第0章 潮騒は夜の色
蒼井月彦の場合
「あ~おたん」
「げ」
正しくひょっこりという擬音そのままに、目の前に逆さまの顔が現れた。顔がうるさい。伏せがちになっていた目をしっかと開けば、どうやら目の前の女は限界まで体を曲げてまで私を覗き込んでいるらしかった。阿呆か?
「『たん』とはなんだ、『たん』とは」
「だァってあおたや、そういうのにとっては垂涎ものっぽいじゃん? わらうわー」
「笑うな。そして『たや』呼びもやめろ。なんだそれは!」
カチャカチャと音を立てて眼鏡を掛けると、少しばかりぼんやりとしていた世界が鮮明になる。その鮮明になった視界の中で、女は口角をにんまりとでも言いそうなほど三日月にひん曲げていた。
(相も変わらず頭の悪そうな女だな……こんなのが──だとはまったく、世も末か?)
「あ~! 今あおたや失礼なこと考えたじゃろ。そんな気がする!」
「だから『たや』はやめろと言っている。こっちこそさっきから侮辱されている気がするんだが……私の気のせいか? ん?」
「さあ? どうだろね」
「おまえの話なんだが」
「しーらない。……あ、これダジャレね! ふふん、
「うるさい馬鹿女」
「椎楽ちゃん傷ついたナ🥺。とゆーことで放課後校舎裏まで来てネ! それまでちゃんと生きてたらい~ね、蒼井」
じゃ、バイビ☆と変わらないウザさのままに女は自分の席へと帰っていった。それと同時にガラピシャリと音を立てて教師が入ってきたのだから、まったく運のいい女である。
蒼井月彦と
あなたはオカルトの類を信じるか?
寒凪椎楽曰く、もともと私たち人間や動植物といった生き物の世界と、妖怪のようなこの世のものでないモノの世界は、文字通り分かれていたらしい。が、はるか昔、とまではいかないわりと昔。こちら側と向こう側が衝突して、中途半端に融合、癒着し、結果として視える人間やアヤカシモノ(向こう側のモノの総称らしい)にとっては『月』というものが二つあることになった……らしい。
それで。
蒼井月彦は幽かと言っていいほどにしか備わっていない霊感にもかかわらず、性質の悪いアヤカシモノにご馳走的な意味で熱烈に好かれる人間であった。命を狙われ喰われそうになったことは数知れず。それも、ろくに働かない霊感によって狙われていることに気が付くのは常に最終段階になってからというギリギリ具合。もはや14年間五体満足で生きてこれたのは奇跡といって差し支えなかった。そのうえ猫かぶりの完璧人間となっては、生きにくいことこの上ない。
寒凪椎楽はそんな月彦の世界に突然飛び込んできた異分子だった。私立結豪学園中等部3年に突如として現れた転入生。それが彼女だった。
「ねえねえ、キミ、なんてーの? いや、別に名前は言わなくてもいいんだけどね、キミさあ、エラいのに好かれたもんだね! あたしもここまで酷いのは初めて見たんですけど。いやあ……えっ、酷すぎ。おかしくない?」
ありがちな好奇心に突き動かされたらしい質問の渦の真ん中にいたはずが、彼女はいつの間にやら月彦の前に立ってそう言った。あとで聞いたところによれば、
「あー、なにが酷いかって? これはまあ、現在進行形でさ……今のあたしにも、蒼井のことが美味しそうにみえるよ」
らしい。この発言の意味を月彦が知るのは、また後の話だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます