第7話2-3:よく喋る人
スマホを胸ポケットに収めた折り鶴女子はバランスを崩してその場に足をつきました。その勢いでスマホを落としてしまい、跳ねないスーパーボールみたいにコンクリに叩きつけられていました。カバーもつけていなくて黒い本体が上を向いていました。
「あーあ。やっちゃった」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫よ、ほら」
折り鶴女子は拾ったスマホを新種の昆虫を見つけたように得意げに見せてくれたら嬉しかったのですが、相変わらずの鉄仮面でした。しかも、そのスマホ画面は元々からボロボロすぎて大丈夫か否かが判断できませんでした。折り鶴女子の鉄仮面がボロボロに崩れ去ってくれたら嬉しいのにと思いました。
「大丈夫なら良かったですけど」
「でも、あなたも大丈夫と聞く人だったのね」
「どういうことですか? 普通は聞きますよ」
そう言いながら、折り鶴女子の思考を理解しました。このタイミングで大丈夫と聞く人間は普通の人であり、僕は普通の人であり、がっかりされる対象物なのです。電車の通る音が僕たちの間を引き離すように通り過ぎます。
「大丈夫と聞いて何の意味があるの? それに対して大丈夫と言って何の意味があるの? 納得のいく根拠と理屈を教えて欲しいわ」
「まぁ、社交辞令というものじゃないですか? 人間関係を円滑に進めるための」
僕がカッコ付けのために即興で発した言葉に折り鶴女子は目を金属を見つけたカラスのようにギロリと輝かしました。僕は再び失言をしたのではないかと心の中で初めてのお使いのように慌てふためきました。折り鶴女子の冷たい目線上に入ってくるその手が大きく僕の顔を握りつぶそうかという圧迫感で迫ってきました。
「なるほど、そういう考え方があったのね」
「……はい?」
「そうよ。そうだわ。困ったときに大丈夫かと聞くことは、人間関係を円滑にするために役に立つわ。どうしてそんな簡単なことに気付かなかったのかしら、うん。それは、近親相姦がダメな理由に対するレヴィストロースの理論に似ているわ。近親相姦をしたら交流関係が知り合いだけの狭い世界になって生存競争が厳しくなるから、そうならないように遠い人と結婚するようになったことに似ているわ。なるほど、生存競争が厳しくならないために媚を売るわけね」
呆気にとられている僕の肩に手を乗せながら折り鶴女子は難しそうな言葉を呪文のように並べていました。その手袋をはめていない手は学ランの上からも冷たく感じ、僕の心を凍らせて握りつぶすのではないかと思う圧力を感じました。まだその北極のような凍てつく時間は続いていきます。
「そういえば知っているかしら、人間関係と言ったらジンメルがいいことを言っているわ。社会とは関係性だと。この世には個人だとか社会だとかいうものがあるといわれているけど、どちらも存在しなくてあるのは関係性だけだというのよ。デカルトが、われ思う故に我有り、と言ったけど我なんか無いと言うのよ。そして、その関係性が多いほど、交遊する人が多いほど個性が強くなるんですって。だから、一人でいることで人間強度が高くなるなんて嘘よ、逆に弱くなるわ」
僕のことを無視してまだ続きます。
「そういえばカールマルクスって知っている? いろいろと言っているんだけど、そのうちの1つとして、この世の様々な考え方は資本主義によって作られているというのがあるのよ。思想も法律も宗教も全ては金儲けのために作られるということよ。でも、それとは逆の考え方もあって、マックスヴェーバーが言うに、プロテスタントという宗教から資本主義ができたという考え方もあるのよ。一生懸命宗教活動していたら勝手に金儲けしていたという考え方よ」
「……」
「あと、カールマルクスが言った他のことに、階級闘争というものがあるの。簡単に言うと、レベルの違う人同士が喧嘩するの。金持ちと貧乏人、上司と部下、貴族と平民とが喧嘩するのよ。それは今も起きていて、特に現代の日本で強いのは学歴や学校歴による件かね。ちなみに学歴とは大卒や高卒のこと、学校歴とは東大卒京大卒のことになるわ。そういったことによる差別がありますので、気をつけるのよ」
よく喋る人だ。こんなによくわからない話を一方的に話したら誰も近づかないはずです。そういう性質なのか厄介払いをしたいのかだと思いますが、おそらく前者でしょう。
「賢いんですね。僕にはさっぱりです」
「別に賢くないないわ。こういう会話についてこられないのなら無理に合わせる必要はないわ。無理はしないで」
折り鶴女子は言い終わると再び僕を置いてきぼりするかのごとく自転車をこぎ始めました。僕が思うに、彼女はマイペースだけれども不器用なりに優しさも兼ね揃えていました。僕はこの女子を一人ぼっちにさせてはいけないと直感しました。
「無理はしていません。いつでも話し相手になりますよ」
折り鶴女子はすぐに自転車を止めて、一息おいてから振り返りました。その振り返る姿は天女が羽衣をまとって飛び立つところか、はたまたかぐや姫が月に出発するところのようでした。夕暮れの茜色の光を反射した彼女は無機質な顔の中にも覚悟を決めたように唇を噛み締めていました。
「ねぇ、知っている? 死人とは話ができないのよ……」
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