第七話 人でなしの義兄
夢を見た。
それは僕が日本にいた頃の懐かしい記憶だった。
「──あら、
個室病棟の扉を開けて中に入ると、そこには義理の妹がいた。
ベットの上の彼女の手には栞の挟まった本があった。
どうやら本を読んでいたようだ。
題名はヘミングウェイの『誰がために鐘はなる』だ。たしかの彼女の愛読書の一つだったはず。
「久しぶり……ということもないだろう? ちゃんと定期的に顔を見せにきてるじゃないか」
「月に一度を定期というなら、そうでしょうね」
「もう家族は私たちだけだというのに……薄情な肉親もあったものね」
僕のとっての義理の両親──叔父夫婦は何年も前に交通事故で他界していた。
今となっては僕の身内は彼女しかいない。
「ところで手術の経過はどうなんだい?」
「一応順調よ。お医者様の話だと一時退院できるかもしれないんですって」
義妹の身体は弱く、幼い頃からずっと入退院を繰り返していた。人生の半分以上を病院で過ごしているようなものだ。
「……ふん、らしくないわね、義兄さん。言いたいことがあるなら言ったらどうかしら」
流石に長い付き合いだ。
僕の様子が普段と違うことをすぐに看破したらしい。
「実を言うとね。──今生の別れを言いにきたんだ」
冗談めかして言ったが、その言葉は本心だった。
義妹の表情が険しくなる。僕の言葉が本気だと分かったのだろう。
「いったい、それはどういう――」
「少し厄介な探偵に……女に目を付けられてね。一年後か、さては五年後か、いつかは分からないけど、僕はきっとあまり好ましくない自体に直面するだろう」
「好ましくない……という割には随分と嬉しそうな言い方なのね」
「ははっ、かもしれないな」
当然だが義妹には僕が殺人鬼なのだということは言っていない。
だがあの女に目を付けられた以上、僕の先はあまり長くはないだろう。
いや、あるいは僕は自身の凶行を止める人物を探していたかもしれない。
「好ましくない自体に直面した時、きっとマスコミは僕のことを嗅ぎ回すだろう。だからお前と僕はもう会わない方がいい」
「そんな馬鹿なことを……と言っても、どうせ義兄さんのことだから全部準備は済ましているのでしょう?」
「正解だ。義父さんたちの養子縁組はもう解消してある。死後離縁という奴だな。戸籍上は僕の関係者を追えなくなっているはずだ」
「義兄さんが、何をしたのか、あるいは何をしているのは知らないけれど、どうせろくでもないことなのでしょうね。……ふん、もし誰かが義兄さんのことを訪ねてきたら『いつかやると思っていました』って言ってやるわ」
義妹の声は強がっているようにも聞こえた。
僕は義妹に背を向けた。
「それじゃあ……達者で」
我ながら呆れる。
これが今生の別れならもっと言いようがあるだろうに。
「あっ──」
僕の背後で息を呑む気配があった。
そして数瞬の後、絞り出すような声音で、
「──さようなら、人でなしの義兄さん」
彼女は僕に別れを告げた。
*****
目が覚めた。
周囲を見渡すと、そこはクロムバッハ邸の僕の私室だった。
「……随分と懐かしい夢を見たな」
ベットを上で僕は自分の手の平を見る。
当然だがその手はまだ慣れることのない十歳の子供の手だった。
僕は夢を見ることが少ない。そういう性質なのだろう。だから過去の夢なんていうのは今までほとんど見たことがなかった。
「……それにしても、人でなしか」
夢の内容を思い出す。
あれは何年前のことだったか。
殺人鬼は、人を殺す鬼と書く。つまりは人ではないのだ。
言い得て妙だな。
今となっては、義妹が僕のことをどれほど理解していたかは分からない。僕は殺人鬼としての自分を必死に隠し続けていたが、存外筒抜けだったのかもしれない。
「今になってこんな夢を見るなんてな」
なんとなく心当たりはある。
「……ノアか」
そうおそらくは彼女が原因だ。
顔も性格も歳も、全てがまったく違う。
だがそれでも僕はノアに義妹を重ねてしまっているのだろう。
だから今更あんな過去の夢を見る。
「……まあ僕を引っ掻き回すところは似ているかな」
義妹も病弱なくせに──というか身体弱いからこそなのか──僕を色々なことに引っ張り回した。車椅子でしか移動できないような身体なのに、富士山に行きたいとのたまう病人がどこにいる。
私室に設置された振り子時計の時刻は、深夜を示している。
「……しょうがない、少し散歩でもするか」
どうにも目が冴えてしまった。
多少でも歩けばまた眠気が戻ってくるだろう。
*****
深夜のクロムバッハ邸の廊下は必要最低限の灯りしか付いていなかった。
当然のことながら誰もいない廊下はしんと静まりかえっていた。草木も眠る、という奴だろうか。
それにしても、この世界でのランプの燃料はなんだろう?
僕の世界でのランプ燃料は、近世まで主に植物油や鯨油などという液体燃料を使ったものだったはずだ。
だがこの世界でのランプの燃料に当たると思われる部分には浅黒く光る石があった。そこから管のような物が伸びて、先端で淡い光を放っている。
これも異能というモノなのだろうか。謎だ。
「えっほ♪ えっほ♪ えほえっほ♪」
「なんだこの声?」
そのまま深夜の屋敷散歩を続けていると、廊下の奥から奇怪な声が聞こえてきた。
気になった僕は足を早めて奥に向かう。
──そこにいたのは大きな黒い犬だった。
なぜ屋敷の中に犬が、と思ったが妙な点は他にも沢山あった。
まず身体がデカイ。
大きさは例えるならばライオンぐらいだ。
それならば犬というよりは巨大な四足獣という感じだが、輪郭が犬っぽいのだ。
ちなみにどうして、犬っぽいというはっきりしない認識なのか?
