第5頁:黒殀犬(1)

 醜い悲鳴を上げて、男の1人が倒れる。

「あ、あぁ……」

もう1人の男も恐怖に後退るが、尻餅をついてしまう。地面についた手の横には、悲鳴を上げて倒れたきり動かなくなった、仲間の体。見開かれたままの目、光を失ったその眼球が、心許ないランタンの灯りを照り返す。

「ひっ……」

男はすぐにでも逃げ出したかったが、体は震えるばかりで、言うことを聞かない。暗闇の中には、低い唸り声と、赤い目が1つ。

「ゆ、許してくれ!頼む!」

腰を抜かしたまま足掻き、なんとか逃げようとする男に、黒い体が近づく。

「助けてくれ!誰か!だ」

男の叫び声は断末魔に変わることすらなく、牙に殺された。血を滴らせた黒い犬は、重い雲を流し始めた風と共に、姿を消した。


 貨物船から降りたシーラは、肩の上でぐったりとした灰色の猫に、意識を集中させる。

(ベル、大丈夫?)

頭の中で話しかけると、同じように声無く返ってくる。

(気持ち悪……あの船乗り、運転が荒いんだよ……)

(荒かったのは海で、船長さんは良い人だったよ。)

(どこが!気色悪い顔で勝手に触りやがって……俺が船酔いなんて、あの船乗りのせいに違いない!)

(貨物船に無理言って乗せてもらったんだから、我儘言わないの。)

夕方を迎え、海はひと時の穏やかさを見せる。荷物運びに指示を出す船長は、その合間で、シーラに手を振った。シーラは彼に会釈を返し、街の方へと歩き出す。関所の兵士が、無言で通行料を箱に入れた黒いローブを注視する。しかし、肩に乗った美しい灰色の猫──ぐったりはしている──に見惚れたかと思うと、慌てて顔を引き締め、運ばれる荷物に視線を移した。

(やっぱり、飛ぶか泳ぐかした方が良かったんじゃないの?)

シーラは、関所で止められなかったことに安堵しつつも、兵士の数が少ないように思えた。海路での行き来が盛んな街と聞いていたので、海側の関所には多くの兵士がいるだろうと考えていたからだ。

(お前が船酔いになって、顔が一層白くなるのを見てやるはずが……ピンピンしやがって……)

(ちょっとフラつくけど……って、そんなこと考えてたの?自分のせいでしょ、それ。)

(ゔっ、るせぇ……)

 赤茶の屋根が坂に連なる港街。道沿いには海産物を売る店や、珍品を並べた露店、航行者が立ち寄る酒場などが多く並ぶ。人々が身に着けている服も様々で、黒いローブもさほど悪目立ちせず、シーラは幾分か気が楽だった。関所で止められなかったのもそのおかげだろうか、と彼女は思った。

 夜が近づき、急な坂に沿って並ぶ建物を、真冬の風が吹き下ろす。山上の雲を運び始めた冷たい風に、ベルは鼻をひくつかせた。

(シーラ。)

(なに?)

、山からだ。)

(それなら、街中に泊まった方がいいね。)

ベルの言葉が、悪魔の存在を示すものだと、シーラは知っていた。

「すみません。」

酒場の前で呼び込みをしていた女性に、声をかける。

「こんばんは、旦那様。お食事ですか?」

女性はシーラを〝旦那様〟と呼んだ。それもそのはず、女性に掛けられた声は、男性のものだった。口元を布で隠したシーラは、声を発していない。まさか、肩に乗った灰色の猫から声がしているとは、誰も思わないだろう。そのため、並の男性ほどの背丈をした黒いローブの人物が声の主だと、女性は自然と判断したのだ。

