相棒はエトランジェ

和辻義一

Episode 1 始まりは雨

 ことの始まりは、私立探偵として浮気調査の依頼を受けて、あららぎ市内の住宅街の一画で調査対象者の張り込みをしていた時のことだった。


 ややくたびれたチャコールグレーのスーツに身を包み、レンタカー屋で借りた白いライトバンの運転席で仕事をさぼって居眠りをする営業マンのふりをしていた俺の視界に、かなり年季の入ったアパートの一角でのやり取りが見えた。


 遠目にしか分からなかったが、まだらな金色に髪を染めた年若い娘と、アパートの大家と思わしき中年の女性が、何やら長時間話し込んでいた。明らかに不機嫌そうな顔の中年の女性に対して、若い娘は申し訳なさそうに何度も頭を下げている。想像する限り、隣近所との何らかのトラブルか、家賃の滞納といったところが原因だろう。


 しばらくすると、中年の女性は何事かを娘に言いつけた後、不機嫌な様子のまま立ち去っていった。その背中を、若い娘が何度も頭を下げて見送っていた。あの様子を見る限り、娘は隣近所とトラブルを起こすようなタイプではなさそうだ――となると、話が揉めていた原因は、おそらく家賃の滞納か。


 いずれにせよ、俺にとってはどうでも良いことだった。今は約一か月ぶりに舞い込んできた仕事に集中する時だ。かつて二人で探偵事務所を切り盛りしていた時にはそれなりに繁盛していたのだが、一人で仕事をするようになってからは赤字経営が続いてしまっている。


 ちょうどその時、調査対象者の女がこじゃれた造りの別のアパートから姿を現し、どこかへ向かおうとしていたので、俺の意識は当然ながらそちらへと向いた。一人で行う尾行は気が抜けないし、ほんの一瞬の油断で相手を見失ってしまうことも少なくない。世間のどこにでも転がっていそうなトラブルに、いちいち意識を割いている場合ではなかった。


 次に娘の姿を見かけたのは、それから一週間後のことだった。その日は朝から、あまり天気が良くなかった。


 ここ連日の張り込みと尾行調査の結果、調査対象者の女が単身赴任中の夫に隠れて浮気をしていることは、ほぼ確定していた。あと必要な作業は、浮気の証拠集め――ありていに言えば女が浮気をしている現場の証拠写真を出来るだけ多く撮影することと、依頼人である女の夫への調査報告書の作成ぐらいだ。油断は禁物だが、今回の依頼については、ほぼ片が付いたと言っても良い。


 その時も先日と同じく、仕事をさぼっている戸別訪問の営業マンのふりをして、同じ格好、同じクルマの中にいたのだが、俺の視界の片隅では、また例の中年女性と若い娘のやり取りが目に映った。


 今回は中年の女性の様子が、とても分かりやすかった。最初は不機嫌な表情のまま娘の話を聞いていたようだったが、その話の途中で遠目に見ても激高しだしたのがはっきりと分かった。どうして良いのか分からないのであろう娘が何度も頭を下げ、隣近所の部屋に住んでいる赤ん坊を抱いた若い女性が、何事が起こったのかといった雰囲気で、その様子を遠巻きに見ている。


 しばらくの間、中年の女性が居丈高に何やら言っている様子が見え、肩を落とした娘がすごすごと部屋の中へと消えていく。それから二十分程が経っただろうか。娘はやや大きめの黒いダッフルバッグ一つを手に部屋から出てきて、意気消沈した様子で中年の女性に部屋の鍵らしきものを渡した。理由は定かではないが、俺が目にしたのは住んでいた部屋を追い出された哀れな娘の姿だった。


 中年の女性が立ち去った後も、娘はしばらくの間、自分が住んでいた部屋の前で立ちつくしていた。うつむき加減の娘に、先程の若い女性がおずおずと声を掛ける。何度かの言葉のやり取りのあと、泣き出した娘の背中を、赤ん坊を抱いた若い女性が何度もさすっていた。


 嫌なものを見てしまった。だが、俺の意識はすぐに本来の仕事へと向いた。例の調査対象の女が、アパートの部屋の鍵を閉めて歩き出すのが見えたからだ。これまでの行動パターンで行けば、女はマイカーである赤いコンパクトカーに乗って出かけるのだろう――その行き先はおそらく、浮気相手である年下の大学生が住むワンルームマンションのはずだ。俺は意識を切り替え、倒していた運転席を起こしてシートベルトを締めた。


