第四十一話 まだ終わらせない気なんですか?
宇品が送ったメッセージは、無事高子と不動院に届いたようだった。
安奈のスマホが震えて、そっけなく場所を指定するだけのメッセージが届く。宇品のスマホから転送してもらったものだ。
「上島の姉妹ェ。……すまんが、ワシは同席できん」
朝九時。
原爆ドーム前で合流した宇品は、白島のジャケットが入った鞄を手渡しながら言った。
「やっぱり、爪を落としたから……ですか?」
朝の原爆ドームはどこか澄み切った神聖な空気が漂っていた。剣呑な話をするには相応しくない気もしたが、それでも不安な安奈にとっては、宇品の存在はありがたい。
そんな彼女が中まではついて来られないという事実に、安奈の不安がぶり返す。
「それもある……がの。白島会長のジャケットを渡すのは、姉妹、あんたじゃないといけん。あんたの手柄じゃけん。そんな中にワシみたいなもんが紛れてもせんないじゃろ」
宇品の指には、血で滲んだ布が巻かれている。痛そうだ。経緯は聞いていた。それしか方法がなかったことも──彼女の受けた痛みが、我が事のように胸を刺す。しかしすべてが終わる。白島の遺産を手渡すことで、高子は『ヒロシマのてっぺんを継ぐもの』となり、長かった戦いは終わるはずだ。
指定された場所は、原爆ドームを見下ろす位置にあるビル──おりづるヒルズ、その最上階フロアだ。
「宇品さん、終わったら連絡しますね」
「おう。……姉妹、渡すだけなんじゃけん、あんまり無理すなよ。死んだ人のことを悪う言いたかないが、そがあなもんを渡して終わるんなら、さっさと渡してしまえばええんじゃ」
宇品はそう言うと、右手で安奈の左手を取り、ぎゅっと握った。
「のう姉妹。ワシがなんとかしちゃるけえ。……もうこくどうみたいなくだらんもん、辞めてしまおうで」
そう言うと、宇品は目を伏せた。自分で言っておいてとんでもないことを言ってしまったと後悔したのだ。
「いや……すまん、忘れてくれや。とにかく、気をつけていってくれ」
暖かかった。
安奈の冷えた体に、宇品のそれはありがたかった。リノの失われた冷たい手が、まるで嘘だったかのように感じて、安奈は一抹の寂しさと共に彼女を握り返した。
「あの、宇品さん……」
「何な、姉妹」
「その……なんて呼べば」
「は? 何を?」
「名前、ですよ。私、名字しか……」
ああ、と妙に得心した表情で宇品は笑った。そういえば初めて出会ったのはアストラムラインの中で、東京からやってきたばかりの彼女に因縁をつけられたのだった。あれから驚くほど長い時間が経ったような気がした。
「なんか、恥ずいのう……姉妹、そがあなもん別に今聞かんでもええじゃないの」
「嫌です。私、友達のこと、下の名前で呼びたいんです」
「みゆき」
宇品はぼそっとつぶやく。
「えっ?」
「みゆきじゃ、みゆき! 深い雪って書いて深雪! ワレ耳どがあになっとんじゃ!」
耳まで真っ赤にして目を背けながら言った。それがなんだか微笑ましくて、安奈は握られた手を握り返した。
「深雪さん。わたし、大丈夫です。待っててください」
安奈はおりづるヒルズへ乗り込む。一階は観光エリアで、お土産屋やカフェがあり、十五階は展望台になっている。二階から十四階はオフィス・テナントが入っており、指定されたのはその十四階だった。
エレベーターから降りると、何もないフロアにガラスで仕切られた空間が広がっていた。
久々に会った──その実、二週間も経っていない──高子は、少しだけ顔をほころばせて、安奈にこちらへ来るよう手を上げた。そばには、不動院と天満屋の二人。特に不動院には少しばかりの緊張や悪感情を載せた視線を送る。
「来たの、安奈」
「はい。……姉さん、ここは?」
「新事務所よ」
不動院達の手前、安奈はあえて高子のことを『姉さん』と呼んだ。本来高子と安奈は五分の立場であり、盃上は同等だが、一歩立場を引いたことになる。しかし立場や地位にはこだわらない。そばにいられれば良いのだから。
「今後はの、祇園会を中心にした連合組織に再編するんじゃ。天神会やその下部組織も飲み込んで、まとめて一本にする」
壮大な夢に、高子の目は輝いていた。彼女の夢がそうであるなら、安奈はついて行くだけだ。戦争は終わった。鞄の持ち手を握り締めながら、彼女はそれを噛みしめる。しかし、彼女の戦いはこの中身を渡さぬ限りは終わらない。
終わらせなくてはならない。
「白島会長が倒れた以上、現実味が増すプランでしょう。──安奈さん、それは?」
不動院は鞄を指さしてにこやかに言った。彼女は全てを知っている。道龍会を差し向けたことも、安奈をけしかけたことも──。
結局は彼女の思う通りになってしまった。安奈はそれに複雑な想いを抱きながら、鞄を開いて中身を広げた。
出てきたのは昇り龍の刺繍が入ったジャケット──白島の遺産であり、ヒロシマのてっぺんを獲ったことの証でもある。
「それは──天神会のジャケット!」
真っ先に気付いたのは天満屋だった。天神会の跡目が受け継ぐべきジャケット──SNS上でまことしやかに囁かれる白島の死とジャケットの焼失は、紙屋連合側としても見過ごすわけにはいかなかった。
水面下で進めていたおりづるヒルズの購入計画を決定した高子達は、不動明王会の保有していた教科書利権の一般企業への権利譲渡を原資にして、一気にヒルズを買い上げ、なんならその契約日を前倒しにしたのだ。
理由は単純だ。ヒルズは紙屋連合──もとい高子の権力の象徴だ。白島の権威に対抗すべく築き上げた城だ。
高子の持つ祇園会のジャケットもまた、確かに連綿と続く歴史の象徴だが、天神会の持つそれとは持つ権威がまるで異なる。ヒルズと相まって対抗できるかどうかも怪しい。だからこそ、白島の死はこのヒルズを買い取るという決断の最後のトリガーになったのだ。
ここにそれがある。不動院も、天満屋も、その意味はよくわかっている。
この城とこのジャケットが合わされば、日輪高子は押しも押されもせぬこくどうの
「姉さん。これは白島さんから託されたものです」
「託された? なんで、お前が──」
高子はその言葉の違和感に訝しむ。他ならぬ安奈を送り込んだ不動院も、妙な違和感を覚えた。道龍会がしくじり、安奈が奪い取ったのか。だとしても、託されたとは一体どういうことなのだろう。
「白島さんは言ったんです。これを私に託すって。こくどうの──乙女の未来を託せるものに託すって、私に言ってくれたんです」
高子の握った拳がぎゅうと苦しげな音を鳴らす。
「私にとって、それは姉さんなんです。あなたは乙女の、こくどうの──ヒロシマの未来を託したいと思う人なんです」
天神会から趣旨替えした不動院と天満屋にとって、それは何より喜ばしい申し出だった。神輿に担いだ高子が白島を越え、ヒロシマのてっぺんに立つ。もちろん多分に打算も含まれてはいるが、二人は賭けに勝った。
それは、他ならぬ高子も同じ考えのはず──だった。しかし実際には日輪高子にとって、それは違ったのだった。
「……安奈。それをワシが着る、言うんか」
「そうです。それで、戦争は終わるんです」
「嬉しいんか、安奈」
妙に平坦な物言いに、安奈は困惑する。高子はこんなに冷淡な話し方をする人だったろうか。目を伏せた彼女の顔は、嬉しそうには見えなかった。
「……はい」
「ほたらよ。そのジャケットを──白島の『お下がり』をワシに着い言うんか」
「お下がりだなんて、そんな……でも」