「いえ、宿泊を。」

女性の顔が曇る。

「えっと、ウチはごめんなさい。今日は埋まっていて。」

「どこか、泊まれる宿を教えていただけませんか?」

「……旅の御方ですか?」

「はい、海を渡って。」

そう聞くと、女性はわずかに緊張を緩めた。

「そうでしたか……言い難いんですが、今はどこも、旅人を泊めたがらないと思います。」

「なぜですか?」

「最近、山近くの旧道で、恐ろしい事件が起きていて。ウチも宿泊は、顔馴染みの方だけにさせていただいてます。」

「その事件は、憲兵の方々がお調べに?」

「いいえ、関所の兵士様方が調べておいでです。」

海側の関所に兵士が少なかったのは、山の方に人を割いていたからだと、シーラは感づいた。

「どうして、そんなことをお聞きに?」

「私は祓魔師をしています。山の方からたしかに、悪しき気配がしていますので。」

「まぁ、祓魔師の方でしたのね!あっ、そうだ。ここより山側にはなるんですが、友人が経営している宿がございます。それこそ今は泊まる方が減っていて、部屋が空いていると思いますよ。そんなところをご紹介するのも、失礼な話かもしれませんが……」

「いえ、ありがとうございます。場所を教えていただけますか?」

「そんな、ご案内いたしますよ。」


 シーラは、女性から紹介された宿の一室に泊めてもらうことになった。ベルは灰猫姿のままなので、1人分の料金を支払う。シーラは毎度、良心がやや痛むのだが。

「どうぞ、こちらのお部屋です。」

宿の主人は食事の乗ったトレイを片手に、部屋の扉を開ける。

「お食事、こちらでよろしいですか?」

「はい、ありがとうございます。無理を言ってすみません。」

主人はトレイを部屋中央のテーブルに乗せた。本来は共通の食事処で頂くことになっているが、シーラは人前でフードを脱ぐことができない。そのため、部屋で食事を摂れるよう、理由を付けて主人に頼んだのだ。

「いいえ!幼馴染からの紹介ですしね。それに、神父様にはどうか、この街の悪いものを祓っていただきたい。ただでさえ先代の市長がお亡くなりになって、淋しい雰囲気だというのに。さらにお客が減って、本当に困っているんです。」

「もちろんです。この御恩は、必ずお返しします。」

「よろしくお願いいたします。食器は部屋の外に置いていただければ結構ですので。では、失礼いたします。」

主人が部屋を出ると、ベルは灰猫姿まま、扉の前に座った。扉に赤く紋様が浮かび、燃え尽きるように消える。ベルが廊下と部屋を〝分断〟したのだ。と言っても、部屋が宿から切り離されて、どこかへ飛んでいったわけではない。術が解けない限り、扉は外から決して開かず、部屋の中での会話を盗み聞きされることもない、そういう状態になったのだ。

「はぁ……」

その様子を見守り、シーラは緊張を吐き出した。ローブと手袋を外す。女性であることを隠すためのそれらを整え、扉近くの小さなテーブルに置いた。

「すんなり宿が見つかって良かったな。」

いつのまにか青年姿になっていたベルが、食事として出されたシチューに千切ったパンをつけ、口に放り込む。ベルは悪魔であるため、人間と同じような食事は必要としない。味すらほとんど感じないはずだが、シーラの食事をよくつまむ。シーラは胸辺りまである白髪を緩く結び直すと、祈りを捧げてから、スプーンを手に取った。

「やっぱり宿を見つけるのは疲れるね。バレないか緊張する。」

ベッドに寝転がったベルは、静かにシチューを口に運ぶ彼女を横目に、鼻を鳴らした。

「まったく、悪魔祓いに女も男も関係無いってのに。そういうところ、人間は本当に馬鹿だよな。」

「しょうがないでしょ。祓魔師は男性しかなれないって、決まりがあるんだから。」

「それが馬鹿だって言ってるんだよ。俺だったら、むさい男になんか絶対祓われたくないね。綺麗な女の方が、〝祓われてみようかな〟って気にもなる。」

「気持ちの問題なんだ……」

「実際、どれだけ抵抗するかってのは、祓魔のし易さに関わるだろう?悪魔の中には、人間界に執着している奴もいれば、散歩気分のやつもいる。人間側もそうだ。望んで契約する者もいれば、侵食に抗う者もいる。」

口に運ぼうとしていたスプーンが止まる。シーラは指先が冷たくなるのを感じた。スプーンを下ろし、コップを手に取る。水を飲めば、体の中を冷たいものが通っていく。

「悪い、考えてなかった。」

「ううん、大丈夫。もう、3年も前なのにね。」

シーラは心を落ち着かせ、食事を再開する。ベルは失言だったと反省しつつも、それ以上何も言わなかった。

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