 調査対象の女がとの逢瀬を楽しみ、ようやくアパートに戻って来た時には、天候は曇りから雨に変わっていた。


 女が自分の部屋に戻る姿を遠目に確認し、腕時計に目を向けて現在時刻を確認した俺は、クリップボードに挟んだ記録用紙にその時刻を記入した。二十三時十五分。


 女が浮気相手の大学生のワンルームマンションへと姿を消したのが十一時二十七分で、それから約四時間後に二人が揃ってワンルームマンションから姿を現した。二人は近所のファミリーレストランで食事を済ませた後、スーパーマーケットで仲良く買い物をして、再びワンルームマンションに戻ったのが十七時五十五分。部屋の電気はしばらくの間点いていたが、十九時四十八分には部屋の電気が消え、再び部屋の明かりが点いたのは二十二時九分のことだった。時節柄、二人とも口元にマスクを着用していたため、見失わないように尾行するのはなかなか骨が折れた。


 記録用紙に記された女の行き先と時刻の一覧を見て、俺は思わずため息をついた。その理由は、女と女の浮気相手の行動の経過に呆れたことでもあれば、そんな女の尻を追い回して逐一その行動を記録していた自分に対する虚しさでもあった。


 いずれにせよ、これが今回の俺の仕事だ。依頼人からの要望に沿って淡々とやるべきことをこなし、報告して報酬を受け取る。それだけのことだ。


 俺はふと、若い娘のことを思い出して例のアパートに目を向けた。娘が住んでいたであろうその部屋には、当然のことながら明かりは見えない。ライトバンの屋根を叩く雨の音はかなり大きく、クルマのフロントガラス一面に当たる雨粒のせいで前が見えない。


 前方が見えないのに少しいらついて、無意識にワイパーを動かした。その時、白々とした街路灯の光の下、近くにある公園のベンチに座る小さな人影が見えた。


 嫌な感じがした。今見えた光景を、見なかったことにするという無難な選択肢を選ぶべきだと、脳裏で声がした。だが、ベンチに座る人影の膝の上に抱えられたやや大きめのダッフルバッグには、嫌でも見覚えがあった。


 口元のマスクをずらし、ハンドル横のドリンクホルダーの中にあった飲みかけの缶コーヒーに手を伸ばして、その中身を口に含んだ。今日は十二月二十四日、クリスマスイブ。有名な歌の歌詞のように、この雨は夜更け過ぎに雪へと変わるのだろうか。ホットで買ったはずの缶コーヒーの中身は既に冷え切っていて、夕食代わりに食べたコンビニエンスストアのおにぎりの残りと胃の中で混ざっていくのが、何となく感じられた。


 世間がクリスマスイブで浮かれている中、みじめな夕食を取りながら、みじめな仕事を片付けた後のことだ。流石にもう、このまま家に帰ってゆっくりしたい。これ以上の面倒事は御免だ。


 クルマのエンジンは掛けたままだった。十二月の寒空の下、クルマのヒーター無しでは流石にきつい。それが夜ともなれば、なおさらだ。右足でブレーキペダルを踏みながら、左手をサイドブレーキレバーに伸ばす。レバーの先端にあるボタンを押してレバーを下げ、右足をアクセルへと踏み代えて走り出す。それだけで良い。


 俺は舌打ちして、サイドブレーキレバーの代わりに、助手席の足元に置いていた安物のビニール傘へと手を伸ばした。そのまま運転席のドアを開け、外に出た拍子に降りしきる雨に濡れたことでもう一度舌打ちしながら、近くの公園へと歩き出す。


「こんなところで、一体何をしているんだ」


 我ながら、とても馬鹿馬鹿しい言葉を口にしていると思った。相手が今そこにいる理由を、俺はだいたい知っている。


「……他に行くところがナイんです」


 濡れた長い髪で顔を隠した、寒さに震えた娘の声が返ってきた。うつむいていることもあって、相手の顔はよく見えない。少し癖のある言葉のイントネーションが気になった。


「ずっとここにいるつもりか」


 そう尋ねると、消え入りそうな声で娘が答えた。


「他に、行くところがナイんです」


 涙交じりの声だった。降りしきる雨の音が響く中、その声を聞いていると、何だか無性にイライラしてきた。


「すぐそこに、俺のクルマが停めてある。乗りたきゃ好きにすれば良い」


 半ば吐き捨てるように俺は言った。何故そのようなことを口にしているのか、自分でもよく分からなかった。


 娘がようやく顔を上げた。日本人では無かった。夜の闇と口元のマスクではっきりとは見えないが、目元がとても美しい娘だった。


「俺はさっさと家に帰りたい。ようやく仕事が終わったし、何より寒さが身にこたえる」


「……」


「これから五つ数える間に決めてくれ。気が進まなければ、この話は聞き流せ」


 それから俺は、少し早めのペースで数字を数えた。五まで数え終わり、俺が背を向けて歩き出したところで、ようやく娘が口を開いた。


「連れて行ってクダさい、お願いシます」


 娘がのろのろと立ち上がり、おぼつかない足取りで俺の後に続いた。ダッフルバッグがとても重そうだったので、娘の手から半ば奪い取った。驚いた娘が、小さな声を上げる。何が入っているのか全く分からないが、そのダッフルバッグは俺の想像以上に重かった。

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