第2話 お願いだから地獄であってくれ

いつものように目が覚めた。

目が覚めてしまった。


目覚まし時計は鳴らない。かけた時間の一時間前にはすでに起きているのが日課だ。

早起きでも何でもない。眠れない。寝ていても気が落ち着かないのだ。

まだ起きたくない。

いつものように布団に潜りなおす。頭まですっぽりと埋まり、外界から自分を守るのだ。

どうせ数分しか出来ない無意味な行為だが、少しだけ救われた気がするのだ。

気がするだけ。


「起きなきゃ……」

自分の部屋を出る前に、学校の準備も着替えも全て終わらせる。少しでも家にいる時間を減らすためだ。

もう数年は家族とご飯を食べていない。作ってもらったことも、最後がいつか忘れてしまった。

お腹が鳴る。食欲は無いはずなのに、人の体は呑気なものだ。

「食べた所で、何も生み出さないじゃないか。僕は」

穀潰しという言葉は親から教わった。僕みたいな人間のことを言うようだ。

泣きたくなってくる。みっともないな。

「早く学校に行こう」

憂鬱になりかけた思考を遮断する。どうせ考えても幸せなんてありゃしないのなら、考えないのが一番だ。

流れる水に逆らわず、風に立ち向かわず。そうして生きていくんだ。

自室を出ると、食卓に父が座っていた。

今日の朝ご飯は、目玉焼きにベーコン。野菜が沢山入った味噌汁に、炊き立てのご飯。そして大きな鮭の切り身には大根おろしが添えられている。食卓から立ち上る香りだけでも、またお腹が鳴ってしまいそうだ。

「おはよう……」

父は返事をしない。無言で箸を動かし、ご飯を食べていた。味覚が無いかのように、淡々と。

僕の分は無い。テストの点数が悪いから。

見ないようにして傍を通る。

そこへ、ちょうど母が台所から自分の朝ご飯を運んできた。

「おはよう、母さん……」

「起きたのならさっさと学校に行きなさい。家にいたって勉強しないでしょ」

挨拶は返さず、すぐに皮肉を交えてくる。まだ悲しくなるのは、僕が未熟だから。

「うん」

「お弁当は台所に置いてあるから、必ず持っていきなさいね」

すれ違いざまに母が言う。

お弁当は毎日必ず、凝ったものを作ってくれる。学校の人も、最初の頃は羨ましがってくれるほどのクオリティだ。

人の目に触れることなら、どこまでも理想を目指す。なんともうちの家族らしい。

「行ってくるよ」

どうせ返事は無いのだからと、すぐにイヤホンを耳につけた。

『やぁみんなおはよう! 朝のラジオの時間だぜ!』

朝早く起きてたのに、僕に挨拶をしてくれるのはラジオのおじさんが一番目だ。

『今日は色んなニュースが目白押し! 通勤通学の時に情報をかき集めて、情報弱者と差をつけろ!!』

玄関を閉め、学校へ歩き出す。

この時間が一番気が楽だ。だって、誰にも会わないから。

合わなければ無視もされない。

『株価が上がったり下がったり、今日も大変だぜ! ちなみに俺は株が向いてないって気付かされた朝だったぜ!』

「そういえば今日は小テストだったな。勉強はしたけど……ケアレスミスがあったら怖いな」

テストの事を考えると、指先が震える。走ってもないのに息が浅くなってくる。

『近所のコンビニで一番くじしてた話はしていいの? あ、ダメ? OKじゃあ違う話にするぜ!』

「このラジオ、本当に楽しそうに話してるなぁ、毎朝」

声からも分かる、自分との格差。きっと好きな仕事で、やりがいをもって働いているのだろう。

「羨ましいな……」

『実はここだけの話、今日の俺は肩に湿布を貼ってるんだけど、温める版と冷やす版のどっちか分かる? え? こういう話もしちゃダメなの? じゃあ何の話をすればいいの!』

本当に自由だ。

『ニュースって言ったって、特にここで読むようなものは……え? 速報? それ読む読む』

速報という言葉に、一瞬だけ意識がラジオに向く。


その時、何かに躓いて盛大に転んでしまった。

「いって……」

完全にボーっとしていたこともあり、派手に転んでしまった。誰も周りに人がいなくて良かった。まぁ、普段の生活の方が見られたくないけど。

『速報読むぜ! 緊急だから、みんな耳の穴をかっぽじって良く聞いてくれ!』

ラジオの音量が上がった気がした。

何に躓いたのか目をやる。もしゴミとかなら道の端にどかしておかないと……。


『今世界中に、未知の穴が発生してるみたいだ!』

「……本当だ」

僕の足元にあったのは、紛れもなくおかしな穴が空いていた。

『穴は、始めは小さいが、すぐに人一人が通る大きさに膨らむみたいだ!』

ラジオの言う通り、穴は一気に大きくなり、僕なんか簡単に飲み込んでしまいそうな大きさになってしまった。

『その穴には絶対に入ってはいけない! 現在、複数人が世界規模で穴に落ちているみたいだが、その穴は人を一人落とすと、跡形もなく消えてしまうらしい! いや、俺もよく分からんけど、台本に書いてある!!』

ラジオの音がけたたましい。

「なんなんだよ、これ……」

ラジオで言う穴が、これなのだろうか。こんな超常現象が世界で起きているのか?

「……」

ラジオの電源を切り、イヤホンを外した。

そして、穴に投げ入れてみる。


まるで水に物を落としたような音がした。


そのままラジオは沈んでいき、見えなくなっていく。

「なんなんだ……本当に……」

穴に落ちないように気を付け、そっと穴の奥を覗く。

見た目とは裏腹に、その表面は水が張っているようにこちらの景色が反射していた。


そこに映る僕の表情は、心底笑っていた。


「……!」

自分の表情が不気味過ぎてしりもちをついた。

「なんで笑ってんだ……僕……」

この得体の知れないものを前にして、確かに怯えているのに。

「ふふっ……」

笑いが込み上げてくる。一体どうして……。

「いや、どうしても何も、無いじゃないか」

立ち上がり、ズボンの砂を払い落とす。

「この穴は、人を飲み込むと消えてしまうらしい」

鞄を穴に放り投げる。また水が跳ねる音を残して沈んでいく。

「世界的なニュースにもなっている」


もし、僕がこれに飲み込まれて消えてしまったら、どうなるのだろう。


父さんは自分の教育に後悔する?

母さんは僕へのしつけに反省する?

学校のみんなは僕への態度に悔い改める?


どれも望んじゃいない。

僕は、まだこの世界を恨んじゃいない。

学校は勉強第一の環境だから、こうなってしまうのも仕方ない。

親だって、程度はどうであれ世間の目は誰だって気になる。


じゃあ、何を僕は望んでいる。

こんな苦しい生活に。冷たい家族に。痛い人生に。


「僕は、この世界がまだ嫌いじゃない」


まだ。そう、まだ。


いつか嫌いになる時が来る。きっと遠くない。

嫌いになりたくないんだ。


「ねぇ、君はどこに繋がっているの?」

穴に話しかける。当然、返事は無い。

それでいい。

「お願いだ。僕を地獄に連れて行ってくれよ」


一歩、踏み出す。

右足が穴に入っていく。何の感触も無い。

そのまま、体重を委ねた。


身体が軽くなった気がしたんだ。


落ちていくのが分かる。

落下というにはあまりにも遅い速度で、僕は穴の奥へ落ちていく。

見上げると、入ってきた穴がどんどん遠くへ行く。


「どこに行くんだろう……釜茹でかな。血の池かな。針山かな」

小さな頃に読んでもらった、地獄の絵本を思い出す。

身の毛もよだつ、おぞましい風景の数々。


「そんな所に行きたいんだ、僕は」


地獄に行き、今よりも遥かに恐ろしい環境で生きる。

そうすれば、元の生活が苦痛じゃなくなるかもしれない。嫌いにならなくなるかもしれない。

純粋にこのまま落下死してしまえば、それはそれで良い。未練も無いのだから。


「……あ、母さんの弁当、今日はどんなのだったんだろう」


穴が塞がり、何も見えなくなった。

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