「でももしかしもあるかいやコラ! ワシにそれを着い言うんはのう、白島の外道の盃を貰うんと変わらんわい! ヒロシマのてっぺんはのう、白島から貰うもんと違うんじゃ! そがあな小汚いジャケット貰うても、寝間着にもなりゃせんわ!」
高子はジャケットをその場に叩きつけた。何が起こったのか、安奈にも誰にも分からなかった。
日輪高子はあろうことか『ヒロシマのてっぺんの証』を拒絶したのである。
「会長──会長! 冷静になってつかあさいや!」
天満屋はなおもジャケットに足をかけようとする高子を羽交い締めにした。いかにこの場の人間限りといえど、白島はヒロシマのてっぺんに足をかけた偉大なこくどうであることに変わりはない。それを無視して足蹴にするような真似は許されぬ。
「上島さん。……追って連絡させてください。会長はまともな精神状態と違うようですから。必ず連絡しますので、今日のことは内密に」
不動院はそう言い含め、ジャケットを拾い上げて安奈に押し付けた。呆然としつつも、彼女はすぐにこの場にいるのに自分が相応しくないのだと感じ取る。
すぐにジャケットを抱えて、安奈はその場を後にした。高子の怒声が彼女の耳の中を跳ね回り、なんとも言えず悲しい気持ちになる。
白島は死んだ。
だがヒロシマ統一、そのてっぺんに登るという遺志は残っている。高子はそれを受け入れない。それは、回り回って白島の遺志を断つということだ。
どうして。
彼女だって、立場は違えどヒロシマのてっぺんに登るという目的は同じだったはずだ。
安奈はエレベーターの中で考える。だが答えは出ない。そして、この手の中に残ったジャケットをじっと見下ろす。
『日輪高子がそうでなければ、あなたが──』
リノの放った願いが──おそらくはそうだろう、という予測でしかないが脳内にリフレインする。
そうでなければ、あなたがヒロシマのてっぺんに立ちなさい。
大言壮語もいいところだ。わたしみたいな駆け出しのこくどうが、てっぺんだなんて。
「私に、私なんかに──できるわけないよ……」
独りごちる安奈の声を聞くものはいない。どうしてこんなことになったのだろう。答えの出ない問を壊れたように繰り返す。全てが終わると思っていたのに。それどころか、高子との関係すら危うくなってしまった。
疑問と困惑、それに伴う恐怖がぐるぐると回る。孤独への恐怖。失うことの恐怖──。地上についた安奈は、なんだか自分がふわふわと足がついていないような気持ちになった。それでも、彼女は歩き出す。安奈はもう、絶望に歩みを止めることが何も生み出さないことを知っている。
手にしたジャケットに恥ずかしい行いはできない。後ろ髪を引かれながらも、安奈はその場を後にした。
「どうしてあがあなことを言われたんですか」
不動院は責めるように高子に質問した。するしかなかった。あのジャケットの持つ力は十二分に理解しているし、高子もしていると思っていたからだ。
白島はもう死んだ。しかしその影響は計り知れない。高子が彼女の権威を継ぐには正当な方法では不可能なのだ。
それこそ、天神会の全てを武力で制するようなことでもしない限り、あの権威が自然と降りてくるようなことはない。ヒロシマ城で安奈と白島の間に何があったかまでは分からないが、託されたという言葉に嘘があるとも思えない。
結果的に高子は、姉妹分に仇を取らせたことになる。ならそれをきっかけに天神会と手打ちを済ませ、恐れながらと会に戻れば、それだけで他の幹部を黙らせることが可能だろう。なにせ、天神会には白島の仇を取る暇もなかったのだから。
SNS上では、道龍会による卑劣な襲撃により白島が命を落としたと公式発表がされたばかりだ。安奈が道龍会の妨害を突破したのも、白島からジャケットを託されたのも事実だろう。