それは、身体を形成する輪郭が陽炎のように揺らいでいるせいだ。
イメージとしては揺らめく炎で映し出された影絵の犬、といったところか。
「あらよっさ♪ あらよっさよいよい♪ オレちゃんはスーパー超絶有能の♪ 空前絶後の使い魔だァっと♪」
また驚くことに影絵の犬から触手のようなものが沢山伸びていて、一つ一つが独立した動きをしている。
床の掃き掃除、窓ガラスの雑巾掛け、調度品の手入れ、天井拭き。あらゆることをマルチタスクにこなしているのだ。
なんだろう、この世界に来てから不思議なことを色々見てきたが、これが一番強烈かも知れない。
「おん?」
あ、マズイ、目が合った。
影絵の犬が沢山伸ばしていた触手のようなものを一斉に引っ込めた。
「おっ? おっ? 坊ちゃんじゃんよゥ、何で起きているんだい? なんつってなァ」
謎の犬がどんどん僕に近づいてくるが、近づいた分だけ僕も距離を離す。
「ウケケケッ! どぼじで逃げるのォ!」
どうしてって……そりゃ訳の分からない生物がいきなり近づいてきたら警戒もするだろうさ。まるでホラー映画のモンスターに出くわしたような気分だ。
「……き、君は一体に何者なんだ?」
とりあえず友好的っぽいので言語でのコミュニケーションを取ることにする。
「え、オレちゃん?」
犬がきょとんとした様子で首を傾げる。
「あ、そうか、そういや直に会うのは初めてか。いや悪りィ悪りィ、そりゃこの姿じゃ驚くよなァ」
何を納得したのか黒犬がうんうんと頷く。
「──なっ!?」
黒犬が突然球体の黒いドームのようなものに覆われる。
数秒して黒犬を覆っていたドームが消え去るが、中から出てきたのは十歳ぐらい黒髪の少女。黒を基調とした北欧の民族衣装のような物を着た女の子だった。
「よっす、オレちゃんはネフェ公の使い魔のヴァーゲストってんだ、よろしくな」
烏の濡れ羽色のような黒髪をした少女が、けらけらと軽快に笑う。
「ネフェ公……ネフェラの使い魔なのか、君は」
「まーな、ケケケッ、つってもオレちゃんの方がネフェ公よりも何倍も年上だけどなァ。オレちゃん、アイツのおねしょも片付けたことがあるんだぜ。てか坊ちゃん使い魔って何か知ってるか?」
「いやまあ、何となく」
僕の知っている……というかファンタジー小説に出てくるような使い魔は、魔女の黒猫やカラスといったものだったが。
「……いや待て、君は僕が異世界から来たことを知っているのか?」
「んあー? んなもん、当たり前だろ。坊ちゃんが水槽にぷかぷか浮いてる頃から面倒見てたんだぜ、オレちゃんは」
水槽……あれか、僕を赤子から今の状態に成長させたとかいう奴か。
「何か問題が起こるとメンドイからなぁ。ネフェ公と交代で一日中付きっ切りで様子を見てたんだぜ。おろろ、あんな(物理的に)小さかった子がこんなに大きく育って……」
安っぽい泣き真似をするヴァーゲスト。
なるほどな。つまるところ彼女(?)もゲオルグ達の関係者ということなのだ。
さっきから僕のことを坊ちゃんと連呼するのも理解できる。
「……っと、オレちゃん、本当なら坊ちゃんと話しちゃいけないんだった。ったく、ヒデェよなァ、『お前は刺激が強すぎるから、アインスお坊ちゃまが落ち着くまで大人しくしているのでございますよ』だってよぉ」
不満そうに不平を述べるヴァーゲスト。
まあたしかに分からないでもない。異世界に来て一発目であんなホラー映画のモンスターみたいのに遭遇したら人によってはトラウマものだろう。
「んでよォ、坊ちゃん、なぜなにどうしてこんな夜遅くに出歩いてるワケ? 小腹でも空いた? オレちゃん何か作る?」
「……いやまあちょっと」
僕は言葉を濁した。
昔の夢を見て目が冴えたとも言いづらい。
「ふーん、坊ちゃん寝付き良いのになァ、めずらし」
「なんで君が僕の寝付きを知っているんだよ……」
「えー、だってオレちゃん、基本坊ちゃん寝静まってから動いてたしなぁ、たまに部屋とか覗いてたんだぜェ」
こわっ。
今の少女みたいな見た目ならまだしも、さっきの巨大犬の姿で僕の部屋に入っていたとしたら、それを見た瞬間に卒倒しそうだ。もはやコズミックホラーの世界である。
「お、そうだ、丁度良いし、坊ちゃんにお使い頼んでもいいか?」
「お使い? こんな時間に?」
ヴァーゲストの唐突なお願いに僕は驚いた。
「そそ、ウチのお姫様に差し入れってなァ」
けけけっとヴァーゲストは愉快げに笑った。
お姫様? いったい誰のことだ?
ヴァーゲストは、懐から握り拳ぐらいの大きさの巾着袋を取り出したかと思うと僕に渡してきた。
「ちょ、ちょっと、いきなり渡されてもなんのことだが……」
「使用人棟の屋根裏部屋。そこにいきゃ分かるぜ。んじゃまオレちゃん、掃除の続きがあるからな行くな。じゃーな、坊ちゃん、失敬ドヒューン」
自分の口で効果音を発しながら、ヴァーゲストがまた黒犬に変身(?)して走り去っていた。
「……いったいなんだったんだ」
一人取り残された僕はただ呟くしかなかった。
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