妖夢幻影
陰東 愛香音
序
忍び寄る闇
肌寒く感じる秋の夕暮れ。朧月夜の晩に“それ”は現れる……。
白銀煌く二尾の尾を揺らし、平安装束を身に纏う人狼。心静かに、雪の如く舞い散る枯葉の向こうに世界は繋がると言う。
「現世と前世の交差する百鬼夜行の夜は、阿鼻叫喚に染まる終末の始まりである。救われる術は、世に悪鬼たちが解き放つ白銀の人狼を狙い打て」
そう伝えられて約一千年が経ち、今もなお小さな神社に伝えられている。
人が簡単に立ち寄れない山奥と言う事もあり、当然ながら参拝する者もほとんどない。時折、山菜を採りに入るお年寄りが思い立ったかのように立ち寄って、軽くお参りしていく程度だった。
不便な場所に建つ妖封寺だが、手入れはきちんと行き届き境内も賽銭箱も、買いに来る者などいないのに置かれているお札やお守りも、埃ひとつ被ることなく綺麗にして置かれている。
森に囲まれ、落ち葉が絶えず降り注ぐ参道も綺麗にされ、掃いた落ち葉は敷地の脇に盛り上げられていた。これらは全て、この神社の跡継ぎでもある少女がやったことだ。
「すっかり陽が落ちるのが早くなったもんだなぁ……」
袴姿の初老の男が事務所から出てきた。彼はこの神社の現神主であり、正装である袴姿だった。
男は袂に腕を入れて暮れ行く空を見上げ、遠く東の空に昇りつつある月を見て深いため息を吐いた。
「もうそんな時期か……。ま、これまで何も無かったし、これからも無いだろう。それより、明日はこの落ち葉で焚き火でもするか。ついでにサツマイモがあったか、母さんに聞いておこう」
ふっと微笑みながらそう呟き、参道の脇を抜けて自宅に向かって踵を返した。
夕闇が迫る頃、自宅と併設している神社の裏からは何かが大きな物に当たるような小気味良い音が響き渡る。
そこには、巫女装束に身を包んで
長いストレートの黒髪を頭の上できっちりと結び、挑むような真剣な眼差しで姿勢良く引かれる矢の先には、巻き藁が一つ置かれている。その巻き藁には数本の矢が刺さっていた。
少女がその的を目掛けて放った矢は空を割くように素早く真っ直ぐに飛び、巻き藁の中央に鋭く突き刺さる。それを見届けると、少女はそれまでの凛々しさを感じさせる真剣な表情を崩し、年頃の少女の顔を見せて腕を下ろした。
「……ふぅ……」
弓を手に腰に構え、静かに身を翻して床を刷るようにして歩きながら道場の隅に退場した。少女がその場に座して装具を取り除いていると、ひょっこり入り口から着物を纏い頭の下でお団子に一纏めしている優しそうな印象の女性が顔を覗かせる。
「冴歌。終わった?」
冴歌と呼ばれた少女は、女性を振り返り微笑んだ。
「あ、お母さん。今片付けるところ」
「そう。ご飯もう出来てるから、急いでね」
母親もニッコリと微笑み返し、パタパタと自宅に通じる廊下を歩いていく。
冴歌は装具をひとまずその場に置くと、巻き藁の傍に行き矢を丁寧に引き抜いていく。そしてふと、空に目を向けるとそこにはもうじき満月になるであろう大きな月が昇りかけていた。
「おっきい月……。何だっけ。確かテレビで、明日はスーパームーンとブルームーンと、皆既月食も重なる珍しい夜だとか言ってたな」
そんな事を呟きながら、引き抜いた矢を手にぼんやりと空を見上げる。
吸い込まれそうなほどのその大きな月を見ていると、心が洗われるような気持ちになった。
サワサワと音を立てて、月と星の明かりの下に浮かびあがるような木々が風に揺れる。
思わず目を閉じて静かな夜の冷たい空気と、神聖な光を受けながら木の葉の擦れる音や落ち葉が舞う様を想像すると、もはや「神秘」と言う言葉しか思い浮かばない。
冴歌はこの夜の静かな時間がとても好きだった。まるでこの世界に自分だけがいるようで、とても落ち着く。
「冴歌~! ご飯~!」
この時間に酔いしれていると、ふいに遠くから自分を呼ぶ声が聞こえ強制的に現実に引き戻された冴歌はパッと眼を開き、慌てて大きな声で返事を返す。
「は~い! 今行きま~す!」
矢を手にパタパタと道場へ戻ると脱ぎ置いた装具を手に取り、姿勢良く道場に礼をしてその場を後にする。
その冴歌が、もう一千年近くも伝えられている伝承によもや遭遇する事になるとは、当然ながら誰も思いもしなかった。
明かりが落とされ、誰も居なくなった道場に強い風が吹き、地面の落ち葉を吐き流す。木々の枯葉は風に煽られて空へ舞い上がり、雪の如くひらひらと舞い落ちる。
明日は、世にも珍しい満月の昇る時。
ひっそりと近づいてくる不穏な影は、もうすぐそこまで迫っている。
舞い落ちる枯葉吹雪の彼方に、その道が通じようとしていた……。
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