何もかも彼女に都合よく動いていたのに。彼女が跡目を取るためのお膳立てが全て──。
「天神会の跡目を取れれば、あなたは名実ともにヒロシマのてっぺんだ。安奈さんはおそらく、道龍会の妨害を突破して、生き死に賭けてあのジャケットを手にしたんですよ。妹分の彼女がです。それを……」
「誰がそがあなことを頼んだ」
不動院は喉元に刃を向けられた思いがした。それは自分だからだ。
「それは……」
いたたまれぬ様子で、天満屋がこちらに不安げな様子を覗かせる。尊敬していると公言して憚らぬ高子の言葉に困惑しているのだ。それは自分も同じだった。
「誰じゃろうが一緒じゃろうが、お? 不動院よ。ワシが『いつ』安奈にあがあなもんを奪ってこいなんちゅうたんじゃコラ」
「しかしあなたは白島を殺れと」
「ヒロシマ城なんぞあがあな外道と一緒に燃やしてやりゃあええんじゃ。あんなあの生きとった証なんぞいらん。天神会もいらん」
親も、姉妹も、子分も、そして自らの時間も──結果的に自分からすべてを奪った憎い白島の痕跡一欠片も、このヒロシマに残すつもりはなかった。だからこそ『ヒロシマのてっぺんの証』などという大層なお題目のついたあんなジャケットなど存在してはならなかった。
思えば高子は奪われてばかりの人生だった。実の親のエゴで子供としての立場を奪われ、こくどうとして、尊敬する親の命を奪われ、女子高生として金より価値ある一年という時間を奪われた。それはいい。流れというものがある。
自分を許せなかったのは、これまでに何も掴んでこられなかったことだった。
祇園会の跡目も、白島からの盃も、紙屋連合の会長職も、すべて不自然な形で与えられたものだった。お仕着せの哀れみのようなお飾りをつけられて、与えられたそれらのことを、蔑まれたように感じていた。
そんな中でようやく掴んだはずのヒロシマのてっぺんというこくどう最大の栄誉が、よりにもよって白島が遺し、姉妹分の安奈が『くれる』ものだと知った時、高子の中にはヘドロのような憎しみが渦巻いた。この世の全てを焼き尽くしてもまだ足りぬほどの憎悪と、嫉妬と、自分への失望がこの身を満たす。
「不動院。とにかくあんなもんはいらん。……それより、今度の事始めにワシのジャケットは間に合うじゃろうの?」
「間に合うように作ってはいますが、考え直してください。紙屋連合──今度から祇園連合になりますが、あのジャケットにはそこまでの権威は──」
「ならええわ。……お前ら帰れ」
思わず天満屋は不動院の前に出て、聞き返していた。
「帰れっちゅうんはどういうことです、会長。まだ話は──」
「黙れ。ワシは帰れっちゅうたんじゃ。耳掃除ちゃんとしとるんかコラ。帰れ」
二人は背を向けた高子の前で顔を見合わせた。その背中が僅かに震えているのを見て、ようやく従った。エレベーターの扉が閉まり、まだ何も入っていないガラス張りのフロアの中で、日輪高子は窓ガラスにすがりつくように涙を落とした。それは自らへの無力と失望を抑えきれず、孤独から流す涙だった。
あのジャケットを燃やさねばならない。存在してはならない『ヒロシマのてっぺん』の証を。
安奈は反発するだろう。しかしもはや関係ない。姉妹分だろうと、なんだろうと──あと一歩先まで来た『ヒロシマのてっぺん』を誰にも奪わせたりしない。
今度こそ自分の──自分一人の力でもって、このヒロシマそのものを奪ってみせる。それはもはや、誰に対してかも分からなくなった彼女の『ヒロシマ』そのものに対する復讐の決意であった。
続く
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