第二十六話 三日月の誘惑


「な、何か用なの…?」

 ドキドキがバレたくなくて、嬉しいのに冷たい言い方をしてしまう。

 そんな自分が、ちょっとイヤ。

「はい。自分自身でも、困ったモノだと自覚しております」

「?」

 なんだか真面目な悩みっぽい。

(葵くん、そんな深刻な悩みとか…あるのかしら)

 気になる。

「何か、悩み…?」

 少年は、綺麗な三日月を見上げつつ答える。

 月光に照らされるその横顔は、いつも以上に端正だ。

「僕は、人としての由美子先生を尊敬しています」

「そ、それは どうも…」

(いつも授業にダメ出ししてるクセに…!)

 と、個人的な感情は置いておいて。

「ですので、先ほどの下山の件で、由美子先生が僕にヤキモチを灼く。などという事は、有り得ないでしょう」

「ぁあ当たり前でしょう…!」

(ごめんなさい嫉妬でメラメラしてました…っ!)

 心の中の由美子が、みんなで詫びる。

 そんな担任教師の心情を知ってか知らずか、三四郎は正直な気持ちを伝えて来た。

「ですが…僕はやはり、由美子先生になんとも思って貰えなければ、寂しい…と、感じてしまいました」

「…!」

 月を見上げる横顔が。少し寂し気だ。

(そんな事、言わないでよ…!)

 女子を助けた男子に嫉妬するとか、そんな自分を叱咤してばかりなのに。

「で、でもほら…ぁ葵くんは、その…困ってる女子を助けたんだしぃ…それなのに、嫉妬とかしちゃったら、ねぇ…」

 落ち着かない心のままに溢れた言葉の中で、少年は敏感に感じ取ったらしい。

「! つまり、女生徒でなければヤキモチを灼いてくださった…と解釈をして、良いのですか…っ?」

「うっ!」

(しまった!)

 はい正解です。

 というか不正解です。

 女生徒相手だろうとヤキモチを灼きました。

「ぇえっと…」

 どう取り繕えば良いのか、戸惑って目が泳いでしまう。

 対して三四郎は、覗けた由美子の真意がよほど嬉しいのか、語気も弾んで強くなって、視線にはいつも以上の熱と圧が込められている。

「由美子先生、いかがですか?」

「そ、それは…っ」

 まずい。

 どう答えれば。

 頭の中が混乱して、なんだか追い詰められてしまう。

「由美子先生…!」

 答えを求める三四郎が、更にグイっと迫ってくる。

 いつの間にか、由美子の背中が扉を背負ってしまっていた。

「だ、だから…っ!」

「はい!」

 端正な眼鏡フェイスがすぐ目の前まで接近をして、頭が完全に混乱。

「そっ、そうですっ! 私っ、あの時は気づかなかったけどっ、後から思い起こしてっ、女子をおんぶしたさんしろっ–ぁ葵くんにっ、ヤキモチ灼きましたっ! 恥ずかしいですっ、教師失格ですっ! ごめんなさいっ!」

 学生による人助けの現場でヤキモチとか、教師としても大人としても女性としても恥ずかしくて、涙と鼻水が溢れそうだ。

 年上女性の告白に、少年はしばし呆気にとられる。

「先生…」

「~~~っ!」

 恥ずかしい。

 隠れたい。

 今すぐ逃げたい。

 こんなヤキネチ灼きなんて、呆れられて当然だわ。

 でも抱きしめて。

 と、今にも泣きそうな由美子は、突然、大きな力で抱きすくめられた。

「え…」

 強く抱くそれは、三四郎の両腕と、胸の中。

 鍛えられた腕が力強くて、頭を押し付けられる胸板が厚くて、肩幅も包まれるほどに広くて、抱きすくめられる身体が苦しい。

「あ、あの…ぁあ葵くんっ!」

「由美子先生…僕は、すごく嬉しいです…っ!」

 いつものからかいではなく、本気で嬉しいのだと、声でわかる。

「で、でも…私…教師なのに…」

 自己嫌悪になりそうな心なのに、少年は本音で受け入れてくれていた。

「ナマイキかもしれませんが…僕は由美子先生を、可愛い女性だと感じます!」

「え…!」

 登校時などに挨拶をくれる男子の中には、可愛いとか美人だとか褒めてくれる男子も、いる事はいる。

 しかし三四郎に言われると、気持ちが全く違ってしまう。

 顔を上げられないくらい恥ずかしい。

 泣きそうなくらい嬉しい。

 もっと見て欲しくなるくらい見て欲しい。

 もっと苦しくなるくらい抱きしめて欲しい。

「あ、葵くん…」

 抱きすくめられるまま、頬を取られて視線を奪われ、真正面から見つめられる。

 このまま、私。

 キスをされても。

 キスをしてほしい。

「由美子先生…!」

 少年の眼差しと声からも、キスをしたいと、熱が伝えられていた。

「………」

 優しい月明りの中で、由美子はつい、瞼を閉じてしまう。

「………」

 目を閉じていても、少年の顔が近づいて来るのが、解る。

 キスを許してしまう。

 禁忌。

 頭のどこかでそう自覚をしても、自分では止められなかった。

 唇が静かに重ねられる、その直前。

 –ガタん。

「「!!」」

 扉が音を立てて、二人は一瞬で踊り場の左右へと、距離を取る。

「あ、あー月が綺麗だわー」

 三日月を背に、大きな声の由美子。

「あ、ああゆみっ–ま松坂先生に、見つかってしまいましたか!」

 ヘタすぎる芝居で取り繕う三四郎。

「「………」」

 恐る恐る扉へと視線を向けるも、誰かに見つかったとかでもなく、単に古い扉が風で揺れただけだった。

「「……ほ…」」

 グッタリと安心をして、お互いに視線が合う。

 ムードが壊れると、キス寸前だった恥ずかしさが、ゴォっと炎のように襲い掛かってきた。

「ほ、ほほほ…ぇえっと…」

 どうしよう。

「ざ、残念であります」

「そこは素直じゃなくていいから…っ!」

 とにかく、由美子が捧げようとしてしまったキスは、未遂に終わった。

「も、もう消灯してるでしょ? 速く戻りましょう」

「はい。あ、その前に、五分だけで良いので…」

 そう言うと、三四郎は街の明かりへと向き直る。

「?」

 つられて、由美子も踊り場の柵に肘を乗せて、夜の街を眺めた。

 三日月が浮かぶ夜空は星々がきらめき、静かな街は漆黒の中で宝石のようにキラキラと眩く輝いて、美しく優しい営みを感じさせていた。

「…綺麗ね」

「はい…。由美子先生と一緒に、こういう景色を眺められる事も、僕は ときめいてしまいます」

「…ぅん…」

 二人は少しの間、一緒に夜景を眺めて過ごした。


                     ~第二十六話 終わり~

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