十九、新井尚也

 ベッドに仰向けになって、白い天井を眺めていた。もう小一時間はそうしている。

 「会」が終わってから、初めて自分の家で迎える朝だ。


「俺は、兄ちゃんに、どうしても生きて欲しいんだ」


 いつかの、弟の言葉を耳で反芻する。

 わがままだったが、根は優しい奴だった。弟の名前は、昌也(まさや)といった。僕は、彼のことを「まさ」と呼んでいた。

 幼い頃、まさと過ごした遠い昔の記憶。この天井のように、真っ白な景観。



「んー!おいしー!」


 口の中いっぱいに、あんこの甘い味が広がる。

 神社の本殿の縁側に座って、巫女にもらった桜餅を頬張っている。隣には、歳が四つ離れた弟のまさが座っていた。

 辺りは、雪で真っ白だった。

 神社の境内には、僕とまさの二人でこしらえた雪だるまが、合計で三体立っている。

 うちは、両親が毎年、神社に対して多額の寄付をする契約を結んでおり、そのおかげで、僕たちは神社に遊びに行くと可愛がってもらえた。

 まさは、神社に行くと巫女がもってくる桜餅が、大の好物だった。


「尚也くん、いっぱい食べていいよ」


 巫女のお姉さんが、僕に優しく微笑みかける。その整った顔立ちに見惚れてしまって、僕は少々、お姉さんの顔をじっと見つめていた。白い肌が、透明で透き通っていた。


「尚也くん、ボーとして、どうした?」


 そう言われて、僕は我に返り、すぐさま彼女から目を逸らした。


「いや、別に。お姉さん、世紀のブッサイクだね。宇宙一、といっても言い過ぎじゃないよ」


 僕はそう言った。お姉さんのほうを見ないように努めていたので、彼女がどんな表情をしているかはわからなかった。彼女は、僕を咎めることはしなかった。

 それから、僕は縁側から降りて、一目散に走り出した。神社の境内を、ぐるぐる、ぐるぐると回った。

 僕のこんな突拍子のない動きにも、お姉さんは慣れていたのだと思う。


「尚也くんは元気だねえ」


 そう言って、僕の代わりにまさの隣に座った。


「お姉さん、五個目、食べちゃダメ?」


 まさが、お姉さんに桜餅をねだっている。

 神社で出される桜餅が大好きなまさは、際限なく食べてしまう。以前、お母さんから怒られていた。


「あら。ご飯食べれなくなっちゃうわよ。また、お母さんに怒られちゃうから、今日はこれでおしまいよ」


「えー」


 まさは嘆き声を上げ、しょんぼりと俯いた。

 その動作をみて、愛くるしかったのか、お姉さんはまさの頭を撫でた。


 いっぽう、僕は、相変わらず境内を走り回っていた。



 寝室の真っ白な天井が目に飛び込んできた。

 いつまでも昔の記憶に浸っていたい僕としては、気持ち良く寝ていたところを起こされたような気分になった。

 というのも、玄関のチャイムが鳴ったのである。


「ピンポーン」


 一体誰だろう。僕の家に尋ねてくる相手。れおさんかな。

 インターホンのモニターを見たとき、僕は驚きのあまり、目をかっと見開いてしまった。玄関の前に立つその人に、見覚えがあった。

 その相手は、まさだった。


 車椅子に乗る手もあったが、まどろっこしく思い、床を張って玄関まで行った。長い人生のうちで、あんなにも急いだことはないのではないか。

 はやく。はやく。心が体に発破をかけ、気が狂ったように床を這った。


「まさー、いま開けるぞー!」


 玄関の前までたどり着くと、僕は大声で叫び、ドアノブのつまみに手をかけ左に回した。

 扉を開けると、そこには生前の彼と何ら代わりのない、まさが立っていた。僕は、茫然として固まってしまった。

 まさは、しゃがみ込んで、僕の瞳を真っ直ぐにのぞき込んだ。そして、僕にこう言った。


「兄ちゃん、ありがとう。俺、兄ちゃんに会いに来た」


 そう言ってから、僕の胴を少し持ち上げ、僕の体を抱きしめた。彼は、僕の背中を、ぽんぽんと、軽く手のひらで叩いた。


「兄ちゃん、俺、今日いっぱいで消えるんだ。一緒にしたいこととかって、ある?」


 まさにそう尋ねられた僕は、とっさにこう答えた。


「一緒に甘味処に行こう。僕が、まさが腹一杯になるまで、桜餅奢ってやる」


 そう言い切ってから、僕の瞼からは、大粒の涙がぼどぼど零れた。一度零れ始めた涙は、やむことを知らず、次から次へと僕の頬を伝った。知らぬ間に、咽びあげていた。

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