に雨が去っている。それでも、ここから見える景色でちらつく争いの狼煙──祇園連合会の襲撃による火事などの煙──は消えていない。このテラスの際に設置されたガストーチのように。トーチの先に見える街での争いが終わらない限り、この戦いは終わらない。でも、どうやって?

 安奈はよろよろと立ち上がり、頬に手を触れた。瓶で殴られた際に、頬を切ったようだった。


「……殺せや、安奈」


 寝転がったままの高子が、呻くように言った。振り返れなかった。


「祇園連合会の連中は、暴れて手柄を立てたいだけの、連中じゃ……ワシがおる限り、止めやせんで」


「何を言って……」


「どうした……安奈。白島も殺ったんじゃろうが。ワシも殺れや。ほいで、てっぺんを奪れや。そうしてお前は初めて、ヒロシマの全てを手に入れることになるんじゃ。何を躊躇う」


 思わず振り返って、安奈は高子の胸ぐらを掴んでいた。お互いに酷い顔だった。血と傷、痣でボロボロになっていて──安奈はそれに加えて、涙でべしょべしょに濡れていた。


「どうしてそんなこと言うんですか!」


「煩い。お前に安東を殺った時に教えたろうが! こくどうは人を殺って一人前じゃ」


 いつのまにか、高子の目にも涙が滲んでいるのをみて、安奈は全てを察した。


「じゃがよ、てっぺんに登ろう思うたらよ──親姉妹を平然と殺れんといけんのじゃ! それができて初めて、てっぺんの資格がある!」


「だとしたら──」


 安奈は白島──親友のリノの深い絶望と孤独を思い起こしていた。てっぺんに登ろうとして、どんな犠牲を払っても──ただ友人が欲しいだけの少女であった、白島莉乃のことを。


「だとしたら、わたしは! ヒロシマのてっぺんなんて、いりません!」


 そう言うと、安奈は自身のジャケットを脱いだ。高子の身体を抱き起こし、ボロボロになったそれを剥ぎ取る。

 高子のジャケットからスマホが零れ落ち、安奈はそれを掴むと、サンメンのアプリを起動する。迷わず投稿ボタンを押して、動画配信を開始した。


「祇園連合会の皆さん、聞いて下さい! わたしは上島安奈です。……元町天神会の代表です!」


 連合会の長である高子のアカウントから発せられた通知は、戦いに参加している者はもちろん、そうでないこくどうウォッチャーのアカウントに至るまで、ヒロシマ中──いや、全国を駆け巡った。


「わたしは、日輪さんに勝ちました。もう戦いをやめてください。これ以上戦っても、意味はありません!」


 そう言うと、安奈は二つのジャケットをガストーチに焚べだした。当然、それに抗うすべはなく、炎に舐め取られたジャケットはパチパチと音を鳴らして、黒い煙をあげて燃え始める。


「なんちゅう事を──安奈!」


 悲鳴に似た温度で、高子は叫ぶ。てっぺんの証が灰になっていく。これまでの歴史──戦いの全てが。


「わたしはてっぺんに立ちました。このジャケットが争いを産むんだとしたら、燃やしてしまうのが私にとっての『筋』です。文句があるなら、わたしに言ってください!」


 そう言って、彼女は配信を切った。全てが終わった。高子はすべての力が抜けたように床に再び転がった。


『日輪、ええか。てっぺんいうても、色々取り方見せ方があるんじゃ』


 かつての親が言っていた言葉が、今更ながら沁みてくる。誰もなし得なかったヒロシマ統一を一日も経たずに否定して、その権力の証であるジャケットを焼いてしまうなんて、どんなこくどうにだってできなかった偉業──いや横暴だ。

 なんだかそれが笑えてきて、高子は力なく笑みを見せた。


「安奈」


 炎を背負った姉妹分に、高子は声を掛ける。その姿はまさに、他の誰も否定しようのない──ヒロシマのてっぺんそのものの姿であった。


「なんでしょう」


「……わしの負けじゃ」


 そういって、彼女は気絶するように背中から倒れた。戦いは終わった。ひとつの伝説が──たった一分だけヒロシマを完全統一したこくどうの伝説が、生まれた。


続く

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