もう一つの土曜日

藤原 忍

第1話


半年前

 本当だったら、もっと休んでほしいんだけど。

 真美はそう言ってくれたけれど、サポートしてくれただけでも充分。私はそう言って、真美にお礼を言って一緒に暮らした街を後にした。

 冬の京都に背中を押され、私は東京に向かう。







現在、梅雨入り宣言を待つ東京。月曜日。

 狭いエレベーターの中でよいしょ、と持っていた段ボール箱をゆすり上げる。月島智子にとっては重くはないが、段ボールは持ちにくい。そして、データ化しにくい資料やポスターが詰まっている。

 よくぞこんなものを残しておいたものだ、と智子は思う。


 いつものフロアでエレベーターを降りて、自分の営業事業部のブースに行くと空いている机の上に智子はひと抱えの箱を置いた。

「お、サンキュー」

「戻りました」

「お、月島、お疲れ」

 会社の建物と隣接する商品用のバックヤードの一部に、会社の必要資料や保存資料が置かれた「倉庫」の中から発掘したのはかなり前のプレゼン資料で、記録メディアの他にポスターやらチラシやら、ノベルティの現物もあったのだ。

 ただ、資料目次があるとはいえ、それがどれだけ大変な仕事だったのか、知っている営業マンたちが智子に対して「お帰り」と声をかけてくれたり、ちょっと手を上げてくれたりして労ってくれた。

「ありました、倉庫にちゃんと」

「時代の遺物かと思ったんだが、プレゼンに必要だったんでな、悪い。キタさん、手伝ってくれたんだろう?」

「今度コーヒーおごれ、って伝言預かってきました」

 倉庫にいたのは定年退職後、嘱託職員として倉庫番を務めている男性社員で、今現在、このプロジェクトのチーフを務める高杉健介の指導社員だったトップセールスマンだった男だ。事前に話を通しておいたせいもあって、話がスムースに進んだし、探し物も思ったよりも早くに見つかった。

「ああ、今度ケーキを差し入れに持っていこう。アノヒト、お酒飲めないんだ」

「絶対そういうから、そこのコンビニのチーズケーキにしてくれって言ってましたよ」

 智子の答えに、高杉はくすりと笑った。つまりは、いつでも頼ってこい、という返事だと。彼らしい懐の深さだ。

「戻ったところ悪いが、田辺のフォローに入ってくれないか?あれじゃぁ仕事が終わらん」

「了解しました」

 智子は上司の命令を受けて田辺のデスクに向かった。



 智子の仕事は、事業部の営業事務だ。事業部の仕事は、平たく言えば国内外から集まった商品を日本国内の卸問屋や販売店に販売することである。一般的に卸問屋と呼ばれる業態である。

 その中でも、智子が扱うのはバイヤーたちが買いつけた商品を卸問屋や販売店にプレゼンして販売することである。智子や高杉が扱うのは酒類を扱うことが多い。


 智子は事務職で、高杉チーフは営業部の課長で今回のプロジェクトリーダーである。

 今回扱うのはほぼ10年ぶりともいえる、イタリアンワインである。久々に手掛けるイタリアンワインの売り出しに、高杉の元に集まったのは自薦他薦問わず、凄腕の営業マンもいた。

 自然、営業事務職も新人では務まらない。高杉の社内人気や、トップセールスの営業マン同士、ライバル合戦火花バチバチ、なんていうことがあるので新人事務職は胃潰瘍並のストレスを味わう羽目になるので中堅か古株の仕事となる。

 もちろん、営業にいる「イケメン」目当てで寄ってきた営業事務の女性陣もいたが、メンバー選出の段階で高杉は仕事のできる面々を選んでいる。もちろん、営業事務のメンバーも、チーフクラスの3人が選び抜いた人選で、ほかの仕事に影響が出ないように組み替えていた。


 特に、トップセールスのツートップと言われている田辺と横内の二人が加入しているとなると人選は慎重にもなる。

 この二人は、若手の営業事務からすると敬遠したいタイプの営業マンだ。いくら優秀な高杉とツートップの田辺と横内がいるとはいえ、三人は営業事務に対する要求のハードルが高い。特に横内と田辺はプレゼン資料も、前段階の情報収集も、そのまとめ方も、他の営業マンと比べても一歩踏み込んだ内容を要求してくるのだ。

 それがすべて採用されれば良いのだが、却下されることも多い。労力に対して認められることが少ない仕事と、営業事務ではやりがいがある仕事とは微妙に外れていると彼らは評価しているので、二人とチームを組むのは避けられてしまっている。

 智子はそうじゃないんだけどなぁ、と思いながら彼らと組むことが多い。時々、若手の事務を引っ張り込んで仕事を教えているが、「気が付いた」事務の面々がいないこともない。ただ、それだけの実力がないために、今は智子のサポートを受けながら二人について仕事をしている。


 入社以来、高杉に預けられた智子は、営業事務として徹底的に鍛えられた方だ。今は重役になっているが、部長や課長を歴任した柊や豊岡も容赦なく智子を鍛えた。キタさんこと北本も同類である。

 もちろん、仕事を教えてくれたのは先輩営業事務の面々だが、新人に仕事を教えるからと言って、自分が手掛けるプロジェクトや、田辺のプロジェクト、横内のプロジェクトにどんどん組み入れられ、経験を積まされた。それは智子が特別ではなく、他の営業事務の面々も同じなのだが、途中で「脱落」する面々もいる。もちろん、彼らは営業事務としては優秀で、途中で引き抜かれて別の事業部に行ったりして今はオールマイティに活躍している。


「ねぇねぇ、聞いた?総務の三谷さん、取引先の重役令嬢と婚約したんだって」

「えー?三谷さん、って、手続き関係をやっている人だよね?」

「そうそう、きれいな字を書く人。なんでも重役が是非うちの娘と会ってくれってことで見合いが決まって、そこからとんとん拍子で婚約になったんだって」

 申請伝票の処理で経理課から来た事務員が、ふとこぼした話だった。

「いや、あなたたち、不確定な話をしちゃいけないでしょう?」

 注意したのは、事務トップスリーの一人、鳥飼だった。

「だって、本人が総務部で大々的に挨拶していましたよ?部長なんて喜んじゃって」

「え?」

「昨日、正式に結納を交わしたんですって。仲人は柊専務だそうですよ」

「そうなの」

 鳥飼がぎこちなく返事をした。

「では、修正伝票預かります。ありがとうございました」

 経理課の事務員が帰った後、固まったように動かなかったのは智子だった。


 総務課の三谷は、智子の恋人だ。つきあって2年とちょっとになる。

 最も、社内恋愛なのでオープンな交際にしていない。「何か」あったときにプライベートをさらすのは嫌だという三谷の意見と、仕事とプライベートは別だという智子の意見が一致してオープンにしなかった。

 だから、社内で交際を知っているのは智子が信頼している5人だけだ。


 先週木曜日、週末は会えないからと仕事が終わった後でデートしたのは何だったのか。

 ちょっとまだ信じられない。


 ギシギシ音が鳴りそうなほどぎこちない動きで携帯を手にトイレに駆け込んだ智子は、仕事中、電話はできないことを考慮して、いつ見ても良いようにとメッセージを送っておく。

「至急連絡ください」

 たったそれだけの文字。

 無機質な文字だけれども、智子と三谷を結ぶ文字だった。



 だが、その後、智子が電話をかけてもメッセージを送っても、三谷からの返信は一切ない。

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