第24話4-4落ちていきました

「あなたは偉人になる素質を持っています」

「――嫌味なの?」


 急に言い合いを邪魔されて、心夢は嫌な流し目でした。それは相手に恐怖を植え付けるには十分なものでしたが、その恐怖を植え付けられる素質が十分に男にはあったはずですが、男はその時に全く恐怖を覚えていませんでした。むしろ、先ほどの恐怖を振り払う希望を心夢に見出していました。


「違うのです。あなたは今、大切な妹さんを助けるために人殺しをしようとしましたね。それも、何のためらいもなく。」

「そうよ、悪い?」

「いえ、素晴らしいと思います。それは『罪と罰』における偉人であり、ラスコーリニコフがなりたくてもなれなかったものなのです。それになれるとなれば、あなたは本当にすごい人なのです、僻みではないですよ」

「でも、良心の呵責に苛まされるかもしれないわよ」

「それならそれで、ラスコーリニコフのように作品の人物のようになることができるじゃないですか。僕にはできない素晴らしいことだと思いますよ。僕だってね、そういう人物か偉人になりたいのです」

「自分にはそんな根性はないと言っていたじゃない」


 男は神様と遭遇したように興奮して喜んでいました。心夢は急な男の変貌に狂気を覚えて後ずさりしました。その距離を男はずいっと詰めて、奇妙に思うほど嬉々と輝いた目を蒸発させそうなくらい見開いていました。


「そうですよ、そう思っていましたよ。でも、さっきあなたの妹さんを殺そうとした時に、本当に殺そうとしてしまいそうになったのです。僕は自分でも知らないうちに偉大な一歩を進む根性を持っていたのだと気づいたのです」

「世迷言ね」

「僕も自分で自分が世迷言を言っていることには気づいていますよ。でも、この高揚感、止めることができないのです。自分自身が一皮むけて大きく育とうとしている、このドロドロとした血肉のうねりが怖いのです」

「私はあなたが怖いわ」


 心夢は本心からでした。それは、最初の幽霊かと思っていた時から、祖父のことで追い詰められたとき続く恐怖でした。細かく分類すると違う恐怖かもしれませんが、大きくみると同じである、男から受ける恐怖です。


「そういいますけど、僕はあなたが怖いです。妹のためとはいえ、いきなり殺そうとするなんて、普通じゃないですよ。あなたの思考回路は普通と違います」

「あなただって、いきなり妹を殺そうとするなんて普通じゃないわ」

「それを言い始めたら、あなたの妹さんだって普通じゃないですよ。祖父を殺して、そして、なに食わぬ顔で白を通そうとしているのですよ。ラスコーリニコフがなれなかった大きな目的のためには人の犠牲をなんとも思わない偉人ですよ」


 男は小説の登場人物に取り憑かれたような話をずーっと続けていました。神との交信か神からの啓示か、知らぬ人から見たらたしかに世迷言を放つ人にしか見えませんでした。少し知る人から見れば、心夢から見たら……世迷言を放つ人にしか見えませんでした。


「その件だけど、本当なの? 証拠はあるの? 私の時と同様に勝手にあなたの考えを押し付けているだけじゃないの?」

「証拠はないですが、可能性は高いです。聞いてみたら自白するかもしれません。お願いします、手伝ってください」

「断るわ」

「どうしてですか? 妹さんはとんでもない殺人鬼かもしれないのですよ? しかも、あなたを利用しようとしたかもしれないのですよ?」

「そうかもしれないけど、私は妹の味方につくことにするわ。それでもし妹が殺人犯だったら、わたしも一緒に裁かれるわ。青臭い考え方と思うかもしれないけど、私は妹のためにそうする所存だわ」

「どうしてそこまで庇うのですか?」

「妹だからよ。それ以外に理由はいる?」


 心夢は胸が躍動するくらい大きく息をして覚悟を示す言葉を述べました。それは男との対立を意味しており、今の狂人まがいの男からどういう反応が返ってくるのか危惧して顎から汗が落ちて胸の上に落ちました。その汗は服の上に広がり、白いtシャツを黒い返り値のように濡らしていました。


「そうですね。十分な理由だと思います」

「わかってくれた?」


 男は理解したと言いました。心夢はその言葉を聞きながら、手で顎の汗を拭いました。男は理解したと言いましたが……


「正直言うと、わからないのです。僕は別に妹がいるわけではないので。でも、小説とかではよくありそうだなぁと頭では理解しました」

「とにかく、わかってくれてありがとう」

「でもね、今の話を聞いて、正直言って羨ましいと思いました。羨ましいといっても、姉妹愛がではないですよ。小説などの作品の登場人物のような言動をです」


 男の発言で、心夢はある理解をしました。それは、男が自分を理解していないということであり、自分も男を理解していないということです。それは最初の出会いから続いていることであり、これからも続きそうなことだと心夢は思っていました。


「またそういうことを言う」

「だって、そうじゃないですか? 姉妹愛のための自己犠牲、世界を敵に回しても愛する人を選ぶ、これほど作品にふさわしい酔狂なことはありません。そんな素晴らしいものを見せ付けられたら、私がしようとしたような狂人的な殺人行動なんて、作品にふさわしくない日常的なことだと思うのです」

「どっちも同じようなものよ」

「いいえ、違います。少なくとも、僕には違うものだと思います。それは僕の価値観であるので、あなたには理解できないと思います」

「初めから理解できていないわよ」


 心夢は突き放すように言いました。胸の上についた汗を手で払うのと同じように言いました。この男を自分たちの目の前から追い出さないとややこしいことになる気持ちでした。


「そうですか、それならそれで大丈夫です。それならわからないついでに僕の今の考えをもう1つ言います。いいでしょうか?」

「それで去ってくれるのなら」


 心夢は心の中で心臓が破れるくらいガッツポーズをしました。男が去ってくれるのが本当であるかは疑問に思いましたが、可能性が生まれたことは嬉しいことでした。それはまるで、真犯人が妹かも知れないと可能性が生まれた時の男の時と同じような気持ちでした。


「ありがとうございます。僕が言いたいことは、やはり僕はどこまで行っても物事に憧れるだけで行動できない人間だということです。先程は、妹さんに入ったのですが、真っ当な職で普通に暮らしていこうと決心したのですが、直ぐにそれができないと実感してしまったのです、残念なことに」

「残念ね」

「ええ、残念ですが、仕方のないことなのです。3つ子の魂百までとは言ったものです。普通の道で暮らしていこうと決心した瞬間に人殺しをしようとするなんて、とんだ行動力のなさです」

「それは行動力があるのでは?」

「僕が言いたいのは、信念を押し通す行動力なのです。普通に生きていこうという信念があったら、人殺しというのはブレたことでしかなく、行動力があるとはいえないのです。初めから人殺しをするという信念があれば、人殺しをすれば行動力があるということができるという、そういう違いです」


 男は燃え尽きる前のロウソクの火のように熱く輝いていました。しかし、心夢からしたらそんなことには何一つ興味なく、残念ともなんとも思っていなくて、ただただ早く終わって欲しいだけでした。暑いし意味がわからないし安全になりたいし、早くここから去りたい気持ちは、この男とのファーストコンタクトから継続的に積み重なってものであり、今がその最高潮になっていました。


「あなたはそういう理屈なのね」

「そうなんですよ。でも、よく考えたら人殺しを達成できていないからノーカウントという言い逃れもできると今話しながら思いました。そして、結局人殺しができていないから、どちらにしても中途半端な不実行野郎とまたまた話しながら気づきました」

「いろいろ考えすぎではないの?」

「そうなんです、考えすぎて行動しないのが僕の悪いところなのです。それは前にも言いましたっけ、言いませんでしたっけ?事件当時のあなたではないですが、僕も記憶が曖昧になってきました」

「どうでもいいけど、妹のことはどうするつもりなの?」


 話が長い、言いたいことは1つではなかったのか、イライラする、そういう言葉が心夢の頭の中に駆け巡っていました。男が苦しみ喜び悲しみながら放つ言葉など放っからシャットダウンして、言葉の断片を合わせていただけでした。そんなことも知らずに、男は自分の言葉に耳を傾けてくれた心夢に感謝の気持ちを持っていました。


「それなら大丈夫です。もうどうせ僕には勝ち目はありませんからね。どこまで行っても証拠なんか出ないでしょうし、あなたたち姉妹が結託をした時点で僕には勝ち目はありません、今までどおり」

「でも、妹を殺すのではないの、さっきみたいに?」

「いいえ。それはもうないと思います。といっても、信念を実行する能力がない僕には自信がありませんが。でも、普通に考えて、さっきが異常だっただけで、普通は殺人なんて犯さないですよ、あなたの妹さんと違って」

「妹は違うわ」

「これは失敬。あなたの妹さんは殺人としていない……でしたね。了解しました」


 心夢が大切なことで敏感に訂正を求めたら、男は軽い若者のような口調で快く訂正に応じました。先程までの狂気は心夢への一方的な独白で解毒されたようです。急に接しやすい姿へと変貌した男にすら心夢は興味なしでした。


「その言い方、腑に落ちないわ」

「まぁ、いいじゃないですか、これで終わりにしましょう。この前も言いましたよね、終わり方は意外とあっけない、と。だから、あなたもあなたの妹さんも殺人を犯していないし、僕ももうあなたたちに関わらない、それでいいでしょう?」

「わたしはそれでいいけど」

「では、僕はこれで」


 男はその場に長い眠りから覚めたように背伸びしながらあくびをしていました。ソロを見ることもせず、心夢は晴海の方に目を落としました。晴美は立ち上がるタイミングを失い、熱地獄に罰せられているかのように座り続けていました。


「晴美、大丈夫」

「えぇ、ありがとう」


 座り込んでいる妹を引っ張り上げた反動で、心夢の背中は勢いよく男の体に当たりました。


「あっ!」

「えっ?」

「!?」


 男の体は橋から落ちて行きました。

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