ヒバナ産短編小説
hibana
黄色のスカート
「そんなにたくさんお酒を飲んで、何か嫌なことでもあったの?」
彼女は、言った。
僕の部屋は濁った灰色で、かつて流行ったミュージシャンの泥臭いブルースが流れている。そんな僕の周りとは裏腹に、彼女の履いているスカートは鮮やかな黄色だ。
僕は缶ビールをテーブルに置いて、げっぷを一つ、した。
黄色は雨の色だ。ほら、外も雨が降っている。「そんなスカートを履いているから」と僕は言った。
「気に入らないの?」
「雨が降るんだ」
「飲みすぎよ、会話にならないじゃない」
それじゃつまらないわ、と彼女は拗ねる。確かにそうだ、せっかくこうして彼女が来てくれたと言うのに、僕はいつまで不貞腐れてビールなぞ飲んでいるのだろう。ぬるいビールは苦みだけを、僕の舌に残した。
「ごめん」
「いいのよ、ねえ、映画でも観ましょう」
そう言って、彼女はテレビのラックを探る。埃をかぶったビデオが何本か、テーブルの上に並べられた。
「ロマンスが観たい。いいでしょ、ハッピーエンドの映画なら」
僕は生返事をしながら、少しめくれたスカートの下の白い足を見ている。おかしいな、と僕は思った。上手く頭が働かない。彼女の言う通り、飲みすぎたみたいだ。
不意に彼女が、外を指さす。
「あれ、前に私が来た時からずっとぶら下げてるのね」
僕も億劫ながら振り向くと、外の洗濯物干しに白いてるてる坊主が所在なさげに揺れていた。ああ、と僕はうなづく。
「君が作った」
「そう、私が作った」
「でも天気は雨続きだ」
「やっぱり安物のティッシュペーパーじゃダメなんだわ」
そんな風に嘆く彼女は可愛らしかった。僕はテーブルの上の缶ビールに手を伸ばして、「もうずっと雨でいい」と呟く。それを目ざとく彼女は見とがめて、一瞬早く缶ビールを僕から遠ざける。
「馬鹿だね」
それはまるで、僕の母が幼い僕を叱った時と同じ声音だった。そうか、馬鹿か。僕はそっと目を閉じて、壁に寄りかかる。だからって、どうすればいいんだろう。
なぜ黄色は雨の色なの、といつか彼女に聞かれたことがある。僕はいつでも黄色を見ると、雨を連想してそれを伝えた。すると彼女は不思議そうな顔をして、『雨は水色じゃないの?』と首をかしげたものだった。
いま、彼女の黄色いスカートを見て思い出している。そうだ、レインコートと長靴だ。
幼いころ、僕らのレインコートや長靴といえばみんな黄色だった。灰色の空の下で僕らの黄色はひどく鮮やかだった。
あれはなぜなのだろう。視界の悪い雨の日に、運転者などが見えやすいようあんな鮮やかな黄色だったのだろうか。それならば、なぜ――――
「君は車に撥ねられて死んでしまったのかな」
彼女が一瞬、虚を突かれたような顔をする。それからすぐに、穏やかな笑みを見せた。「ほら」と僕の古いブラウン管を指さす。ハッピーエンドになるよ、と。
要らない、そんなもの。彼女のいないハッピーエンドなんて。もうずっと雨でいい、彼女の死んだあの日と同じ雨で。
「あのね、私にとって黄色は」
聞きたくない。どうして僕はこんなに悲しいのに、君はそうやって。
「ハッピーエンドの色なの。素敵でしょ」
そうやって、清々しく笑うのだろう。まるで晴天のように。
彼女が立ち上がる。僕は慌ててその手を掴もうとしたけれど、ダメだった。ただ空を切ったその手を恨めしげに見ていると、玄関のドアが開け放たれる音がする。僕も立ち上がり、彼女の後を追った。
傘もささず走って行った彼女は、ひどく雨に濡れている。たおやかに揺れる彼女のスカートだけが、光を放ってまぶしかった。
途中で、彼女は振り返る。おどけた表情でスカートを摘み、ぺこりとお辞儀をした。それから器用に片足で回り始める。
ダンスしていた。鉛色の重い空の下、軽やかに。
僕も一歩、外へ出る。大粒の雨が髪を濡らし、頬を濡らした。彼女は優しい表情でくるくると回り、僕を見る。僕は一歩二歩と、恍惚の表情で彼女に近づいた。
くるくる、くるくる。
ああ、車に撥ね飛ばされた彼女の傘が、踊るように飛んだシーンを覚えている。たくさんの、彼女と過ごした場面が、浮かんでは消え、浮かんでは消えた。
死ぬことって怖いでしょう、と彼女は言ったことがある。もちろん、生きている時だ。まだ幼少のころに父を亡くした彼女は、幼いながらに死のことをよく考えたという。
『死ぬことって痛くて苦しくて怖いでしょう。でもね、だから』と彼女は笑っていた。
『生きることは楽しくなくちゃいけないよ。そうやって均衡をとらなきゃ』
じんわりと、目頭が熱くなってくるのを感じる。忘れていた。僕たちはそうやって、日々を精一杯に楽しんできたはずだった。
『楽しく楽しく楽しく生きて、気づかないまま死ねばそれがハッピーエンド』
確かに彼女の死は、誰もが羨む、世界中で一番のすさまじく大変に、ハッピーエンドだったというのに。
やがて彼女は動きを止め、静かに空を見た。僕もつられて、見る。雲の隙間から、弱々しくも美しい陽の光が差していた。いずれ雨がやみ、太陽が顔を出すだろう。
彼女は笑っている。僕はうなづいて見せた。そうして、そうやって、
雨にとけてゆく、彼女の――――黄色いスカート。
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