第76話 災厄3
「脳髄影写システム……聞いたことがありません」
小泊がそう言って、首をかしげる。
「無理もない、これは極秘裏に疋嶋君が研究した悪魔のシステムだからね。そして僕もその片棒を担いでしまった。あれはこの世にあってはならないものだ」
「それを詳しく教えてくれ」
疋嶋がそう言うと、深く頷いた。
「簡単に言えば、人の脳をそのままコンピュータ上に切り取るシステムのことだ。脳という情報体を全て実体のないコンピュータに移行し、その中で生き続ける。そして肉体は失い、残った肉体は魂の抜けた肉片と化すのだ」
「だから、陽介の八年間に記憶が消えているというわけね」
野島が指先でこめかみをコツコツと叩きながら、言った。
「その通り。その第一人者となった疋嶋君にはそれ以前の記憶がなかったため、脳の情報を切り取る際、それ以前の脳までを切り取ることができなかった。しかし、一度失った記憶が元に戻ることは奇跡に近い。だが、もしかすると脳の座礁そのものまでもが移行し、あの凄惨な交通事故さえも消え去ってしまったのかもしれないな」
「しかしそんなの不可能ですよ。脳の複雑な回路をコンピュータに移行するだけでも不可能なのに、容量を全て失うなんて……脳というものが肉体ありきであることはメルロポンティが既に証明しています」
「幻肢のことか。逆に考えてみよう。タカマガハラは実態のない夢想現実に実態を体現させるシステムだ。それこそが幻肢を利用したものと言っても過言ではない。しかし脳を騙すタカマガハラと決定的に違う点は、脳自体をシステム化してしまったということなのだ。そして、脳とコンピュータが融合した脳髄影写システムではマイクロチップなどのハードウェアは必要としない。全てがソフトウェアとして存在し、全てが二進法で示される電脳世界の住民と化す。これが疋嶋君の目指す、新世界と言うやつだ」
「そんなことって可能なのですか?」
「専門的な事を言うと、大脳皮質から取り出した当人の記憶をベースとして作った電子ソフトから人工的なニューロン及び幻肢を見せると言われている神経マトリクスを放出することによって、容量を極力コンパクトにして築き上げたんだ。脳の本質を究極に突きつめた脳科学の最高傑作とも言える。しかしこんなのは間違いだ。肉体を失った時、それを生物であると本当に言っていいのだろうか。僕はこの数年間、疋嶋君の隣に立ちながらずっと考えていた」
「俺は確かに助かった。でも記憶が喪失していない人たちはどうなるんだ?」
疋嶋は理論的な話よりも、あのデジタル時計がゼロになった時に起こる災厄のほうが知りたかった。
「言ってしまえば、タカマガハラへの片道切符のようなもの。コンピュータとは違い人体とは不可逆であるため、一度切り取ったものはもう決して戻らない。つまり現在の僕たちの認識で言うと、いくらコンピュータ上で生きているとは言え、脳髄影写を利用する行為は死と同義なのだ」
「しかしタカマガハラにはセフティモードが……」
小泊が微かな声で呟く。
「いまの僕たちに管理権はないだろ。もうあの浮かび上がる悪魔のデジタル時計ごと壊さなければ、疋嶋君の暴走は止まらない。まぁ最後はあのシステム上の疋嶋君を……破壊する以外の道は残っていないのかもしれない」
士錠は少し俯きながら言った。
「分かった。ならやりましょうよ。俺たちだけがあの疋嶋陽介を殺すことができる」
「しかし疋嶋君、あれは君の……」
「違います社長。疋嶋陽介は一人しかいません。社長が見ていた陽介は偽物ですから」
野島が疋嶋に目配せをした後に言った。
「そう……だな。君たちにそこまで言われては僕も引き下がれない。よし、作業を始めよう」
もうステッキを持たず、義足ではないことを隠すことさえしない士錠は、そう言って確かな両足で一歩前へと踏み出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます